【映画感想】シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| ☆☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言

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【映画感想】シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| ☆☆☆☆☆


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www.evangelion.co.jp

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本予告【公式】

1990年代に社会現象を巻き起こしたアニメシリーズで、2007年からは『新劇場版』シリーズとして再始動した4部作の最終作となるアニメーション。汎用型ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオンに搭乗した碇シンジ綾波レイ式波・アスカ・ラングレー真希波・マリ・イラストリアスたちが謎の敵「使徒」と戦う姿が描かれる。総監督は、本シリーズのほか『シン・ゴジラ』なども手掛けてきた庵野秀明


 3月下旬になってようやく、2021年はじめての映画館です。
 公開から2週間経った平日に、夕方からの回を観賞。

 上映前に、トイレに行ったのですが、そこでスマホ片手に若い男が、誰かと大声で喋っていたのです。
「でさあ、シンジがさあ〜」
 何なんだお前!僕はこの映画をなるべくまっさらな気持ちで観るために、ネットで『シン・エヴァンゲリオン』に関する情報をひたすら避け続け(おかげで、ネットを見る時間もだいぶ減りました)、SNSでも突発的なネタバレを食らうリスクにおののいていたのです。
 そうやって、なんとか2週間、ほぼ予告編レベルしかない予備知識+序破Qの復習を済ませ、ようやく明日は仕事がない、映画館もそこそこ空いていそうな状況を作り上げて、ここにやって来たのに!!
 なんで赤の他人のお前に、上映時間直前のトイレで、ネタバレ食らわなきゃいけないんだよ……
 しかし、ここで済ませておかないと、長めの上映時間の途中でトイレばかりが気になる状況になりかねん……
 結局、僕は急いで個室に駆け込み、両耳を塞いでワーワー小声で叫び続けて、致命的なネタバレを避けることに成功したのですが、人生どこに落とし穴があるかわからんね本当に。あの大声ネタバレ電話男、使徒だったのか?


 観客は20人くらいで、ほとんどの人は40〜50代に見えました。上映前に、「決着をつけにきた」という感じの妙な緊張感が館内に流れていたのです。
 僕も、正直なところ、この2週間、「観たい。でも、観たら終わる(たぶん)」と逡巡していたのです。
 昔から、旅行は行く前日がいちばん楽しい子どもだった。



 さて、この映画に関しては、ネタバレ全開で書きます。
 未見の方は、読んではいけません。
 いつもだったら、ネタバレで書くときは、「もう観た人と、もう観ることはないだろう人のみ推奨」なのですが、今回は「もう観るつもりはないからいいや」という方も、読まないでください。
 もし、この先の人生で、気が向いて、『エヴァンゲリオン』を観ることになるかもしれないから。
 そのときに、こんな感想を読んだことで、あなたの『エヴァ』を曇らせたくない。


 本当にネタバレですからね、はい未見の人は帰った帰った!
 
 あと、この『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』、上映前に、いちおう、これまでの新劇場版『序』『破』『Q』のダイジェストが流れるのですが、正直、これを観ただけではよくわからないと思います。というか、『新劇場版シリーズ』そのものが、『TV版』『旧劇場版』を観ていないと、かなり説明不足で唐突な作品ではないでしょうか。
 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を十分に愉しみたいのであれば、『新劇場版シリーズ』の復習だけでなく、シリーズのすべてを一度は観ておくことをおすすめします。ただ、おすすめはするのですが、実際にTVシリーズの26話観るっていうのも大変ですよね。それもわかる。

 さらにハードルを上げてしまうのですが、全く『エヴァ』を観たことがなくて、この『シン・エヴァンゲリオン』のために、1か月間くらいでTVシリーズから『新劇場版』まで一気に復習して観た人の感想と、長い時間をかけてTVシリーズから観てきて、あの「25話」「26話」や「旧劇場版のクライマックスの挑発」を体験したあと、「これ、自分が生きているあいだに本当に『完結』するのか?」と思いながら、リアルタイムで『序』『破』『Q』と観てきた人の感想は、大きく違うはずです。
 「そもそも、『終わる』のか?」と「それまで、自分は生きていられるのだろうか?」と、僕は思っていました。
 あまりにも「迷走」しているようにみえた『Q』が公開されたのは2012年。もう10年近く前の話です。
 その後、『完結編』の完成は遅れに遅れ、「前編・後編の分作になる」なんて話も出ていました。

