もう二十数年前になるだろうか。日本語学校に勤務していたときのことだ。
自分の価値観を試されるような出来事があった。
ことのはじまりは1本の電話だ。
近くの量販店からで、とにかくすぐに来るようにとだけ言われ、ガチャンと切れた。
なんだろう?
いやな予感はたいてい当たる。
店長の指し示す先には、化粧品が5、6個、無造作に並べてあった。
口紅、マニキュア、アイシャドウ……。
不審な様子に気づいた店員が、手提げ袋に入れるのを見届けて、声を掛けたのだという。
「どうして?」
思わず呟(つぶや)いていた。よりによって、なんで彼女が?
アミさん(仮名)は優等生だ。成績がいいだけでなく、人望も厚い。裏表がなく骨惜しみせずに働くので、バイト先の飲食店からも信頼されていた。それにいつもTシャツにジーンズで、化粧っ気などまるでない。
それなのに、なぜ?
「すみません。どうしてかわからない。わたし初めてです。もう絶対やりません。許してください」
ぎこちなく言葉をつなぎながら必死に訴えるアミさんの目からは、今にも涙が溢れそうだ。
「こう言ってますし、なんとかご配慮いただけないでしょうか。お代はもちろんお支払いします。ふだんは真面目で、すごくがんばり屋の学生なんです。どうか穏便にお願いします」
「えっ? まさか先生、この子の言うこと信じてるの? 初めてのはずないでしょ」
初めてだったら、1個か2個がせいぜいだというのだ。
「あのさ、念のため先生の目の前で、そっちの中身も見せてくれないかな?」
激しく首を振るアミさんだったが、やがて観念したようにリュックを引き寄せる。教科書やノートなど嵩ばるものを取り出し、店長に促されるまま逆さに振ると、最後の最後に、ラメ入りのマニュキュアがコロンとひとつ、転がり出てきた。
「あれ? これ、うちのじゃないわ」
(…………?)
目の前の展開についていけず呆然とする私に、店長が追い打ちをかける。
「うちは2軒目ってことですよ」
ほらね、いわんこっちゃないと、その目が言っていた。
叱られるのは誰?
面白い本を読んだ。「体罰の社会史」、著者は教育史の研究者である江森一郎氏である。
江森氏は広く丹念に資料にあたり、それまで知られていなかった寺子屋のしきたりを掘り起こした。
それは「あやまり役」というものだ。
「あやまり役」について、教育史を専門とする江森一郎氏は、著書「体罰の社会史」の中で次のように記している。
寺子屋で師匠から罰を受けた場合、師匠の妻、寺子屋の近所の老人(泣き声など聞きつけてやってくるという)、子どもの家の近くの人、親自身、子どもの友達が、本人に代わって謝ることによってようやく許されるという謝罪法が一般化していたことは、非常に面白いことではなかろうか。
江森一郎「体罰の社会史」(1989、新曜社)
江森氏は宝島社が出版した「江戸の真実」の中で、「寺子屋の『あやまり役』」というパートを執筆している。それによると、寺子屋ではあらかじめ寺子の中から「あやまり役」を決めておき、師匠がしかり始めると、悪さをした子どもの代わりにあやまり役が率先して謝っていたという。
最も重い罰である破門、放校の場合も名主などが詫(わ)びを入れて、まるくおさめたという。
では、どうしてこのような仕掛けをわざわざ設けていたのだろうか。
江森氏は、同じく「江戸の真実」の中で、次のように指摘している。
「師匠は厳しくあるべき」という儒教的な教育観から、師匠は一度下した罰を自身では簡単に撤回しにくいという事情があった。そこで、ほどほどのところで鉾をおさめるための工夫が必要だった。
その一方で、紛争や裁判の解決法として、幕府によって和解が奨励され、その場合「第三者の介入」が中世以来の慣例となっていた。
こうした要素が複合的に絡み合っていたのではないかという解釈だ。
それにしても「あやまり役」はよくできた装置だ。
師匠は相手が「あやまり役」だからこそ、手加減せずに諭すことができる。
その叱責をひたすら浴び続ける「あやまり役」の寺子仲間も、それが役目だから、傷つきはしないだろう。
師匠の妻や隣人が罰せられた子どもに代わって頭を下げれば、師匠は「仕方ない」と切り上げられる。
そのすべてが「あやまり役に免じて許す」という幕引きに向かって収斂(しゅうれん)するのだ。
では、渦中の子どもはそこから何を学んだのだろう。
「あやまり役」を懇々と諭す師匠の言葉を横で聴き、自分の行いがなぜいけなかったのか理解する。
自分が悪いことをしたばかりに周りを巻き込み、自分のせいでつらい目に遭わせてしまっているさまを目の当たりにする。
そんなときには、自分のために頭を下げる「あやまり役」の姿が心に響き、そういう事態を引き起こしてしまったことが、いたたまれなかったかもしれない。
その痛みは、自身が直接叱責を受けたときのそれに勝るのではないだろうか。
