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「橋はかかる」 〜部落差別は遠いようで身近である



この本を読んで、昔浅草寺(浅草神社)の境内で猿回しを見たことを思い出しました。あれは東日本大震災の翌年だったから2012年3月かと思います。家族で浅草に出た時、たまたまやっていました。演技は既に始まっていたというか終わりに近づく頃でしたが、芸をする猿と猿回しの周囲をぐるりと観客が取り囲んで興じていました。本書を読むと村崎太郎氏は浅草神社境内でも披露することがあるようなので、あの時の猿回しもおそらく太郎氏だったのでないかと思います。見物の輪の隙間から服を着てちょこちょこ動く猿が見えましたが、僕はあまり視たくなかった。こどもたちは興味深げで見たそうでしたが、引き立てて予定先に向かいました。


 本書は現在「日光さる軍団」を率いる村崎太郎氏とその妻栗原美和子氏の合作で2010年出版された本です。切っ掛けはたまたま検索で、TBSのNEWSDIGで取り上げた「周防猿回し」の公演が発祥の地山口県光市で7年ぶりにおこなわれたという2023年の報道がかかったからです。

満員御礼 伝統芸能猿まわし 周防猿回しの会が発祥の地で7年ぶり公演 45周年の記念に 山口県光市


45周年を迎える「周防猿まわしの会」が発祥の地・光市で記念公演を行いました。


「周防猿まわしの会」が発祥の地・光市で公演するのは7年ぶりです。「周防猿まわしの会」は、戦後、途絶えてしまった猿まわしを復活させようと1977年に発足し、翌年、旗揚げ公演を行いました。2004年には、市の無形民俗文化財に指定されています。


「初めてボールであがるやつを見てすごかった。また見てみたかった」「子どものころにね、見た記憶があるんですよ。うれしかったです、サイコー」


現在は、山梨県と熊本県の劇場を中心に活動していますが、熊本地震やコロナ禍に悩まされたといいます。


周防猿まわしの会 村崎與一会長

「本当に7年間は苦労させられました」「お猿さんかわいいなって、自然ってすばらしいなってそういう風に思っていただける伝統芸能としてこれからも生き続けていきたいと思います」


故郷に錦を飾る記念公演は、3日までで、すべての会はすでに満席となっています。


猿回しは、1980年代の初めに初めてテレビで目にしました。村崎太郎氏という若い猿回しを取材していましたが、なんかアイドルみたいなイケメン風貌だったのを思い出します。しかし、ここの故郷巡業には名前が出ていません。「あれ?彼はどうなったのだろう?」と思い調べると、彼はこの一座から既に離れていることを知りました。そういうことに興味を持ち、本書を購入しました。


 読んでびっくりしたのは、全編にわたって部落差別の問題を述べていることで、期待していた猿回しの苦労はまったく触れられていませんでした。村崎氏の出身の山口県光市高洲はその名の通り砂地の海浜で、農業には適さない貧しい場所です。そこに居着いたのが村崎一族を含む被差別の部落民で、生活に非常に苦労しています。そのため昔からの伝承でおこなってきたのが「猿回し」で、全国を旅して稼ぐという生業がありました。第二次大戦後一度途絶えたこの芸を父親の村崎義正氏が復活させ、やがて太郎氏がそれを継ぎました。この復活猿回しは爆発的人気を博しますが、やがて没落します。太郎氏はそれを「自分が部落民だとカミングアウトしたせいで敬遠されたから」としていますが、果たしてそうなのか。太郎氏がいた「周防猿回しの会」が絶頂を迎えたのは1980年代に差し掛かるころで、日本中が未曾有の好景気に沸いた時代です。その後バブル崩壊とともに猿回しに限らずそういう遊びに金を使う余裕がなくなったことが大きかったのでないか?私にはそう感じられ、「部落民」という色がついたせいという太郎氏の主張は僻みに感じられます。


 女性との付き合いでも太郎氏はいろいろ問題がありました。中学時代の初恋は部落差別で破れ、最初の結婚相手は、バブル絶頂期で稼いでいた頃ファンの女性と会食したことが原因で別れています。上にも出てくる長兄の村崎與一氏が東京まで乗り込んで来て、無理矢理別れさせられたように書いています。しかし、本当にファンと会食した程度ですでに3人も子どもがいる奥さんが離婚を求めるだろうか?証拠はありませんが、なんとも話に不自然さを感じます。一番驚いたのは、本書を共著で書いた栗原美和子氏とすでに離婚していたことです。本書を読むと部落民カミングアウトで仕事がなくなり(と本人が言う)、うつ状態にあえいでいた太郎氏が、美和子氏との固い親愛を得て前向きになったはずなのですが、2007年に結婚して2018年には離婚しています(wikiによると前年から別居)。この離婚がどういう理由だったのかつまびらかになっていませんが、本書で書かれた二人は死ぬまで一緒という固い同志関係で結ばれていただけに腑に落ちません。そもそも本書は太郎氏の自分語りという体裁こそとるものの、書いたのは実質的に美和子氏と思われます。美和子氏の太郎氏に対する尋常ならざる信頼や支えが感じられるのですが。