 上映前に、僕はこの10年間に、いなくなってしまった人たちのことを思い出さずにはいられなかったのです。
 もちろん、彼らのすべてが『シン・エヴァンゲリオン』を観たがっていたわけではないけれど、少なくとも見届ける可能性は喪われてしまった。
 それでも、僕はまだここにいて、「終わり」を見届けようとしている。
 いつか、もうそんなに遠くないうちに、僕自身も「見届けられなかった人」の側にまわることになるのだとしても。



 では、ネタバレ感想のスタートです(ここまでで約2000字)。
 本当にネタバレだからね!(しつこい)



 スクリーンの右下の「終劇」という文字を観ながら、僕は「ああ、本当に終わってしまったんだな、これで……」と安堵と満足と脱力感に包まれていたのです。
 旧劇場版での、アスカの「気持ち悪い」からの唐突な「終劇」を思い返して、「えっ、これって『エヴァ』だよね。こんなにちゃんと大団円を迎えて、すっきりした感じで終わってもいいの?」と、少し慌ててもいました。
 
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この『Q』の感想より。

僕は、この映画を観ながら、ちょっとムカついていたのです。
いつまで、僕はこの「解釈ゲーム」に付き合わなければならないのか?
「わからない観客のほうがバカなのではないか?」と凹んでしまうような衒学趣味から、「身体性」への転換こそが『新劇場版』ではなかったのか?
「なんかよくわからんけど、ポカポカする」のが『破』なら、「観客のささやかなプライドをポカポカ殴りつける」のが『Q』。

ああ、なんかすごく回り道しながら書いているんですが、なんかね、『Q』を観てがっかりしたのは、「この映画をつくった人たちは、物語を終わらせる責任を回避しているだけなんじゃないか?」と思えてきたことなのです。
あるいは、次の『FINAL』が終わった3年後くらいに「新新劇場版・寿限無」とかが始まるのではないか、という気がしてきたことなんですよ。
稼げるかぎり、無限ループしていく『エヴァンゲリオン』。
まとめてDVDで観る未来人は良いかもしれないよ。
でも、僕はもう、つきあいきれなくなってきている。
(とはいえ、2時間映画を観ることで、これだけ「語れる」映画も少ない、それは認めざるをえない。『のぼうの城』なんて、野村萬斎さんすごいねえ!て終わっちゃう映画だから。けっこう面白いけど)


こんな、「トゥルーエンディングのない『シュタインズゲート』」みたいなのを延々と繰り返すために「新劇場版」って、つくられたのだろうか?


「バカにはわからない」と思い込ませて、「王様は裸だ」と誰にも言わせないようにしているだけなのではないか?
どんなに「解釈」してもムダなんじゃない?
もともと「答え」なんてないのかもしれないよ、迷わせて、話題にするためだけの「謎」で。


 こう書いておきながら、『シン・エヴァンゲリオン』の「終劇」のあと、画面に大きく白文字で「予告」と表示され、三石琴乃さんが、「今度は、『新・新劇場版』で、サービスサービスぅ!」ってやるのではないか、と僕は少し期待していたのです。
 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』って、『エヴァ』なのに、なんでこんなにちゃんと終わっちゃうんだよ!
 「ようやく見届けた」という思いと、「もうこれで終わりなのか」という思い。
 人間って、めんどくさいよね。


 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の前半の「生き残った人たちの村で、『そっくりさん』が感情を学び、シンジが絶望から再生する」までの流れは、正直、「またシンジがウジウジしているのか……」という感じではありました、まあ、新劇場版『破』『Q』では、とにかくやることなすこと裏目裏目に出て、悪意はないのにみんなを不幸に導く疫病神みたいになっているわけで、そりゃ落ち込むのもわかるのですが、「緒方恵美さん、今回はセリフ少ないな」とか、つい考えてしまっていたのです。というか、トウジやケンスケ、委員長が生き残って頑張っているのには、良かったね、と思ったけれど、「こういう『あたりまえの日常』が大切なのだ」とか「農業や生き物、労働を丁寧に、綺麗に描く」ことが『新劇場版』のテーマだったのか、と納得しつつ、ちょっと説教くさいし、もうこれで最後なのに、このシークエンスにこんなに時間使っちゃって良いのか?と感じてもいました。
 
