モーム作の小説『手紙』と宮部みゆき作『ソロモンの偽証』の情景描写の違いから情報共有の幻想について。 - アメリッシュガーデン改

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モーム作の小説『手紙』と宮部みゆき作『ソロモンの偽証』の情景描写の違いから情報共有の幻想について。

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モームが愛した『ラッフルズホテル』のダイニング

いわゆる古典が読みにくい理由

 

古典小説が読みにくい理由に冒頭の情景などの説明描写が長いってことが一つあると思う。とくに海外小説の古典は長いんだ。

 

例えば、サマセット・モームのような20世紀前半の流行作家でさえ、いわゆる大衆作家でさえ、こうだ。

 

名作「手紙」の冒頭部分。

 

『戸外の埠頭には太陽がすさまじく照りつけていた。自動車の流れ、トラックにバス、自家用車にやハイヤリング、それから雑踏する街路を引きもきらず往き来して・・・』

 

このまま、1000字ほど場面説明の文章が続き、19行目くらいから、やっとこさ、おっとりと登場人物が出てきて、ドアがノックされる。

物語がはじまる予感がするでしょ、しかし、予感だけで主ストーリーはまだまだ。読み手の忍耐を試す描写がまだ続く。

ここで、客が来たことが告げられる。

客のクロスビィ氏が、いかに『筋骨隆々』かとの描写がはいる。4文字で書けることを、また、500字ほどの説明描写がはじまる。

 

「手紙」は短編小説なんだが、それでもこの長い冒頭。

間違いのないように書いておくと、「手紙」は私の愛読書で、数回は読んでいて、どんでん返しの見事さに感動する大好きな作品なんだ。

 

これが長編小説で、まして文豪の作品となると、建物の描写だけで1ページ費やしたりする。冒頭の情景描写はいつ果てるともしれない。

古典の名作と呼ばれる、とくにロシア文学など読みきるには人間の忍耐を超える、何かを必要されるにちがいないんだ。

これを、『ロシア文学を読むための特異点』と私は名付けている、こっそりとだけど。

 

ああ、私は何度、当時の彼氏が力説するドフトエフスキーを、あるいはトルストイを読もうと努力したことだろう。

あの男は日本のどこかで、まだきっと力説していると思う。そして、妻となった女性に、きっと、「トルストイよりトイレ掃除」とか言われているんじゃないか。その時の、彼のやるせない瞳が想像できてしまう。

 

あの日、「ごめん、今後一切、20行以上を読むための努力はできない。たぶん、あなたには、私よりもっとふさわしい人がいる」と言ったとき、理不尽な目にあった小動物のように、メガネの奥の小さい瞳をパチパチさせていたことを、今も深く覚えている。

冒頭の描写による壁は、ものすごく厚かったのだ。

人の深淵や普遍的な性質が独自に描かれるとかいう文学の香りに接したかったが、冒頭に殴り殺され、ものすごく厚い壁にハシゴを外され。これは拷問だと、私は寂しく結論付けるしかなかった。

 

一方、現代の人気作家。

例えば、宮部みゆき氏となると。

彼女の最高傑作といわれる「ソロモンの偽証」、全6冊 に及ぶ大長編小説でさえ、4行目から主人公が登場して、その心や疑問を教えてくれる。

 

『12月24日、クリスマス・イブの夜のことだった。午過ぎから暑く空を覆っていた鈍色の雲が、自分自身の重さに耐えかね、次第次第に低くたれこめてきて、とうとう我慢しきれなくなっかかのように小雪がちらつき始めた』

 

これだけで、登場人物が出てくる。

 

この違い。ちょっと不思議だと思わない?

