高知の田舎町で父と暮らす17歳の女子高生・すずは周囲に心を閉ざし、一人で曲を作ることだけが心のよりどころとなっていた。ある日、彼女は全世界で50億人以上が集うインターネット空間の仮想世界「U」と出会い、ベルというアバターで参加する。幼いころに母を亡くして以来、すずは歌うことができなくなっていたが、Uでは自然に歌うことができた。Uで自作の歌を披露し注目を浴びるベルの前に、ある時竜の姿をした謎の存在が現れる。
2021年、映画館での8作目です。
日曜日の昼間、8月1日の「ファーストデー」ということで映画館は大混雑。館内のお客さんは100人くらいいました。
まあ、みんなマスクはしているのですが、ソーシャルディスタンスとは……という感じではありますね。いや僕もその油断勢の一員だったのですが。
この『竜とそばかすの姫』、正直、映画館で予告を観た時点で、どんな映画だか予想がつくな、と思っていたのです。
細田守監督、2006年『時をかける少女』でブレイクし、2009年に『サマーウォーズ』でも成功。日本テレビから「ジブリの、宮崎駿の後継者として視聴率を稼いでくれるアニメ監督」として、いささか強引に推されているような印象もありました。
その後、『おおかみこどもの雨と雪』(2012)、『バケモノの子』(2015)、『未来のミライ』(2018)と「家族」をテーマにした話題作を手がけてきて、それなりに評価も興行成績もついてきてはいるのだけれど、ノーマークだった新海誠監督に『君の名は』というスーパーカーで抜き去られてしまった、という感じもします。
僕自身は「家族モノ」というのがどうも好きになれなくて、基本的に細田監督の作品も苦手なんですよね。
とくに、『おおかみこども』以降の「家族愛」が主題になった作品は「言いたいことはわかるのだけれど、観ていて楽しくはないし、なんかモヤモヤするんだよなあ」という印象でした。近作の『未来のミライ』は、観た人のあいだでも、かなり評価が分かれていたのです。
前置きが長くなったのですが、この『竜とそばかすの姫』、主人公のバーチャル歌手の名前が「ベル」なんですよね。
観ながら、僕は「なぜ、事前にこれがディズニーのあの名作アニメ映画のオマージュだったことに気づかなかったのだろう……」と何度も思ったのです。
設定が似ているだけではなくて、歌が効果的に使われていたり、竜とベルとの関係、小道具の使い方も、あの映画を彷彿とさせたりと、最新のアニメーション技術とインターネット社会というエッセンスをうまく織り交ぜながら、2時間、飽きさせない映画になっているのです。
というか、この映画を観終えての率直な感想は、「中村佳穂さんの勝ち!」でした。
この映画を観るまで、主人公の声を誰がやっているか知らなかったのですが。
主人公・すずの声の演技は、けっして「上手い」という感じではないのです。ところが、その「ぎこちなさ」みたいなものが、すず、という17歳の他者に心を閉ざしてしまいがちなキャラクターに、すごくハマっているのです。ベルの歌も、「上手いけど、上手すぎないし、真摯さが伝わってくる」というか、聴いていて、歌っている人を応援したくなるような声と歌唱、なんですよ。
観ていると、もうすぐ50歳になろうとしている僕も、自分が高校生くらいのときの「他人に心を開くことが恥ずかしいと思っていた自分」に戻ったような気がしたのです。それと同時に、すずがお母さんの写真をスマートフォンで見ている場面に、「物心ついたときから、インターネットやスマホがあるのが当たり前の世代にとっては、自分の親や友達の過去も簡単に『検索』できるのだな」とも思いました。
そのおかげで、「悪いことをすれば、どこで誰に拡散されるかわからない」「過去の若気の至り、みたいなものも、デジタルタトゥーとして残り続ける」リスクとともに、「ネット上では冴えない現実とは違う、第二の人生を過ごすことができる可能性がある」「多くの『匿名の人々』の良心で発掘されることもあれば、掌を返されて地に落ちることもある」という世界になっている。
とはいえ、僕自身もけっこう長い時間をネットで過ごして実感しているのは、「実生活で一人の観客でしかない人間は、ネット上でも主役になることは難しい」ということなんですよ。
正直、「この物語のいちばん高いハードルは、ベルみたいな存在として、バーチャル世界で有名になること」ではあります。
「何者かになりたい人」が、雲霞の如く存在する世界だから。
ただ、その「当たりくじ」を引く人というのは存在しているし、人々の「集合善」みたいなものが世界をマシにしている面は確実にある。
クライマックスのベルのステージを観ながら、僕はウルウルしてしまったのですが、それは、僕がこの映画の観客として、すずという女の子の「背景」を知っていたからで、いちネット民だったら、「これ、新手のプロモーション?」とか思っていたのではなかろうか。
細田守監督は、ネットとネットでの人々の感情の流れというものをよく見てきて、自らもまな板の上に乗せられてきた人なんですよね。
ネットでの画像や映像の小さな情報からあっという間に場所や人物を特定する「特定班」の凄さも知っている。
あの問題を解決するための、もっと簡単で効率的で有効な方法は、いくらでもあったはず。
にもかかわらず、あえて、「ものすごく身体的なアプローチ」で最終的に問題を解決しようとしたのが、「効率的には甚だ疑問だけれど、それが、細田監督なりの観客への、現代のネット社会への訴え」だったように思います。
そんなに世の中甘くないよ、と、30年前の僕なら、この映画に文句を言ったはず。
でも、今は、「世の中が甘くないからこそ、この映画のような、世界を少しでも善い方向に引っ張ろうとする幻想」に存在意義があるのではないか、と考えています。
いや、そんな難しくこねくり回す必要はないよね。
僕は、すずの不器用さと迷い、そして、優しさに癒され、ベルのステージの歌と映像の力に魅了されて、2時間、心地よく過ごすことができた。もう、それで十分です。
歌も、ストーリーも、何かすっきりしないというか、ぎこちないし、「なぜそうなったのか?」がわからないところも多いのですが、本当に「絶妙なぎこちなさ」なんですよこの映画。
これより下手だと見るに耐えないし、上手いと「あざとい」。
ネットでの「善」と「広告」の関係の描写とか、けっこう攻めてるよなあ。
そして、この映画自体も、テレビ局や広告代理店に推されて大ヒットしている、というのも「現代的」ではありますね。
ひどい親にはひどい親なりの「原因」とか「理由」みたいなものもある。だから許される、というものじゃないだろうけど。
自己犠牲がバカにされる世の中と、自己犠牲が極度に美化され、強要される時代を、人間は揺れ動いている。
とりあえず、僕はこの映画、けっこう好きです。