【読書感想】戦争はいかに終結したか-二度の大戦からベトナム、イラクまで ☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言

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【読書感想】戦争はいかに終結したか-二度の大戦からベトナム、イラクまで ☆☆☆☆


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第二次世界大戦の悲劇を繰り返さない――戦争の抑止を追求してきた戦後日本。しかし先の戦争での日本の過ちは終戦政策の失敗にもあった。戦争はいかに収拾できるのだろうか。第一次世界大戦第二次世界大戦から戦後の朝鮮戦争ベトナム戦争、さらに近年の湾岸戦争イラク戦争まで20世紀以降の主要な戦争の終結過程を分析。「根本的解決と妥協的和平のジレンマ」を切り口に、あるべき出口戦略を考える。


 僕自身は、幸運なことに、日本が直接他国と交戦している時代を経験したことはありません。
 「戦争は悪」「戦争は絶対にやってはいけない」という「平和教育」を受けて育ってきた世代です。

 もちろん、その間も、世界各国ではさまざまな原因で戦争は起こっていますし、日本は全く無関係、ということはないのだとしても。

 あらためて考えてみると、戦争をしたくて仕方がない国、というのは歴史上そんなに多くはない一方で、戦争をする能力がある、軍事力を保持しているというのが独立国としての必要条件だと考えられてきたのも事実なのです。

 戦後の日本では、「戦争を起こさないための方法」が議論される一方で、「一度起こってしまった戦争を、どうやって終わらせるか」という「出口戦略」を考えることは避けられてきた、と著者は述べています。

 原発事故と同じですよね。
 「事故が起こってはならない」という意識が強すぎるあまり、「事故が起こったときの対応や被害を最低限に食い止めるための方策」に関しては、考えることさえタブー視されてきたのです。

 本書は昨今の情勢も踏まえつつ、戦争終結という、個別事例を除き日本ではまったくといっていいほど研究されてこなかったテーマについて、理論と歴史の両面から考えようとするものである。
 戦争終結の問題を考察するといっても、その形態は、無条件降伏の押しつけで終わったり、妥協的な休戦で終わったりするなど様々である。そのため、それらを統一的に把握し、理解するのは難しいように感じられるかもしれない。この点について本書は、戦争終結の形態は「紛争解決の根本的解決」と「妥協的和平」のジレンマのなかで決まる、という視点に立つ。
 戦争においては、戦局における優勢勢力側が集結を主導することになる。そのとき、二つの選択のあいだで板挟みになる。一つは、「自分たちの犠牲を覚悟したうえで、自国の完全勝利をと交戦相手政府・体制の打倒をめざし、紛争が起こった根本原因を除去して将来の禍根を絶つ」選択である。たとえば、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツに対する連合国の立場が当てはまるだろう。もう一つが、「相手と妥協し、下手をすれば単に決着を将来に先延ばししただけに終わるおそれを残しながら、その時点での犠牲を回避する」選択である。こちらは、湾岸戦争においてサダム・フセイン体制の延命を許したアメリカの立場が典型的である。戦争終結を主導する側は、「将来の危険」と「現在の犠牲」のどちらをより重視するべきかというシーソーゲームのなかで、決定を迫られるといえる。


 「紛争解決の根本的解決」と「妥協的和平」のどちらに傾くかが、「戦争をどう終わらせるか」を決めていくのです。

 歴史を振り返ると、「このとき、もうちょっと徹底的に敵国を叩いて再起困難にしておけば、その後の戦争は防げたかもしれないのに」と思うことって、けっこうありますよね。

 第二次世界大戦で、ドイツのヒトラー再軍備、ラインラント進駐に対して、イギリス・フランスが徹底抗戦の姿勢をみせていれば……とか、湾岸戦争で、イラクサダム・フセイン政権を倒してしまっていれば、のちのイラク戦争は起こらなかったかもしれない、とか。
 まあ、後者に関しては、それはあくまでもアメリカ側の立場であって、イラク大量破壊兵器を所持していた証拠はみつからず、イラク戦争後も混乱は続くことになったので、何が正解だったのかは、わからないのですが。
 
