【読書感想】ネットはなぜいつも揉めているのか ☆☆☆ - 琥珀色の戯言

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【読書感想】ネットはなぜいつも揉めているのか ☆☆☆


Kindle版もあります。

そして誰も何も言えなくなった――
キャンセルカルチャー、テキストコミュニケーションの困難、
入り乱れ矛盾する「公共性」、陰謀論フェイクニュース
シニカルな勘繰り、分断と無関心…終わりのない論戦。
「炎上」を経験したメディア社会論者が分析。

日々起きる事件や出来事、問題発言をめぐって、
ネットユーザーは毎日のように言い争っている。
他人が許せないのは、対話が難しいのはなぜか。
物事の見え方に違いが生まれるのはなぜなのか。
背景にある社会やメディアのあり方を考える。

・ネット上のコミュニケーションがうまくいかない社会的背景、構造的問題を丁寧に解説
SNS上で議論になっているトピックの論点がわかる
・ネットを超えた社会の政治的対立についてもわかる
SNSとの付き合い方を見直したくなる
・ネットに疲れている、なのに見ずにはいられない方は必読


 僕がネットにはじめて触れてから四半世紀(25年間)以上が経ちました。
 成人してから出会ったということもあり、比較的「新しいメディアであり、コミュニケーションの手段」というイメージがなかなか抜けないのですが、いまの子どもたちにとっては、すでに「存在しているのが当たり前の道具」になっています。
 僕にとってのテレビがそうだったように。

 僕自身、ネットで25年くらいいろんな形式でものを書いて公開しているのですが、幸か不幸か、「プチ炎上」レベルはあっても、「大炎上」に遭ったことはありません。特定の人にひたすら粘着されてキツかった、ということはあったけれど。

 この新書の著者は、最初に、自身が『銀河英雄伝説』のリメイク版についてツイート(ポスト)して「炎上」したときの経験について言及しています。


bunshun.jp


 僕は長年の『銀英伝』ファンなので、当時からこの騒動のことは知っていましたが、「たしかに、長年のファンにとっては『原作改変』で、『超有能な女性なのに料理が苦手なキャラ』から、ポリコレ的に正しいフレデリカさんに変えられてしまうのは、なんか嫌だよな」とは思ったのです。
 とはいえ、2020年代の新しい視聴者には、「料理ができる=女性らしさ」みたいな印象づけは、抵抗があるだろうな」と感じていましたし、なんだったら、1980年代に僕がほぼリアルタイムで小説を読んでいたときも、「料理が苦手」が強調されていることには、違和感があったのです。「なんでも完璧にこなす人」だったら、キャラクターとして面白くない、ということで、あえて「弱点」を持たせたというのもわかるのですが。
 ちなみに、原作者の田中芳樹先生自身も、近年のインタビューで、フレデリカさんが料理下手なことを散々いじられるのは、30年以上前だから許された表現で、今の時代には合っていないでしょうね、と仰っていたそうです。
 
 作品というのは時代の影響を避けられないし、いま、「ポリコレ的に正しい」とされているものも、半世紀くらい後の人たちにとっては「差別的」だとみなされる可能性は十分にあるのです。
 そういうときに「書かれた当時の時代背景」を重んじるのか、「その時代(現代)の感覚」に合わせるのか、というのは、これからもずっと問題になっていくはずです。
 
 あらためて考えてみると、人々の価値観が変わるくらいの期間、愛され続けてきたコンテンツというのは本当にすごい、とも感じます。

 アニメには限定されないのですが、表現をめぐる論点としてもう一つ挙げられるのが「アップデート」の是非という問題です。先に挙げた銀英伝がまさにそうなのですが、古くからある作品を再販したり、再映像化したりするさい、人種やジェンダーなどに関する表現を変更することの是非がしばしば話題になります。最近では、ディズニー制作の実写版『リトル・マーメイド』において人魚姫アリエルを黒人の歌手、俳優であるハリー・ベイリーが演じたことが議論を呼びました。
 そうした「アップデート」に対して、しばしば行われる批判の一つが「それによって作品の質が上がるわけではない」というものです。つまり、変更によって作品がより面白くなるわけではないのに、なぜわざわざ手を入れねばならないのか、というのです。
 しかし、それに対しては、手を入れないと作品としての面白さがむしろ下がってしまうという反論もありえます。昔のままの表現を残すことで、読者や視聴者を置き去りにしてしまう可能性が出てくるのです。
 多くの場合、娯楽色の強い作品の登場人物は、それを視聴するであろう人びとが共感できるように造形されています。時代小説や時代劇にしても、本当に当時の価値観のもとで登場人物が行動したとすれば、楽しむのが難しくなってしまいます。時代劇の登場人物は当時の服を着ていたとしても、中身は現代人だと言われるゆえんです。