 新型コロナウイルス禍で、いわゆるエッセンシャルワーカー(主に医療・福祉、農業、小売・販売、通信、公共交通機関など、社会生活を支える、リモートでは不可能な身体的な接触を伴う仕事をする人たち)が注目される時勢だからこそ、前半部は受け容れやすかったのですが、もしコロナの流行がなければ、なんか説教くさいシーンが続くな、と僕は思ったかもしれません。
 この映画の制作期間を考えると、新型コロナの影響で前半がああいう話になったとは考えにくいので、「結果的に、社会情勢を反映することになってしまった」のでしょう。


「父親が息子にできるのは、肩を叩くか、殺されることだけ」

 僕はもうすぐ50歳になります。12歳と6歳の息子がいます。

 庵野秀明監督は、1960年生まれで、いま、60歳。
 「子ども」の側として、親に対する愛憎入りまじった感情を経験し、「大人」として、次の世代の成長を見守り、「子ども側の不満」を受け止めてもきたはずです。

 正直、クライマックスの初号機(シンジ)対13号機(ゲンドウ)の闘いを観ながら、僕は少し興ざめしていました。
 それは、あまりにもゲンドウが正直すぎるというか、自分が若かった日の葛藤をわかりやすく言葉にしていたから。
 なんというか、自分の感情をすべて言葉にして垂れ流してしまっている、あるいは、説明的すぎる。
 『エヴァンゲリオン』なのに、わかりやすすぎる。
 こんなに素直になれる人なら、ゲンドウは、ここまで周囲を振り回す人生を送らずに済んだのではないか。

 ゲンドウの、あまりにも長くてわかりやすくて説明的な立ち回りに「これはちょっとまずいかな」と勘づいたかのように、途中で渚カヲルに状況説明役が交代したんですよね。というか、カヲルは、ゲンドウだった。
 子どもに対して、「大人」として壁にならなくては、という思いと、ずっと「友達」でいたいという願い。大人って、めんどくさいよね本当に。
 でも、ずっと子どものままでいてほしい思いがあったとしても、現実を考えれば、40歳と10歳の親子が、70歳と40歳になってもずっと同じ関係でいれば、それこそ、旧劇場版のアスカじゃなくても「気持ち悪い」としか言いようがない。

 「何がなんだかわからない、衒学的すぎる。観客を煙にまいているだけなんじゃないか」と、エヴァンゲリオンに対して斜に構えていた僕なのに、この『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の「テーマのわかりやすさ」には、満足と物足りなさが入り乱れてしまいました。
 これじゃ、「サービスしすぎ」じゃない?って。
 
 あらためて考えてみると、この『シン・エヴァンゲリオン劇場版』で語られていること、「フィクションの世界にとらわれすぎないで、いま、そこにある現実にちゃんと目を向けてみたらどう?」というのは、旧劇場版(『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』)と同じなんですよ。
 それを、1997年の庵野秀明監督は、映画館に集まる「オタク」たちを実写で作中に登場させるという挑発的なやり方で、訴えていた。
 そのやり方には、インパクトはあったけれど、「せっかく人が楽しい夢をみているのに、冷水をぶっかけやがって!」と憤る人も大勢いたのです。われわれは、現実を見せられるために、映画館に来たわけじゃない、って。

 あれから四半世紀が経って、アニメや漫画などの「フィクションの世界」と「現実」は、以前よりシームレスになったと受け止められるようになりました。フィクションのなかで体験したことも、その人にとっては現実の一部なのだ、と。


 僕が「世界観ぶち壊し」とムカつきまくった『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』と、テーマは似ているんですよ。
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 『ドラゴンクエスト5』では、「これはフィクションだから」というオチが許せなかったのに、『エヴァンゲリオン』では、どんなに「これはフィクションだからね」と作中で言及されても、「それもまた『エヴァンゲリオン』の世界観なんだよなあ」みたいな感じで認めてしまう自分がいたのです。

 「もっと『エッセンシャルワーク』を大事にしろ」「現実に戻れ」という1997年の旧劇場版と同じテーマを、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は、よりわかりやすく、より穏健に、観客に届けることに成功しているように、僕は感じました。
 庵野秀明というクリエイターは、「大人になった」のです。嫌味な言い方をすれば、老獪になった。
 観客の多くは、あのエヴァンゲリオンが、極めて真っ当で読後感の良い「大団円」を迎えたことに、安堵し、満足しています。
 
