私たちが「善く生きる」ための道を
賢者たちとの対話(ディアロゴス)で示す。
ヤマザキマリ初の対談集。養老孟司、竹内まりや、中野信子、釈徹宗、棚橋弘至、パトリック・ハーラン、中村勘九郎、平田オリザ、萩尾望都、内田樹、兼高かおる
漫画のみならず、TVコメンテイター、文筆活動など縦横無尽に活躍するヤマザキマリ。世界各国を渡り歩いて得た知見は、歴史、文化、スポーツ、科学、政治、経済、宗教などありとあらゆる分野に及ぶ。その彼女が多彩な識者との連続対談に挑んだ。
コロナ禍に世界が翻弄される中、私たちはどうすれば「善く生きる」ことができるのか。養老孟司、竹内まりや、中野信子、釈徹宗、棚橋弘至、パトリック・ハーラン、中村勘九郎、平田オリザ、萩尾望都、内田樹、兼高かおる、という多様な識者との「対話」によって、寄る辺なき世界の行方を示す、ヤマザキマリ初の対談集。
ヤマザキマリさん初の対談集。
ヤマザキさんは『テルマエ・ロマエ』をはじめとした漫画家としての活動だけではなく、活字の著作も多いので、対談集がはじめてというのは意外でした。
この対談集、元は共同通信から2019年7月~2020年6月にかけて配信された「ヤマザキマリのオリンピック放談」で行われた対談だそうで、スポーツ関連、オリンピック関連の話題が多いんですよね。
ただし、対談相手にスポーツ選手はほとんどおらず(プロレスラーの棚橋弘至さんがいるくらいです)、ヤマザキマリさんと文化人がスポーツとかオリンピックの話をしている、なんとなくかみ合わない感じの対談集ではありました。
僕はスポーツ全般が大の苦手で、学校の体育の授業が大嫌いなので、「スポーツ大好き!」「オリンピックで感動を!」みたいな人たちの話にはむしろ白けてしまうのです。
でも、肝心のオリンピックが新型コロナウイルスの蔓延で延期になり、ようやく開催されるというのに「本当にやるの?」という状況だと、「まあ、この企画を出した人もヤマザキさんも、いろいろとアテが外れて大変なんだろうな」とも思います。
この本が上梓された時点(2021年3月)では、「2021年に絶対に開催される」とも言えないから「オリンピック関連本」として大々的にアピールもできなかっただろうし、連載の最後の対談から1年近く経って、これ以上原稿を寝かせておくわけにもいかなかったのでしょうし。
この対談は、そもそも人間にとっての運動とは何なのか、なぜ人間は運動するのか、といった素朴な疑問が発端となって企画されたため、対話の軸は「運動」である。しかし、私とは分野の違う環境の中で、独特な価値観や視点を築いて生きている表現者たちとの対話によって、私はギムナシオンで討論を交わしていた古代ギリシャの哲学者たちの気持ちをわずかながらにせよ体験できたような気持ちになった。
今回の東京オリンピックに関しては、いろんな業界で、「アテが外れてしまった」人が大勢いるのでしょうね。
その一方で、この対談集には「運動を生業にしているわけではない人たちが語っているからこそ興味深い」やりとりもあるんですよね。
竹内まりやさんの回より。
竹内まりや:マリさんの漫画を読んでいて、マリさんがどれだけの時間を費やし、肉体を酷使してこれを描いているんだろうって想像すると、それだけで気が遠くなってしまいそう。
実はエンターテインメントの世界って、そういうアスリート的なところがあるんですよね。たとえば(山下)達郎がライブをするときは、あの重いギターを抱えて、自分の声帯を奮わせて、3時間立ちっぱなしですから、ライブも肉体というものを使った体力勝負の表現だと思います。
ヤマザキマリ:しかも、トイレにも行かない。見ている方は圧倒されますよ。
竹内:達郎はもともと、生で歌うことをミュージシャンとして一番大事にしていて、ライブが好きなんだと思うんです。私自身はライブをほとんどやっていないので、普段あんなふうに肉体をハードに使った表現はしていませんが、彼のライブという理想型を見てしまったことで、自己獲得目標が高くなりすぎてしまったところがありますね。
アマチュアだったときは、オーディエンスに自分の歌を聴いてもらうことそのものが楽しくて活動していたんです。でも、デビュー直前から達郎のライブを見始めて、果たして自分はお客様からお金をいただいて歌を聴かせるバに立っていいのだろうか、と自問するようになりました。あのレベルに届かない自分がいるということがすごいジレンマだし、一方で、あそこまでやったら今度は創作するエネルギーが絶対に残らない、ということもあります。私はインドア系というか、内省的にいろんな楽曲を書いたり、それをスタジオで試行錯誤しながら密度を高めていって創作するというそのプロセスが一番好きなので、達郎とは表現方法が違うタイプなんですね。