 被差別の部落民の出自という劣等感が、さまざまな型で村崎太郎氏の心を呪縛し、自然な心情の発露を抑えたと述べています。その結果周囲が彼を悪く誤解し、疎外していったと。しかし、本当にそれだけだったのか?それ以上に村崎太郎氏は自分の真実を語らず、自分に都合がいい部分だけ切り取った読後感が私には残りました。周防猿回しの会から事実上ひとりで飛び出したこと、その後のさまざまな軋轢の経緯がいかにも唐突なのです。


 本書を読み、改めて部落問題を考えました。部落解放運動が一番激化したのは、1960年代から1970年代でしょう。戦後になってもずっと差別が続いた被差別部落が立ち上がった時代でした。私も中学時代に国語の先生から「橋のない川」を読むことを強く奨められたことを思い出します。しかし行き過ぎた解放運動指導者による糾弾はさまざまな事件を巻き起こしました。有名なのが1974年の「八鹿(ようか)高校事件」でしょう。この事件名前は何となく聞いたことがありましたが、事の真相を私が知ったのはつい最近です。1960年代後半の中国の「文化大革命」を彷彿とさせる人民裁判でリンチそのものです。そもそもこの事件、新聞を穴が空くほど隅々まで読んでいた当時の僕がまったく知らなかったのは、事件自体をマスコミが故意に報じなかったことに原因があると知りました。こうした行き過ぎた糾弾やそれに対するメディアや社会の畏怖は、その後かえって部落民に対する疑心を煽った感があります。そしてそれは現代まで暗い影を投げかけています。思い出すのは、関西電力高浜原発に関する脅迫事件です。脅迫の中心人物だった高浜町の元助役だった森山榮治が部落出身であることを暗に利用して、関西電力を強請りさまざまな不当権益を得ていた事件です。2019年に彼が90歳で死んで、初めておおやけになりました。wikiから引きます。

森山 榮治(もりやま えいじ、1928年〈昭和3年〉10月15日 - 2019年〈平成31年〉3月[2] )は、日本の地方公務員、実業家、人権教育講師[3]。


京都府京都市伏見区生まれ、福井県大飯郡高浜町西三松出身。京都府職員・綾部市都市計画係長・高浜町企画室主幹等を経て、部落解放同盟福井県連合会書記長、高浜町助役、同町教育委員長、福井県人権研究員などを務めた。2017年まで京都府京都市在住。浜田倫三元高浜町長に招聘された後は、福井県を中心に関西電力や福井県庁を含む複数の官民に「人権教育講師」の立場を通じて、大きな影響力を持っていた[4][5][6][7][8]。瑞宝双光章受章。法務省人権擁護局長感謝状受賞。

大きな影響力どころではない。完全に強請り、たかりの類いです。高額な品(純金を含む)や金品を関西電力関係者に贈り、それを断ると「部落民だから差別した」と声高に糾弾し威圧して返せないようにする。それと引き換えに莫大な利権を得て荒稼ぎする。しかも高浜町長の浜田倫三は最初からその構図を狙って、森山榮治を綾部市職員から招聘したと思われ、事件は単に部落民の問題だけではない巨大なヤミを感じさせます。


 今はどうなのでしょうか。2023年、京都市の有名な同和地区の崇仁に京都市立芸術大学と京都市立美術工芸高校が移転しました。関西のある医大は同じような目論見で同和地区近くに建てられたことは知る人ぞ知る話です。その結果、さまざまな反社人物が病院を出入りして大変だったと聞きます。さすがに美術学校ではそういうことはないと思いますが、果たして有意義な発展を遂げられるでしょうか?


 周防猿回しの会や日光さる軍団の公演模様は、youtubeの動画で見ることができます。寸劇は非常に手が込んでいますが、それだけに猿のストレスも相当なものでしょう。本番の舞台でも猿が反抗することはあるようですが、激しい折檻を科すこともあるようです。サーカスのライオンや熊の芸もそうですが、野生動物を人間の意のままに操る芸はもうやめた方がいいのでないでしょうか。少なくとも僕は楽しむことができません。見ていて痛々しく感じてしまいます。本音をいうと、第二次大戦後猿回しの芸が廃れた時、そのまま放置でよかったのでないかと思います。


橋はかかる 村崎太郎+栗原美和子著 ポプラ社 2010.6.11