【読書感想】パーティーが終わって、中年が始まる ☆☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言

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【読書感想】パーティーが終わって、中年が始まる ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

定職に就かず、家族を持たず、
不完全なまま逃げ切りたい――
元「日本一有名なニート」がまさかの中年クライシス⁉
赤裸々に綴る衰退のスケッチ


「全てのものが移り変わっていってほしいと思っていた二十代や三十代の頃、怖いものは何もなかった。
何も大切なものはなくて、とにかく変化だけがほしかった。
この現状をぐちゃぐちゃにかき回してくれる何かをいつも求めていた。
喪失感さえ、娯楽のひとつとしか思っていなかった。」――本文より
若さの魔法がとけて、一回きりの人生の本番と向き合う日々を綴る。


 僕がphaさんの著書を最初に読んだのは、この本だったと思います(phaさんの初めての単著)。

fujipon.hatenadiary.com

 今から12年前、2012年に上梓された本で、それまでもphaさんはさまざまな情報発信をして、「京大卒ニート」として、ブログ界隈で話題になっていたのです。

 あれから12年も経つのか、というよりは、あれ、まだ12年しか経っていないのか、というのが僕の率直な感想です。
 phaさんは世間的には「京大まで出ているのにもったいない」人だったり、「憧れの自由人」だったりするのかもしれませんし、僕自身にとっては、ずっと仰ぎ見てきた、時代をつくってきたブロガーなのです。
 
 僕自身も20年以上ネットで個人サイトやブログで書いてきて、昔は学校の文芸部サークルみたいだった「テキストサイト時代」から、ブログブームを経て、いまの「SNSが当たり前の存在になった(そして、ネットでのコミュニケーションにリスクを感じている)社会への移り変わりを発信・受信双方の立場で体験してきました。

 20年前からずっと書いている人もいれば、もうネットからはいなくなってしまった人もいる。
 ずっと根強い人気を保っている人もいれば、あの人、今は何をやっているんだろう?そもそも、あの人はあの頃、何をしたかったんだろう?と思う人もいます。

 ずっとネットで一方的に「観測」してきた人も、僕と同じように歳を重ねてきて、家族ができたり、ものの考え方が変わったり、幸せに見えたり、見えなかったりしています。
 亡くなられた方も、少なからずおられます。


 当たり前だよね、インターネットが世に広まりはじめてから、もう四半世紀(25年)くらい経っているのだから。
 僕のなかでは、黎明期のインターネットは「新時代の希望」だったのだけれど、物心ついたときからSNSが存在するのが当たり前で、SNSも単なるライフラインのひとつでしかない世代も増えてきました。

 もう、「インターネット」で、ひとくくりにはできないくらい、「インターネットの歴史」は積み重なってしまった。
 個人的には、テレビゲームとインターネットの歴史をほぼリアルタイムで体験できたこと(そして、これまで戦場に行かずに生きていること)は、僕の人生の数少ない、そしてとても大きな幸運だと思っています。

 この『パーティが終わって、中年が始まる』を読みながら、僕はこれまでネットやメディア経由でみてきた、多くの「新しい生き方を模索している人々」を思い出していました。
 phaさんは、そのなかでも、よく名前が知られた人であり、多くの人を負の方向に巻き込むようなお金の稼ぎ方もせず、「ニートという生き方」をしてきた人です。
 仕事もブログも中途半端な人生の僕にとっては、「なんだかとても羨ましく、妬ましい人」でもあった。
 まあでも、他人から見た自分って、きっと見られる側にとっては、「そんな良い事ばっかりじゃないんだけどなあ」って言いたくなることが多いんですよね。
 僕もよくブックマークコメントで、「なんだ医者で子持ちか、解散!」みたいなことを書かれるのですが、そんな属性が付与されただけで幸せに生きていられるってわけじゃない。そもそも、何が幸せかが、よくわからない。

「もうダメだ」が若い頃からずっと口癖だったけれど、今思うと、二十代の頃に感じていた「だめ」なんてものは大したことがない。ファッション的な「だめ」だった。四十代からは、「だめ」がだんだん洒落にならなくなってくる。これが本物の衰退と喪失なのだろう。
 若い頃から持っていた喪失の気分に、四十代で実質が追いついてきて、ようやく気分と実質が一致した感じがある。そう考えれば、衰えも悪くないのかもしれない。自分が今感じてるこの衰退を、じっくり味わってみようか。
 この本では、そんな四十代の自分の「衰退のスケッチ」を描いていきたい。


 phaさんが「中年」とか「老い」をテーマに書かれた文章を読むのは、phaさんより少しだけ先にその時期を過ごしてきた僕にとっては、とても切ないものがありました。
 僕自身も、もともと、若い頃から「もうだめだ系」の人間だったので、四十代くらいからは、あまり死ぬことを考えなくなってきたのです。
 自分から終わりにしなくても、どうせ、放っておいてもそのうち終わる年齢まで来てしまった。どうせデッドエンドなら、やりたいことをやって、人生を楽しもう。
 そんな開き直りもあるのです。
 それと同時に、結局、何も残せないまま消えていくのかな、という哀しみも少しだけ。


fujipon.hatenablog.com


 四十代とか五十代って、企業で偉くなったり、研究者として名を成したりした人にとっては、キャリアの「ピーク」だったり「集大成」だったりする年齢なんですけどね。
 僕などはもう酒を飲むのも面倒になって、未練がましくスイッチのFit Boxingで体を動かしたり、日経平均の変動に一喜一憂したり、こうしてブログを書いている毎日です。
 パーティが終わる前に、パーティそのものに縁がなかったのだよなあ。パーティやっとけばよかった、と思うこともあります。
 ただ、「祝祭の時期」が失われていた人生だったから、かえって、ずっと低空で安定飛行を続けていられる、とも言えますね。

