- 作者: 海上知明
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2019/04/27
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内容紹介
「関ヶ原合戦は西軍が勝ったはずだ」。かつて関ヶ原合戦の両軍の布陣を見たプロイセン王国・ドイツ帝国のクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル大佐はこう述べたといわれる。戦略と勝敗とは、はたしてどのような関係にあるのか。日本において「完璧な合戦」は存在したのか。「撤退の意義」、「強兵と弱兵」の定義とは何か。
本書は日本史の一次史料にとどまらず、『孫子』やクラウゼヴィッツの『戦争論』など古今東西の戦略論を参照。勝つための戦略を生む思考のプロセスを分析する。日本合戦史の教訓を新たな視点から導く、まったく前例のない書。
歴史における「勝者」が、必ずしも正しい戦略を駆使していたとは限らない。
実際のところ、ちょっとした偶然(指揮官が流れ弾にあたって指示系統がマヒするなど)や「時の勢い」みたいなもので、「戦略的に劣っている側」が勝者となる例というのは、少なくないのだ、と著者は述べているのです。
もう一つの問題は結果論の罠に陥ることである。先に挙げた「一ノ谷合戦」だけではない。『兵器と戦術の日本史』(原書房)の中に私が愛用している言葉がある。
「たとえ愚策でも勝利したと見做される時は成功策とされる」
「屋島合戦」「壇ノ浦合戦」等々、じつに多くの合戦について「愚策も勝利すれば賢策と見做される」が当てはまっている。確実な事実として「勝利」があり、勝利するのはそのやり方が正しいからだとなり、そのやり方こそが「名作戦」であるという図式が成立しているのである。
これは凝り固まった実証主義とは違い、歴史から教訓を得ようとしながらもイフを認めず、一つの史実しかないことから教訓を導き出そうとして陥る現象である。
旧日本軍は、勝利の法則性は何かを探ろうと様々な戦史から教訓を得ようとしたから、昨今の歴史学よりは評価できる。しかし「結果論の罠」にはまり、誤った法則を勝利の原則と考えたために危機に陥った。その象徴的事例は「勝利した戦い方に共通しているのは、敵に対して迂回し、側面や背後を奇襲することであった」という考え方が跋扈したことである。「一ノ谷合戦」だけでなく、「桶狭間合戦」も「迂回作戦」の正しさを示すように扱われた。
桶狭間の戦いは、織田信長が、上洛中の大大名、今川義元を少ない兵力で奇襲して討ち取り、東海地方の勢力図を一気に塗り替えた合戦で、「日本の歴史を変えた奇襲」とも言えます。
しかしながら、このときの信長の奇襲について、著者は、戦略的には、必ずしも褒められたものではなかった、と述べているのです。
著者は、武田信玄や上杉謙信の「戦略」を非常に高く評価しており、川中島の合戦についての解説は、読んでいて、「なるほど」と思うのと同時に、この二人が直接戦わなければならない時代・場所にいたことが、それぞれの勢力を伸ばすうえではマイナスになったのではないか、という気もするのです。
読んでいると、歴史の勝者に対して、揚げ足を取っているのではないか、結局のところ、勝ったほうの戦略が正しいのではないか、とも思うんですよ。
どんなに素晴らしい戦略家・戦術家でも、歴史の流れ、みたいなものには逆らえないのではないか、とも考えずにはいられないのです。
迂回して敵の側面や後方を奇襲するという戦い方は、名作戦と呼ばれるものの常道である。じつは「迂回して奇襲」という考え方は、ある合戦の両軍の図を示して、学生などに「君ならどう戦う」と聞くと最も多く出てくる解答であり、戦史などに関心を懐く人なら誰もが思いつく程度のことである。ということは、実践において一方が「迂回して奇襲」を考えついても、相手が予想していることが多く、失敗の確率がかなり高いことになるのである。戦略理論家もこれについては様々に論評している。
(中略)
「迂回して奇襲」そのものは誰もが考えつく凡庸な作戦だが、「迂回」「奇襲」を敵に悟られないように行うことは名将の仕事である。そもそも「迂回」するのは、こちらの動きがわからないようにするために大回りすることであり、「奇襲」は相手が予期しないときに行うから効果がある。この本質的な意義から考えると古戦史では誤解多き議論が横行していることに気が付く。たとえば永禄四年(1561年)の川中島合戦で武田信玄は、別動隊を組織し、霧の中を「迂回」させたとされるが、霧の中を進むなら上杉謙信はその行軍が見えないのだから、迂回する必要などない。