しかしその一方で、自分は過ちを犯しても周りから見放されず、それどころか身を挺(てい)して庇(かば)ってもらえ、結局は許され受け入れられることも実体験する。
ひとは、そのように、無条件に支えてくれる他者がいるからこそ、その他者が示してくれた愛情に応えるために、自らを大切にしようと思えるのではないだろうか。
「この姿を忘れないでね」
冒頭の話に戻ろう。
私たちは量販店からスーパーへと向かっていた。
量販店の店長は結局、「出禁」を条件に温情をかけてくれた。
スーパーはどうだろう。
マニキュア1個とはいえ、犯罪は犯罪だ。一抹の不安がよぎったが、店長は温厚だった。
「そうですか、わかりました。こうして来ていただかなければ、気づかないところでした。
お会計だけお願いしますね。ご苦労さまです」
そう言うと、今度はアミさんに向き合い、
「外国で勉強するのは大変でしょう。自分を大切にして、がんばってください。それから、先生のこの姿を忘れないでね」
静かに声を掛け、持ち場に戻って行く。
その後ろ姿に頭を下げていたら、私まで泣けてきた。
帰る途中、湖畔公園に寄った。
芝生の上に並んで座ると、夕陽が水面に映り、きらめきながら揺れていた。
やがてアミさんがぽつりぽつりと話し始める。
アミさんは家族の期待を背負ってやってきた。
実家の生活は苦しい。ある日知り合いから、こんな話を聞いた。日本でアルバイトしながら日本語を勉強すれば、妹と弟たちの学費を捻出できる。大学に進学して卒業後真面目に数年働けば、両親のために立派な家を建てることも夢ではない。
日本語学校に入れたときは嬉しくてたまらなかった。勉強とアルバイトの両立は楽ではないが、一歩ずつ夢に近づいていると思えば、なんでもない。
街にはさまざまな商品やおいしいものが溢れている。それにとにかく便利だ。こんな世界を知らない両親をいつか連れてきてやりたいと、何を見ても思った。
ところが、次第に疲れてきた。渡日のために駆けずり回って両親が工面してくれた費用はかなりの大金だ。返し終わるまでには大分かかる。仕送りのために食費を切り詰め、バイト先の賄いだけで乗り切った週もあった。
そのうちに、街で見かける若者たちが眩しく映るようになってきた。流行のファッションに身を包み、青春を謳歌している。それに引きかえ私はと、初めて自分が惨めに思えた。
その日はスーパーの特売日だった。
目当てのものをカゴに入れレジに向かう途中、化粧品コーナーを通り過ぎようとして、ふと足を止めた。サンプルのマニキュアを塗ってみる。照明にかざすと、キラキラ輝いてきれいだ。
ほしかった。
でも500円あれば、国の家族に好きなものをお腹いっぱい食べさせてやれる。贅沢だ、諦めよう。そう思ってレジに向かおうとするのだが、足が動かない。
そのとき、魔が差した。
店を出てしばらくしても、動悸(どうき)は収まらない。すぐ寮に戻らなくては。そう思うのに、なぜか逆の方向に歩いていた。それからのことはよく覚えていない。気がつくと、量販店で呼び止められていた。
あれでよかったのか
彼女の処分をどうするかは、とても難しい問題だった。
日本語学校の関係者の中には、即刻退学処分にすべきだという人もいた。状況がどうであれ窃盗は窃盗だ。もう二度と同じことが起こらないように学校側が厳しい態度を示して、ここで悪い芽を摘んでおくことが肝要だというのだ。
また同じことが起こって警察沙汰になったとき、このことは必ず蒸し返される。あのとき甘かったからだと言われるような状況は潰しておくべきだという意見も出た。
それも一理ある。だが、やはり賛同できなかった。
人はそれほど強い存在ではないと思っていたからだ。アミさんと同じ境遇に置かれても自分なら絶対だいじょうぶだと言い切れる人がどれだけいるだろう。
それどころか、私たちは一歩間違えば、集団の規範を逸脱したり、うっかり悪事に手を染めてしまうことさえあるのではないか。
だったら、ふらっとそちら側に行ってしまった人を排除するのではなく、こちら側に連れ戻し、やり直すチャンスを渡して、ともに生きていこうとする方がいいに決まっている。
そう思った。
量販店とスーパーが穏便におさめてくれたこともあって、結局、アミさんへの処分は訓告に留まった。
ただ、未成年だったので、国の親御さんには電話で顛末を伝えた。彼女にとってはそれこそが重い罰であったはずだ。
あれからずいぶん経つが、折にふれてあれでよかったのだろうかと反芻してきた。
今もそうだ。
だが、一つだけ確かなのは、あの日、私は「あやまり役」だったということだ。
アミさんは次の年、第一志望の大学に合格し、卒業後少し働いてから帰国した。
今どうしているだろう。
あの日のことを、ときには思い出しているだろうか。
(※記事中の人物の名前や状況は、事実にできるだけ即しつつも、配慮が必要だと考えた部分は、言い換えもあることをお許しください。)