 物価は少しずつ上がっていくけど、賃金も少しずつ上がっていく。そうして少しずつ全ての値段が上がっていきながら、経済が成長していくのが健全な状態で、この30年ほどずっとデフレが続いていた日本経済のほうがおかしかったのだ。
 そのことは理屈としてはわかる。だけど、ずっとデフレ環境で育ってきた自分には、すべてが値上がりしていく世の中にやはり慣れない。
 若い頃は、お金があまりなくてもインターネットで遊びながら、安いチェーン店とかに行ってふらふらしていれば楽しい、みたいなことを言っていたけれど、そんな言葉は昔より世の中に響かなくなってきているのを感じる。
 自分はあまりにもデフレに適応しすぎてしまったのかもしれない。今まで自分の意見が注目されて本を書いたりしてこられたのは、低成長のデフレ時代にちょうど合っていたからだったのだろう。だけど、そんな考え方はもうインフレ時代には通用しないのだ。
 今の若者は自分の世代に比べて、みんなしっかりしているな、と感じる。どうやってお金を稼いで生きていくか、ということを若い頃からきちんと考えている人が多い。自分たちが若かった頃は、デフレや不景気と言われてきたけれど、まだ呑気でいられる余裕があったのだろう。今はもっと余裕がなくなって現実的な世の中になってきている。そんな今の状況では、僕みたいなふらふらとした生き方に憧れる人は減っているんじゃないだろうか。
 年をとると、だんだんと生き方が時代に合わなくなってくる、というのは、上の世代を見て知っていたつもりだった。
 だけど、いざそれが自分にやってくると、やはり戸惑う。ああ、これがそうか、意外と早く来たな。
 まだもうちょっと余裕があると思っていたのにな。40代も半ばになって、今さら生き方を大きく変えることもできなそうだし、これからどうやって生きていこうか。


 僕が若かった頃、20世紀の末期に比べれば、日本でも生き方の多様性が尊重されるようになってきたのです。
 昔の価値観を更新できない高齢者は、内心戸惑っていて、「差別的な言動で吊し上げられるリスク」を考慮し、内心を隠して寛容にふるまっている人も少なくないでしょう。
 人間の価値観なんて、よほどのことがなければ、急激に変わることはないし、ネットでは、相変わらず「非モテ」とか「結婚」とかが話題になりがちです。
 「多様性」に寛容な社会では、「多様性」で目立つことは難しい。
 phaさんも、12年前は「京大卒ニート」「シェアハウスで来るもの拒まず、去るもの追わず」が効果的なキャッチコピーだったけれど、今の時代、2024年に同じことをしている人がいても、「まあ、やれるだけやってみたら」とスルーされるのではなかろうか。
 phaさんは、「ことば」を持っていたから差別化できていたけれど、いまの時代の若者が先入観なしに2012年のphaさんをみたら、「そんなの何が楽しいのかよくわからない」かもしれません。

 その一方で、根源的な人間の価値基準って、なかなか更新されないものだとも感じます。SNSでは「自由に生きる人への連帯」を示していても、自分の子どもには「普通の結婚」をして、「近所に自慢できる職業」に就いてほしいし、孫を愛でたい、という人のほうが多数派ではないだろうか。

 別に、「老害」になりたい、わけじゃないのに、少しずつは自分の価値観を更新していっているはずなのに、口から出た言葉や行動は、時代に合わなくなっている。
 故・伊集院静さんのように「若い世代相手にも、妥協せずにダメなものはダメと言う」というスタンスのほうが、かえってブレない人として尊敬されることもある。
 「老害」か、そうでないか、っていうのは、結局、言葉や行動よりも、自分がその相手を好きかどうか、のような気がします。

 ただ、自分のやっていたシェアハウスも歪んだ装置だったと思うけれど、他人の家族の話を聞いたりすると、みんなそれぞれ何か歪んでいるな、と思うことが多い。人は誰でも歪みを抱えていて、それぞれがその歪みのかたちにぴったりと合った箱を作り出している。この世界には無数に水槽が並んでいるだけなのかもしれない。
 それは結局、身体から放り出されてコンピューターに繋がれて、今日はお日様が暖かいなあ、と言っている水槽の中の脳とそんなに変わらないんじゃないだろうか。何かを見ているようでも、全部自分の中にあるものを見ているだけにすぎないのだ。自分の中から本当に出ることができたことが今までの人生で何度あるだろうか。
 生まれつき持っている、もしくは幼少期に抱えた歪みからは、成長すれば解放されるのだと思っていた。しかしそんなことはなかった。結局、自分がずっと抱えている歪みに対処したり、振り回されたりしているだけで人生は終わってしまうし、むしろそのこと自体が人生なのだ、ということに気づいてきた。気づいてしまった。どうしよう。


 あの、すべてを悟ったような、こだわりを捨ててしまったようなphaさんも、40代になると、こんな感じなのか……
 自分とそんなに変わらないな、と安心するのと、みんなこうして「終わり」に向かっていろんなものを整えていくのかな、という寂しさと。

 phaさんも、自分に変化を感じている。
 でも、その変化を受け入れ、受け止めて、こうして言葉にしている。
 「老害」と言われることを恐れて口をつぐんだり、寛容な中年を演じて見せたりするのではなく、変わっていく「いま」が綴られていて、僕も少し気がラクになりました。


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