おれのようなものでもたまには宇宙のことを考える。いや、おれのような現実世界に対応しきれない落ちこぼれこそが宇宙のことを考える。ところが、現実世界に対応して宇宙のことを考えている偉大な知能の持ち主たち(マンハッタン計画に参加できるような人たち)とは違って、落ちこぼれが宇宙のことを考えても、「宇宙は関東平野より広いのだろうか。きっと広いはずだ」ということくらいしか思いつかない。なので新書などを読む。新書はそのようなもののためにある。
して、おれは二冊の本をチョイスした。そして、上に並べた順番通りに読んだ。その点でおれに間違いはないと断言できる。前者は人類の宇宙観から、「A-Word」と呼ばれるくらい学者たちに警戒されていた「人間原理」というものが許容されるまでを、丁寧に説明してくれている。
……おれにはさっぱりわからんが。
で、二冊目である。こちらの本はすごいスピードで「マルチバース宇宙論」に向かって走る。一つのセンテンスで新書一冊か、というスピード感だ。知ってるよね? 知らないならWikipediaでも読んでよ、という感じだ。図などもたくさんあるが、はっきり言ってすべてわからん。
……というわけでおれにはさっぱりわからんが。
わからんが、たまには宇宙、というか世界のことを考えるのも悪くない。考えるというのもおこがましい。感じるというか、触れるというか、覗いてみるとか、そんなんだ。ああ、人間の宇宙観というものはこうなっているのか、なんとか物理学とかの世界では、世界はこんなことになっているのか、ということがちょっぴりわかる。その素材も調理法もわからないが、ちょっとバングラディシュ料理の店でランチを食べるくらいのことだ。
もちろん、おれより賢い人にとっては、もっとわかることはわかるだろうし、納得も多く、疑問点も多いだろう。おれにはそのどちらもない。言うまでもないが、おれは算数と理科を小学生のころに挫折というか筋断裂というか屈腱炎した人間である。なので、おれにとってこういう本はSFを読むのに近い。ダークマターとはそういうものか。この宇宙は初期の密度の10万分の1の残りかすにすぎないのか。異なる性質を持った10の500乗の宇宙があるのか。あらゆる可能性があるのか。
……あれ、これってなんかブランキの『天体による永遠』みたいじゃないか、などと思ってしまった。
一つの地球があって、そこでは一人の人間が、他の地球で他のそっくり人間によって見捨てられた道を歩いている。彼の人生は天体ごと二分される。そして、二度目、三度目の分岐を行い、何千回も分岐する。彼はそのようにして、完全に瓜二つの自分と無数の瓜二つの変種(ヴァリアント)を手に入れる。この変種の方は、彼の人格を絶えず増殖させ、再現するけれども、彼の運命の切れっ端しか獲得できない。この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所で我々がそうなっていることである。無数の地球上に存在する、誕生から死までの我々の一生のほかにも、他の何万という異なる版の我々の一生があるのである。
ルイ・オーギュスト・ブランキは19世紀フランスの実践的革命家である。33年牢獄に入ってた。おれには何人か「尊敬する人」欄に書き込みたい名前があるが、そのうちの一人だ。ふと、そんなやつの突拍子もない宇宙論を思い出した。
まあ、どんなふうにでも、たまには宇宙や世界のことを考えてもいいだろう。とてつもないスケールで。それでどうなるというわけでもなしに。