僕が社会に出て痛感したのは、「体力」の重要性だったのです。僕は前述したように運動が苦手でスポーツ全般にコンプレックスがあったのです。でも、医者という仕事ならまあ、スポーツがダメでもやっていける、と思っていたんですよ。
ところが、研修医として現場に出てみると、とにかく肉体的にも精神的にもキツイことばかり。とくに、ずっと休むこともできずに、日勤から当直、さらにその翌日も勤務、みたいな日々には、心底くたびれ果てました。いや、それでも内科だからまだなんとか持ちこたえられたわけで、これに手術や術後管理が加わる外科の医者はもっと体力的にキツイはずです。家に帰るのは月に何日か、着替えを取りに行ってシャワーを浴びるだけ、なんていう同級生もいましたし。
学生時代に「勉強ができる人」だったのに、そういうハードな生活に身体が悲鳴をあげ、仕事をやめたり、臨床以外の仕事に鞍替えした人も少なからずいたのです。
研究者として名を成した人たちの話を聞くと、ほとんどの人が学生時代には部活に打ち込んでいたり、研究をはじめてからも水泳とかテニスとか身体を動かす趣味を持っている人が多いんですよね。
「偏差値が高ければ就ける仕事」なのだけれど、そこで頭角をあらわしたり、長い間続けていくには体力が必要なのです。
山下達郎さんがスポーツジムに通っている姿は想像しがたくて、ずっとスタジオで楽曲にこだわり続けているようなイメージがあるのですが、完璧主義者と言われ、ライブのクオリティにも定評がある山下さんは、かなり体力もあるはずです。スポーツ選手的な瞬発力ではなくて、持続力寄りなのかもしれませんが。
AKB48のドキュメンタリー映画でも、曲の合間のメンバーたちは荒い息を吐き、楽屋で倒れ込んでいました。
宴会芸などでダンスの練習をしてみると、3分間踊り続ける、というだけでも、かなりきついものなあ。
もちろん、竹内まりやさんのように、自分の体力的な限界を知って、それに合わせた仕事や創作活動をしていく、というやり方もあるわけですし、僕も40代半ばから、「自分の能力と体力に見合った仕事を選ぶ」ことにしました。
いやほんと、ホワイトカラーとして食べていこうと思っている人ほど、意識的に「体力」をつけたほうがいいですよ。
村上春樹さんが長年マラソンをやっているのは有名ですが、集中力や精神的なバランスを保つためには「体力に余裕がある」ことって、ものすごく大事だと思います。
僕とか、当直明けはとにかくきつくて、イライラしていたものなあ。年を重ねると、当直中どころか、今日はきつい当直の日、という時点で、朝から憂鬱でした。
中村勘九郎さんとの対談から。
ヤマザキ:以前、勘九郎さんとお話ししたとき、けっこうインドア系の方だというイメージがあったんです。そういう勘九郎さんがオリンピックがテーマの大河ドラマ(『いだてん』)に出演するにあたって、何か心構えのようなものはありましたか?
中村勘九郎:おっしゃるように、僕、本当は歩くのも嫌いな人間なんです(笑)。舞台では激しく動くフィジカルな役をやることが多いので、アウトドア人間だと思われがちなんですけど、休みの日もずっと家にいるし、外に出るのは芝居や映画を観に行くときぐらいだったりします。
でも、マラソンランナーを演じる以上、42.195キロの30キロ地点ぐらいの脚ってこういうものですよ、という説得力がなきゃいけないじゃないですか。舞台ならともかく、映像で脚のアップを映されたら絶対ごまかせないですから、ちゃんとトレーニングしなきゃいけないというプレッシャーはありました。
準備期間も含めれば2年半ぐらい走ることに取り組みましたが、マラソン指導をしてくださったランニング・コーチの金哲彦さんには最初、「勘九郎さんの脚はマラソンランナーの脚ではないし、駅伝走者の脚でもない」と言われました。歌舞伎をやっていると太ももがものすごく発達するので、金栗(四三)さんを演じるためにはそこを削ぎ落とす作業をしないといけなかったんです。
視ていた人たちには好評だったようですが、話題になるのは「低視聴率」ばかりの印象がある『いだてん』。
大河ドラマとはいえ、演じている人たちは、ここまでやっていたのか……と驚きました。
僕自身がインドア派なだけに、この対談集に出てくる「インドア派の人たちが語る身体性」には、納得することも多かったのです。
スポーツマンが語るスポーツの素晴らしさには「それ自分が得意だからだろ」とか「仕事だものな」というような斜に構えた印象を持ってしまうんですよね。
だいたい世の中、自分が関わっていることは重要だと主張するものですし。
医療関係者がコロナ禍のなかで「医療崩壊」とか「医療の大切さ」を語ってもいまひとつ響かないのと同じで。