 「紛争解決の根本的解決」と「妥協的和平」のジレンマというのは、「もしもボックス」がない世界では、それが正解だったのかどうかわからない、というのもあるんですよね。

 ナチス・ドイツに対して、ヒトラーを倒し、ナチスを崩壊させたのは「正しかった」と考える人は多いと思うのですが、朝鮮戦争で、アメリカや中国、ソ連の思惑が入り乱れて、38度線で南北が分断され、その状態がずっと続いているのは、朝鮮戦争で、両陣営が「現在の犠牲をおそれ、妥協的な和平を選んだから」、なのかもしれません。
 しかしながら、あのまま朝鮮戦争が続いていたら、核兵器の使用や米中、米ソの決定的な対立、「熱い戦争」につながり、莫大な犠牲者が出ていた可能性もあります。
 逆にいえば、アメリカにとっては「不安の種を半世紀以上も残してしまってはいるけれど、そのあいだ、直接の戦闘での犠牲者を出さずに済んでいるのは、合格点ではある」のかもしれません。
 
 戦争の終結といえば、どちらかの陣営が降伏したり、首都を占拠されたり、という、わかりやすい「勝利条件」を想定してしまいがちなのですが、実際は、そこまで行きつく前に大勢が決していて講和が結ばれたり、首都が陥落しても徹底抗戦を続けたり、ということも少なくないのです。
 大きな戦争の場合は、戦勝国側にも、各国の思惑の違いが「勝ち」が近づくにつれて顕在化してくることもあります。
 劣勢の側が、相手側の内部抗争や状況の変化に期待してしまい、降伏のタイミングを失ってしまう場合もあるのです。

 太平洋戦争の場合、優勢勢力であるアメリカにとっての「現在の犠牲」と日本軍国主義の「将来の危険」が拮抗しており、難しい判断を迫られた。もともとアメリカは1941年12月7日の真珠湾奇襲で自国に直接攻撃を加えた日本軍国主義をナチズムと並ぶ脅威とみなし、「妥協的和平」では取り除くことのできない「将来の危険」を除去するために、ドイツに対するのと同様に無条件降伏政策を掲げていた。しかし日本の抵抗は激しく、本土侵攻をおこなえば甚大な損害が予想された。ドイツでおこない、大量の血が流されるのを実際に目にした本土戦を、日本を相手に繰り返したくはなかった。
 この場合、劣等勢力である日本側から見て付け入る隙が生じる。日本側は「現在の犠牲」に対するアメリカ側の懸念に乗じて徹底抗戦に出て、少しでも有利な「妥協的和平」を得ようとした。
 これに対してアメリカ側は、「現在の犠牲」を回避するために従来の無条件降伏政策を修正したポツダム宣言を作成した。しかし妥協しすぎると相手のさらなる要求を呼び起こすことになり、「将来の危険」の問題を解決できなくなるので、天皇制存置についてあやふやな表現をするなど、あいまいな約束しかできなかった。
 対する日本は、あろうことかソ連の仲介という「幻想の外交」にしがみつき、ポツダム宣言のあいまいさにさらなる妥協の余地を見出して、ソ連の仲介の下で同宣言を基礎にした和平交渉をおこなおうとした。
 結局アメリカが自軍の犠牲に代えて核使用による暴力の烈度を上げたのみならず、ソ連参戦によって仲介の余地が断ち切られたため、日本は国体護持の明確な保証が得られないままポツダム宣言を受諾することになる。


 日本が劣勢になってからの太平洋戦争後半の犠牲者数の激増を考えると、もっと早く戦争を終わらせていれば……と、後世を生きている人間としては思わずにはいられないのです。
 しかしながら、当時の軍部は「ソ連の仲介」とか「アメリカ軍に一矢報いてから、なるべく良い条件で講和しよう」というような幻想にとらわれてしまっていました。
 

fujipon.hatenadiary.com

 この本によると、アジア・太平洋戦争でのアメリカ軍の戦死者数は9万2000人から10万人とされているそうです。
 日本人に関しては、この310万人の戦没者の大部分は、サイパン島陥落(1944年7月)後の絶望的抗戦期の死没者だと著者は指摘しています。
 ちなみに、日本政府は年次別の戦没者数を公表しておらず、福井新聞社厚生労働省に問い合わせた際には「そうしたデータは集計していない」という答えが返ってきています(2014年12月8日付)。2015年7月に、朝日新聞社が47都道府県に年次別の戦没者数をアンケートした際にも、岩手県以外はすべて「調べていない」という回答でした。