「迂回して奇襲」なんて、誰でも考えつくじゃないか、というのは、言われてみればたしかにその通りなんですよね。
僕だって思いつくくらいなのだから。
となると、相手も当然、その可能性は予想しているんですよね。
大概の「奇襲」はうまくいかないのです。
ちなみに、著者は一ノ谷の合戦での義経の大勝利の原因は、義経の奇襲というよりは、平家側が後白河法皇の停戦命令を直前に受けて油断していたところに攻撃され、奇襲後に狭い土地に密集していた義経軍を平家の海軍が包囲せずに戦場から離脱したからだと考えているのです。
平家は、有利な布陣を敷いていたにもかかわらず、それを活かすことができなかった。
著者は、源義経を「低レベルの愚将」と断じているのですが、この視点でみれば、「奇襲後に包囲殲滅されるリスクを無視して、突っ込んでいっただけ」だとも言えます。
勝負事というのは、自分が失敗しても、相手が大失敗すれば勝てるし、自分が良い手を打っても、相手がもっと素晴らしい手を打てば負けてしまう。
これからも勝つ可能性を上げるためには、「結果」ではなくて、「それぞれの状況での最善手」を検討するべきなのでしょう。
著者は、織田信長の桶狭間の戦いについては苦言を呈しているのですが、その後の信長については、こう述べているのです。
上洛戦における軍事作戦面での凡庸さ、兵力が多いほうが勝利するという素人の単純な原理、しかしそれを徹底的に追求する姿勢、そしてスピードの重視、これらはまったく単純な原理である。しかし軍事に対する有効性の追求こそが、軍事的な天才ではないが思考面での天才である信長を象徴している。「衆寡敵せず」というが、「大軍に戦術なし」こそが信長の軍事理論であった。
信長は、桶狭間以降は、自軍の兵力が上回っている状況で戦うという方針を貫いていきました。
桶狭間は「幸運」だったことを自覚しており、戦は基本的に数が多いほうが有利だと考えていたのでしょう。
大きな成功体験に安住しなかったのは、信長の「非凡さ」だったのです。
信長は自分より大きな相手に対しては苦戦する。これは信長の軍事的才能や政略の才がもたらす限界であろう。しかし自分より小さな相手に対しては比較的短時間に打破して征服を完了している。信長は家督相続段階の本領復帰に十年かけた。しかし「桶狭間合戦」後にあっという間に尾張国統一を達成している。美濃国征服にも十年近くかかった・しかし美濃国制圧したあとはすぐに上洛している。上洛が短期間であっただけではない。上洛途上の南近江四十万石をわずか一日足らずで征服し、上洛後一ヵ月足らずで「力の真空地帯」畿内を征服して領土を二倍に拡張している。これらは力の大なるものが小を呑み込むという純粋な力攻めであった。
信長独特の「鷹狩り」の手法に感心し、「人間五十年」の「敦盛」を好んで舞ったという若年の信長の話から、信長を分析していた信玄は、信長の恐ろしさの本質を見極めていた。信長の恐ろしさの本質とは擬制を見抜き本質的な有効性のみを合理的思考で追求する力である。軍事能力、統治力、権謀術数などで信長は信玄に到底かなわないが、新日本をつくる革命性ではかつての日本が生み出した最大の頭脳といえる。
信玄は信長の戦い方についてこう語ったという。「信長はいったん包囲した城を解いて撤兵したり、国境付近の小城の落城は意に介さず、退却なども平気で行い、その反対に重要な合戦では大兵を集めて確実に勝利し、領国を広めてゆく方法をとっている」。それはとりもなおさず信玄自身が自らの欠点をよく心得ていたことも示唆している。完璧主義で万全の準備をしながらも、なお相手の崩れを見るという『孫子』には「時の概念」が欠如している。『孫子』そのものにまでなりきった信玄を通じて、『孫子』に内在する問題性は明らかとなった。
すぐれた戦略家だからといって、最終的な勝者になれるとはかぎらない。
それもまた、歴史の面白さ、ではあるのです。
愚将のろくでもない作戦に自分が参加させられるということにならなければ、の話ではありますが。
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