 

いわゆる古典とか、今では文豪と呼ばれた作家の時代と、なにが違って冒頭の長い情景描写やモノに対する詳細な説明が少なくなったんだろう。

宮部氏とトルストイを比較してるんじゃないんだ。

当時の大衆作家、位置的には宮部氏と同じじゃないかと思うサマセット・モームとを比較している。

 

物語にすっと入ってくれたほうが、ストーリーを追うには面白いってことがあるけど、じゃ、昔の人は物語よりも、なぜ、詳細な周囲の説明が大事だったんだろうかと考えた時、

これは、つまり、小説の取り巻く環境の進化かもしれないって思ったわけだ。

 

例えば20世紀初期には、テレビがあったわけじゃない。

チャップリン無声映画でさえ、まだ公開されていない時代だった。

 

映像で遠くの風景を簡単に見ることができない時代に、小説は、その場所を知らせる観光案内の側面があったのじゃないかと思った。

だからこそ、あの退屈な情景描写も、当時の人にとっては非常に興味深かったんじゃないかと。簡単に旅行などいける時代じゃなかったからだ。

情景描写がないと人々は読んでも意味がわからない。

今なら、高層ビルと書けば、ビルの写真や実際に高層ビルを見た人はその素材感や大きさ、おおよそのイメージができるけど、当時の読者は、例えばチッペンデール式の椅子と言われても実物を見るのは貴族階級くらいで、そんな高級家具を知らない。

だから詳細な説明がいるって訳じゃないかと憶測している。

 

ま、現代でも、子どもとの情報共有には困難を感じてはいるがな。

「ぴえん」って言われて理解できる方いる?

よく使う言葉部門で、女子高校生の1位が「ぴえん」なんだそうだ。

鳴き声の「ぴえーん」を省略したものだそうだ。

アカン!

戦国時代よりも、さらに情報共有が難しい。しかし、少なくともgoogle検索して、意味を調べることはできるわけで。

 

現代に住む私たちは、現代の映像を腐るほど目にしている、テレビや広告や雑誌やネットで、でもって、戦国時代に書いてわかったことがある。

 

そうか、戦国時代の本当の映像なんて、見ることができないってこと。

 

ということは、戦国時代のブログを書く上で、砦の様子とか、兵の息遣いとか、えっと、ホコリばかりが襲ってくる空気感とか。歩いてるだけで、小石が口のなかに入ってきたりしちゃう。

そんなもの書かなきゃ、現代人にはわからないチッペンデールの家具なんだってことを、が、しかしだ。その前にもっと衝撃的な事実を知ってしまった。

 

衝撃的な事実

 

以前から私のブログ、「アメリッシュ戦国時代転生物語」を読んでくださる読者の方々、ほんと嬉しいです。

 

でも、新たな事実が。

もへじさん。

そうなのかい。

まったくもって、ブログでシリーズ物を書くって、ほとんど冒険だな。

もへじさん(i-shizukichi)から

「少し時間をおいたら話がわからなくなっちゃった😅 どこから続けたら良いか...お願い、いつか、戦国時代転生物語部分だけを抽出して小説にまとめてくれたら嬉しいなあ。完結したら本にしてくれたらもっと嬉しい。」

てな、コメントを頂いた。

 

恐れてはいたよ。

まったくアホなこと始めちまったと思ってはいたよ。

でも、現実的にはそういうことなんだ。

 

毎回、はじめての方にもできるだけわかりやすくとは思ってはいた。

けど、それは難しい。

毎回、毎回、アラスジを書いても、ほとんど意味がないし、かといって詳細な説明をしながら書いたら、いつも読んでいただける(ほんと大好き!)みなさんには退屈だしね。

 

どうしたらいい。

いっそ、はじめから小説部分だけ抜き出すか。

 

うん、それだな。

 

きっとそれしかないな。

でもな、無類のめんどくさがりが、アメリッシュ本体を犯す病なんであって。

そう。

いつか、やろう。そうしよって、もうね、永遠に言い続けるダイエットと同じ状況に陥いりそう。

 

ともかく、いつか・・・。きっと、いつか・・・ね。

 

ええい、こうなったら、最近、手に入れた武器をぶっ放しておく!

そんなこんなも、すべて、

 

○○吉が悪い!!!

 

意味がわからない方、下記、ブログをお読みくださいませ。

 

funyada.hatenablog.com

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