 岩手県は年次別の陸海軍の戦死者数を公表している唯一の県である(ただし月別の戦死者数は不明)。岩手県編『援護の記録』から、1944年1月1日以降の戦死者のパーセンテージを割り出してみると87.6%という数字が得られる。この数字を軍人・軍属の総戦没者数230万人に当てはめてみると、1944年1月1日以降の戦没者は約201万人になる。民間人の戦没者数約80万人の大部分は戦局の推移をみれば絶望的抗戦期のものである。これを加算すると1944年以降の軍人・軍属、一般民間人の戦没者数は281万人であり、全戦没者のなかで1944年以降の戦没者が占める割合は実に91%に達する。日本政府、軍部、そして昭和天皇を中心にした宮中グループの戦争終結決意が遅れたため、このような悲劇がもたらされたのである。


 これは日本だけの話ではなくて、欧州の戦争でも、ドイツは敗色濃厚になってから犠牲者数が激増しています。
 もう少し早く「損切り」できていたら、うまく負けることができていれば、死なずに済んだ人が大勢いたのです。


 「戦力差が大きい場合」には、圧倒的に優位な国のほうは、かえって「大勢の戦死者を出す」ことへの抵抗感が強くなることが多いのです。

 ベトナム戦争の項と、湾岸戦争イラク戦争の項より。

 本来軍事的に優位に立つはずのアメリカがハノイに追いつめられたのは、ハノイの損害受忍度の高さ(交戦相手よりもより大きな損害を受忍する覚悟がある)にあった。1986年12月、ハノイホー・チ・ミン国家主席は「アメリカ人が20年戦いたいなら、われわれも20年間戦う」と述べた。ホー・チ・ミン第一次インドシナ戦争開戦前夜の1946年にも、フランスに対し「君たちと私たちの戦死者比率は1:10になるだろうが、それでも負けるのは君たちで勝つのは私だ」と警告したことで知られる。
 実際にベトナム戦争におけるハノイ側の戦死者数は、人口に占める割合としては第二次世界大戦における日本の被害の倍以上であった。ハノイにとってこの戦争は、いかなる対価を払ってでも手にすべき民族独立のための戦いであった。

 1991年2月28日、アメリカを中心とする多国籍軍は、クウェートに侵攻していたイラク軍を同国から撃退し、攻撃を停止した。その後3月3日にクウェートとの国境に近いイラクのサフワンで多国籍軍側とイラク側のあいだで湾岸戦争の停戦が合意され、結果的にフセイン体制は存続を許されることになる。湾岸戦争での死者数は、多国籍軍側で約400、イラク側で約20万~30万とされる。


 犠牲者400人対20万人!
 数字だけでみると、まともな「戦い」になっていないように感じます。
 それでも、アメリカ側にとっては、「とにかく戦死者を出さないようにする」ことが、中東の戦争では重要視されていたのです。
 世界大戦での自国の領土が攻められるかもしれない、という切実な状況ではなく、圧倒的に戦力差があるからこそ、「そんな戦争で死にたくない、自国の兵士を死なせたくない」と思いますよね、優位な側とすれば。
 一方、ベトナム側は、それこそ「相手の10倍の犠牲者が出ても、ここは自分の国だし、踏みとどまり続ける」という覚悟を持っていました。
 アメリカが総力戦でベトナムを粉砕しようとすれば、それは可能だったのかもしれませんが、アメリカには、そこまでやる覚悟も動機もなかったのです。
 生まれた国が違う、というだけで、人間の生命っていうのは「等価」ではなくなるんだよな、と考えずにはいられなくなるのですが、それが世界の現実、というものなのでしょう。

 戦争は起こしてはならないし、起こさないようにするのが大事。
 とはいえ、「起こしてはならない、と唱え続けていれば起こらない」というものではないし、「それが起こってしまったときに、どう終わらせるか」というのは、たしかに大事な「出口戦略」ではありますね。
 これからの戦争は、人間が武器を持って血を流しあうような戦争とは、違うものになっていくのかもしれないけれど。


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