「治すもの」ではなく「つきあう」もの。
2017年 05月 11日
GWあけ、著書の発送も終わって、静けさがもどってきた我が家。
個展でオーダーいただいた洋服のための生地たちが、
何巻きもじゃんじゃん届き出していて、その量にちょっと恐れおののきつつも(笑)
水通しを終えたものを徐々に裁断しています。
からだを無心に動かしていると、なぜだか頭はすっきりしてくる。
そんなとき本を読むと、ふしぎと深く心に染み入る気がしています。
最近読んだ2冊。
「降りていく生き方」。
精神障がい者施設として異例の取り組みで成果をあげ、
世界の精神医学関係者から注目されている北海道「べてるの家」。
その様子を横川和夫さんがドキュメンタリーとして綴ったもの。
そして、「わたしは発達障がいカウンセラー」
昨年からわたしも活動をともにさせてもらっている「ちいさな森」メンバーである、
朝倉美保さんの初めての著書です。
どちらも扱っているのは「障がい」がテーマ。
誰もが目指すのが、効率、合理性、絶え間ない成長・・・
現代に生きるわたしたちは「原因を絶てば問題を防ぐことができる」
そんな因果論でものを考えるのになれています。
医療ひとつとっても、
健康の対極として障がい(もしくは病気)があり、
病気はあってはならないもの、治すべきもの、という考え方がふつうかな。
けれど、この二冊で繰り返し語られるのは、
障がい、あるいは病気は「治すもの」ではなく「つきあう」ものだということ。
「つきあう」はあくまで当の本人が主語なのだけれど、
「治す」にはたとえばお医者さんであるとか、子どもだったら親だとか、
ほかの人の介入が必要です。
病気をしている人、障がいがある人は弱いから、かばってあげよう、
不必要な苦労をさせないようにしよう、と周りが気遣うことが多いけれど、
それが原因で逆に症状が重くなることがある。
それは、その人自身が「どうしたいか」が置きざりにされてしまうから。
いわば、治すひとが主人で、治される人はその使用人。
治される人が、治す人のいいなりとなり、依存せざるをえなくなるからなのかな。
また、入院などで健康な人と病気の人を分けてしまうことで、
健康な人は「病気になるってどんな感じなんだろう」と知ることができなくなる。
「知らない」ことは、漠然とした不安やおそれを生みます。
そして、「そうならないように」と不安を防ごうとする。
なんやかや合理的な理由があればそれにすがり、自分はそうならないようにとガードするわけです。
それがまた「病気は忌むべきもの」という通念になっていく。
「降りていく生き方」で印象的なフレーズがありました。
「こころの三要素って知ってるかい?
虚しい、悲しい、寂しいというのは楽しいとか嬉しいとか以上に
こころの健康にとって必要なことなんだよ。
ともすると私たちは自分のなかからそれを消し去ろうとするけれど、
それが欠けたらだめな栄養素なんだよ。」※一部略
病も、老いも、不完全さも、
あらゆる人に宿っているもの。
それらは防いだり、治したりするものではなく「つきあっていく」ものです。
いつまでも若くありたい、健康でありたい、
そんな一元的な価値ばかりが取りざたされる世の中だけれど、
光があるから陰もまたあるもので。
ポジティブと同じように、ネガティブさも価値としてみとめていくこと。
それは障がいがある、なしにかかわらず、生きる人すべての課題なんだろうな。
そしてもし、そばに力をなくしているひとが居るのならば、
力をなくす原因をなくそうと躍起になるのではなく、
その人の感じている世界に「よりそう」ことがたいせつなんだ。
そんなことを考えさせられた本たちだったのでした。
そうそう、マリアさんが主宰となって活動をしてきた「ちいさな森」HPなのですが、
今後は朝倉美保が主体となり発信していく、
「みのりの森」という情報サイトに集約されることになりました。
新しいサイトはこちら→☆
マリアさんもコラムや往復書簡を書かれていますよ。
他にも当事者コラムがどんどんアップされていく予定なのだとか。
朝倉美保からのメッセージです。
雑誌「きらり。」と「みのり。」はふたつでひとつ。障がいのある人の未来が明るくなるように、少しでも手助けになれればと思っています。