 僕もNHK大河ドラマを観てきて、「戦国武将がこんな平和主義者なわけないだろ」と子どもの頃から思っていたのですが、それは制作側も百も承知でやっている、ということなのでしょう。そうしないと、現代の読者に「共感」してもらうのが難しいから。
 『銀河英雄伝説』にしても、そこで語られる民主主義肯定の姿勢に、僕は10代から20代くらいの頃は全肯定し、その後、「衆愚政治に陥るだけじゃないのか」と疑問を抱き、今は、やや懐疑的ながら、「それでも」民主主義を肯定し続けたヤン提督はすごいよなあ、と思っています。
 『リトル・マーメイド』も、正直、「ちょっとイメージと違うよなあ」と僕は思ったのですが、いまの子どもたちにとっては「別にこれはこれでアリなんじゃない」と、抵抗感など無いのかもしれません。実際、アメリカでは白人の若者の割合はどんどん減っていっているわけですし。


 この本では「炎上」が起こる理由について、これまで言われてきたことと、それを覆すような新たな研究が出てきていることなどが紹介されています。
 ネットで人々の分断が進んでしまう理由として、「エコーチェンバー」という概念が語られることが多いのです。


ideasforgood.jp


 たしかに、同じような思想の人たちの意見にばかり接していれば、より頑なに「信じる」ようになっていきそうですよね。
 
 それに対して、著者は、こんな実験結果を紹介しています。

 もう一つ紹介しておきたいのは、計算社会科学者のクリス・ベイルらによる「エコーチェンバーを壊してみる」という実験です。すなわち、ツイッターを使用している被験者に対し、彼/彼女の立場とは異なる立場のツイートがタイムラインに流れるようにし、一定期間後にそれがどのような効果をもたらすのかをベイルらは検証したのです。すると、支持政党ごとにやや違いはあるとはいえ、もともとの党派性がかえって強まるという結果がもたらされました。たとえば、その被験者の一人であるパティーという女性は、実験前、一応は民主党の支持者でありながらも、移民問題などでは共和党に近い立場にありました。ところが、実験後には民主党的な立場を明確に打ち出すようになったというのです。

 パティーは、リツイートされてきた(共和党的な:引用者)中道右派ツイッターアカウントからの穏健なメッセージには注目しなかった。むしろ、リツイートされてきたもっと過激な保守派数名による民主党派への粗野な、あるいは偏見に訴える攻撃に心を奪われた。それまで、こうした最悪の部類の攻撃は自身のエコーチェンバーによって隠されていたのだが、この実験に参加して党派間の全面戦争を初めて経験したのだった。(…)自分の側が攻撃されているのを目にしたうえ、個人攻撃もされたことで、パティーは意を決し、(民主党的な:引用者)リベラル派の論点で自身を弁護するようになった。


 このように、ソーシャルメディアのユーザーはより多様な情報に接しており、なおかつ攻撃的な異論にさらされることでかえって踏破性が強まるのだとすれば、これまでとは正反対の説明が必要になるように思われます。つまり、エコーチェンバーが発生するからではなく、それが壊れるからこそ対立が激化するという可能性です。

 加えて指摘するなら、怒りから利益を得るのは特定のユーザーやメディアだけではありません。ソーシャルメディアのプラットフォームも、少なくとも部分的には怒りによって支えられることになります。
 連邦議会襲撃事件を機にツイッターfacebookから一時的に追放されたトランプは、2022年2月にトゥルース・ソーシャルというソーシャルメディアを立ち上げます。保守系の人びとが集う空間で、それ自体がトランプのエコーチェンバーだとすら言われています。ところが、トランプを支持する人びとのあいだですら、その利用は広がっていません。その理由の一つは、まさにエコーチェンバーであるがゆえにユーザー同士のあいだで怒りを喚起するのが難しいという点に求められるでしょう。端的に言って、面白くないのです。


 僕自身のプチ炎上してきた経験を思い返すと、ものすごく辛くてストレスを感じていたのと同時に、アクセスカウンターはガンガン回るし、多くの反応はあるし、理不尽な反応にヒートアップするし、とにかくアドレナリンが出まくっていた記憶があります。
 すごくイヤだったけど、明らかな「敵」がいたほうが、戦うモチベーションは高まるし、PV(ページビュー)が重視されるネットビジネス的には「お金になる」のです。
 誰も読まない、お行儀の良いきれいな正論よりも、炎上商法。
 まず読まれないと、土俵の上にものぼれない。

 本当に、こんなネットに誰がした、という感じなのですが、なんのことはない、僕自身がしてきたのだよなあ。
 わざわざネット上の「不快なコンテンツ」を見に行って。
 「地雷注意!」と注意喚起されている地雷原に自分で入り込んでいって、地雷を踏み、「なんでこんなところに地雷が埋まっているんだ!」と怒り狂う。
 わかっているつもりでも、その繰り返しなのです。

 いま、X(Twitter)での人気のポストって、「人の感情をかき乱すもの」ばかりじゃないですか。いや、昔から、噂話、紙のメディアの時代から、「人気のニュース」って、そういうものではあったのです。

 ネットはなぜいつも揉めているのか?
 その問いは「戦争はなぜなくならないのか?』に通じている。
 
 人間どうしがいつも揉めているのだから、その人間がよりむき出しになるネットでは、揉めるのが当たり前。
 逆に、一時フェイスブックが揶揄されていたように、「食べ物と旅行の話しか出てこない」と、人は興味を失ってしまう。

 正直、読んでも、「ネットでトラブルを避けるためには、ネットを断つしかないな」という気分にしかなれないのですが、それは現代では「人間やめますか?」と同義なのかもしれません。


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