 その一方で、僕は、ちょっと寂しいのです。
 これから先、『エヴァンゲリオン』のTV版や旧劇場版を「まあ、いろいろ大変だけど、最後は、シンジも大人になり、報われるのだな」という安定した気持ちでしか、観ることができないであろうことに。
 「何なんだこのわけがわからない、救われない話は……」という、ザワザワした感情を、もう、『エヴァンゲリオン』に持つことはない。
 まあ、僕は、ハッピーエンドでもバッドエンドでも、結局、何か言いたくなる人間だということなのでしょう。
 もしかしたら、『終わらない』『未完である』ほうが、僕にとっては幸せだったのだろうか。
 旅行の前日が、ずっと続く、みたいに。

 僕は、この『新劇場版シリーズ』を観ていて、マリというキャラクターの存在意義がわからなかったのです。
 『Q』までのマリは、シンジ、アスカ、レイの「馴染みのメンバー」の内面に踏み込んでくることはなかった。ストーリー上、エヴァパイロットが欠ける場面があり、3人では足りないという判断で加えられたのか、あるいは、マンネリ化しそうな物語に「新しさ」を印象付けるためのキャラクターだと思い込んでいたのです。

 でも、要るのかね、マリって?
 ただでさえ、説明不足なストーリーなんだから、新キャラよりも、もうちょっと、シンジ、アスカ、レイを丁寧に描いたほうが良いんじゃない?

 この映画のラストシーンで、大人になったシンジと楽しそうに言葉を交わしているマリを観て、僕は「合点がいった」のです。
 たぶん、1997年に僕がこのラストシーンを観たら、「これはちょっと違うんじゃないか?」って思っていた。
 『エヴァンゲリオン』でシンジと苦楽を共にし、世界をつくってきたのは、アスカとレイなのだから、ラストにシンジと笑っているのは、この2人のうちのどちらか、あるいは両方であるべきだ、と憤っていたはずです。
 どちらともうまくいかないバッドエンドはありうるとしても、なぜ、新参者でこれまでほとんど接点もなかったマリ?

 観終えてから読んでみたいくつかの感想では、アスカとレイのどちらを選んでも、もう一方のファンは納得できないから、妥協点としてマリになった、と書かれているものもあったのです。


 でも、50年近く生きてきた僕は、大人になったシンジの傍にいたのがマリだったことに、納得できたんですよ。
 これまでの僕の人生を変えるような出会いは、自分の想像のなかにあるような「運命的なもの」ではなかったから。


 作家の原田宗典さんが書いたエッセイのなかに、のちに妻となる人との出会いの場面があったのです。


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はじめて未来の妻になる女性と会ったとき、ぼくは無精ひげを生やしていて、髪はボサボサで、しかもジャージ姿だった。


 「ちょっと違うんじゃないか」と思うようなところに、人生を変えるきっかけは転がっている。
 マリには庵野監督の妻である、マンガ家の安野モヨコさんが投影されているのではないか、とも言われているようです。

 「自分の重い心の扉を開いてくれるのは、自分の頭のなかにある偶像や自分に似たものではなく、外界から突然やってくるエイリアンみたいな『異物』であることが多い」(だから、「外の世界」を恐れないで)

 それを、庵野監督は、描きたかったのだと思う。

 シンジとアスカとレイは、マリのおかげで、ようやく、「あの3人組」という呪縛から解放された。


 もちろん、幸せは永続するとは限らない。幼なじみと結婚してずっと幸せでいる人もいれば、ずっとみんなの前でイチャイチャしていたカップルが、突然冷めてしまうこともある。
 そういう例を、最近僕はある有名女性スポーツ選手でもみました。
 若い頃は、ああいうスキャンダルに「ひどい人間だ」と怒りを感じていたけれど、最近は「まあ、あの人も『人間』だったんだな、そりゃそうか」と、むしろ納得してしまうのです。とりあえず、人間、「いま、幸せ」って言える瞬間があれば、それで良いのかもしれない。その先、どうなろうとも。

 今作ラストでのアスカの扱いに関しては、あれだけ頑張ってくれたのに、ちょうどいい場所が空いていたので押し込んだ、って気がして不満ではありますが、シンジの傍にいるのがマリだった、というのは、シンジも庵野監督も「大人になった」ことの象徴だと思うのです。
 そして、そのことがわかるくらいには、僕もたぶん、「大人になった」のでしょう。

 
「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン
 僕は、エヴァンゲリオンが無い世界を、もう少しだけ生きてみるよ。


 それにしても、『エヴァ』には、ミサトさんが幸せになるエンドルートは存在しないのだろうか……


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