1
帰り道のことである。八時を過ぎたあたりかどうか。横断歩道を渡ると、そこにいた女の子二人に声をかけられた。背の高い女の子。Excuse me...。日本語は通じない。バックパッカーだ。道に迷っている。目的地は駅でも中華街でもない。宿だ。ネット予約したページのプリントアウトを見せてもらう。ホテル、いや、ホステルとある。場所はMatsukage choとある。松影町。恥ずかしながら、俺は松影町がどこにあるのかさっぱりわからなかった。ついでに、一緒に帰っていた女の人もわからないという。ここらの地名はみんな似ている。iPhoneのマップで中区松影町と入れる。寿町に隣接した、川の方だ。地図を見せる、「まっすぐ、ストレート、アンド、レフト」などと言う。俺は英語を喋ることできぬ。OK, Thank you,アリガト。彼女らは道を渡っていった。
しばらく進み、同行者が駅の方に行き、一人になって、やはり彼女らが気になる。なにせ寿町を突っ切るのだ。寿町がどんな場所かご存じか。俺にもよくわからない。
2
……ここらあたりに引っ越してきたころ、偶然迷い込んだことがあった。昼間だ。そのときに感じた空気というのは、今までに感じたことのないものだった。まったくの異世界に入り込んでしまった、そんな風に感じた。実家を失い、これからどうなるかわからぬという不安の中、ただでさえ見知らぬ街の、おおよそ普通ではない寿町。あのときのショックをいまだに引きずり、どうも中を通過するだけで緊張するのだ。もっとも、一方でずいぶん寿町の実態が見えてきたという気もしている。多いのは老人だ。ともかく老人ばかりだ。老人ばかりが、朝も昼も夜も午前三時も明け方もうろうろしている、そんな感じだ。むしろ深夜や明け方は、人の姿に安心するくらいになった。そしてただ、手ぶらで外を歩いているだけだ。なんてことはない、俺の大好きな競馬場の一角みたいなもんだろうし、だいたい俺はそこに溶けこむタイプの人間だ。結果、今やボートピアで一緒に舟券を買うようなことにもなっている。だいたい、わざわざ賭場まで出かけるという点で、花月園に来ているおっさんらの方がアグレッシブであって、寿町は、なんてことはないんだ……。
が、やはり気になった。たぶん、なんということもないだろうが、なにかあったら後味が悪い。自転車を右に切って、夜のドヤに入った。今考えてみれば、まさに松影町からの進入。松影町というのは、俺が一年三百日以上通っている場所だったのだ。まったく。
3
夜のドヤはやはり人がちらほらいる。寿町のあたりは、どうもロールプレイングゲームの街のようで、あの中では用もないのに人がうろうろしていて、それに似ている。暗い。それらしき宿泊所はないかと目をちらちら建物を見て進む。いくつかある。ただ、肝心の目的地の名前は聞いていない。とりあえず彼女らを探そうと、北上する。いた。……なんと声を掛けていいかわからない。まさかエクスキューズミーではないだろう。しかし、アメリカ人でもあるまい「ヘイ!」というのも変だ。結果、「あのー」と言った。「あのー」。
彼女らはふりかえる。一瞬、緊張したのが見て取れる。さっき道を聞いた人間と同定すると、少し笑顔を見せる。「道、わかんないだろうし、宿を一緒に探しましょう」と、俺。日本語で。「ゴメン、ワカンナイ」と一人の子が返事。「あー、うー、あー」、言葉が出て来ない。そして俺は、「アイ・ヘルプ・ユー」と言った。「アイ・ヘルプ・ユー」。Thank you. 通じた、のか。
俺は自転車を降りて、一人の子と並んで歩く、もう一人の子は少し後ろ。俺は急に自分から飛び込んだくせに、シチュエーションを処理するのにいっぱいいっぱい。だいたい、場が悪い。それでも、無言というのもまずい。自分が怖がられているかもしれない。
向こうが声を掛けていた。もう、何語できかれたのかも覚えていない。流暢に聞こえる英語か、それとも簡単な日本語だったか。「ここに住んでいるのですか?」。俺は、日本語とつたなすぎる英語のチャンポンで答える。「住む」という言葉に対応する英語がわからない。「ここには住んでいない。オーバーゼアに住んでいる。ここは少しデンジャーだ。ここにはあまり来ない。ここ、スキッド・ロウ」。
今度はこちらから問いかけてみる。「ホエア・ドゥー・ユー・カム・フロム?」、「タイワン!」。「オー、タイワン!」。……。……。……(私はもう一台自転車を持っていて、台湾のジャイアントという会社のものです。台湾はすばらしいところと聞きますし、一度行ってみたいものです。ところで、その紙袋は鎌倉のものですか? 私は鎌倉に二十年も住んでいたんですよ。日本の感想はどうですか)……って英語でなんて言うんだろう?
4
闇の中のおっさんをナイト気取りで目で牽制しつつ(牽制する必要もないのだろうけれども、遠巻きに様子をうかがわれると、どうも)、このままでは埒があかぬと思う。ジェスチャーでプリントアウトを借りる。なんとかホステルとあるので、iPhoneを出して名前を打ち込む。一つホステルが出てくるが、名前が違う。と、電話番号が目に入る。....-45-....、国番号つきだと0が省略されるのかどうか、たぶんそうだろう。こいつが045だ。考えてみればiPhoneは携帯電話だった。電話をかける。これで英語の返答があったらどうしよう。トゥルルルルル……、ガチャ。「ハイ、○○です」。オー、ニホンゴー。恥ずかしながら、紙を持つ自分の手はすこし震えていた。さまざまな要因によって。
「すみません、道に迷ってしまったので、場所を教えてほしいのですが」、「ご予約のお名前は?」、「いえ、迷っている旅行客の方を、危ないので送ろうと思いまして……」。……危ないので、というのは失礼だったかもしれない、などと思う。口が滑った。周りに見える簡易宿泊所の名前を言い、ちょっと説明を受けてすぐわかる。看板の光が見える。あれだ、たぶん。そちらに足を向ける。
……と、ここまで、俺一人でことを進めてしまう。電話だって、まあ俺の動作を見ていれば、どこにかけているかくらいわかるだろう、わかってください、すみません。どうも申し訳ない。とはいえ、言葉が出てこない。「メイビー・ザット・イエロー・カンバン」くらい言ってもいいのだろうが。「オーケー・ゴー」くらいは言っただろうか。
看板が近づく、指さす。「アー、アー」。たぶんあれなのだが、俺はこのところ視力が落ちていて、字が読めぬ。けれども、どうもそのようだった。俺はホッとした。心底ホッとして、自転車にまたがった。彼女らは二人でなにか向こうの言葉で相談しているようだった。「じゃあ、これで」Thank you.「どういたしまして」。Bye-bye、「バイバイ」。Bye-bye、「バイバイ」。何度かバイバイを繰り返し、手を振った。「ハブ・ア・ナイス・トリップ」くらいは言ってもよかったかもしれない。「グッド・ラック」だの「ゴッドスピード」では大仰だろう、か。いや、たかだか台湾→日本の距離だ。地球の裏側から来たわけでもない。もっとも俺は、修学旅行で訪れた鹿児島より南に行ったことがない。
すぐにいつもの道に戻る。俺はホッとして、それでも動悸がおさまらない。