【読書感想】佐藤優の集中講義 民族問題 ☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言

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【読書感想】佐藤優の集中講義 民族問題 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容紹介
今も世界のあちこちで民族問題の炎が噴出し続けている! テロの国際的拡散、移民・難民の増大、労働者間の国際競争、スコットランドカタルーニャなど地域による独立論争、トランプ後のアメリカで台頭する白人至上主義、中東からの入国規制――。“民族オンチ”の日本人だからこそ知っておくべき、民族問題の現実と基礎理論をまとめた一冊。民族問題を理解するための推薦図書も提示。


 これは、佐藤優さんが同志社大学東京サテライト・キャンパスで、2015年5月から2016年2月にかけて行った講義をもとに書籍化したものだそうです。
 おお、佐藤優さんがわかりやすくまとめてくれた「民族問題」の本なのか、ちょっと読んでみようかな……と思って手に取った僕にとっては、予想よりも、良く言えば本格的、悪く言えば難解な内容だったんですよね。
 「わかりやすさ」「読みやすいさ」重視の場合には、少しページをめくってみて、自分が求めているようなレベルかどうか、確認しておいたほうが良いかもしれません。
 「わかりやすいだけで、著者の思い込みや有名人の雑談でとりあえず一冊の新書にしてみました」というものよりは、はるかに濃密な本なんですけどね。


 佐藤さんは、最初に「日本人が民族問題に鈍感な理由」を述べています。

 我々ほとんどの日本人にとって、民族というのは、非常にわかりにくい問題だからです。それは「日本人」というのが大民族だからなんですね。いわゆる「日本人」は数の上でも一億人を軽く超えます。これは国際的にも大きな存在感です。しかも、その居住範囲も日本列島に集中していて、その領域において圧倒的な大多数を占めている。そういう「大民族」なんです。


 こういう特殊な状況に置かれている日本人にとって、民族問題が実感しにくいのは、ある意味、当然ではあるんですよね。
 もちろん、日本にも少数民族はいるのですが、「日本人」の割合が圧倒的に多いので、民族間の暴力的な衝突もほとんどみられませんし。
 それは日本人にとっては幸運なことなのでしょうけど。
 移民についても、日本という国は、海に囲まれていて、日本語という独自の言語体系を持っているので、「豊かな国ではあっても、移民を希望する人の第一選択にはなりにくい国」なのです。
 こうして考えてみると、日本というのは「きわめて鎖国に向いた国」だと言えそうです。
 今の世界では、江戸時代のような鎖国政策は不可能だとしても。


 しかしながら、国際社会の一員としては、民族問題なんて、興味が無い、関係ない、としらばっくれるわけにもいきませんよね。

 感覚的にわかりにくいものは、まず知的に理解し、その上で実際の状況に接して感度を挙げていくほかありません。今回の講義でベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』、アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』、アントニー・スミス『ネイションとエスニシティ』などの民族論、ナショナリズム論の古典的著作を取り上げるのはそのためです。

 多くの日本人は、「日本人」「日本民族」というものを自明のものだと捉えていて、古来からずっと続いてきた、実体のあるまとまりだと考えていると思います。ところが、ここにすでに落とし穴があります。
日本民族」の歴史といえば、かつては「皇紀2600年」といって神武天皇以来2000年以上続いてきたものとされていました。お隣の中国も「中華5000年の伝統」を謳い、朝鮮民族も、北朝鮮には檀君のピラミッドがあって、5000年前の王さまの骨が出てきたなどと主張している。いずれにしても「民族」というアイデンティティは数千年もの間続いてきたというイメージがあります。
 ところが、歴史的に実証してみると、「民族」という概念は、せいぜい250年ぐらい前にしか遡れない。たとえば、室町時代に京都や東北に住んでいた人たちが、同じ「日本人」「日本民族」という意識があったかどうか確認できない。そうした意識を持っていなかった可能性の方が高いと思います。これは日本に限らず、ロシアやドイツもそうだし、イギリスやフランスも同じです。「民族」という概念はかなり後になって生まれてきたものなのです。
 いや、それどころではありません。「民族」は、現代になっても新たに生まれたり、解体したりしています。いま現在も、生まれつつある「新しい民族」の萌芽をそこここに見出すことができる。そこに民族問題の難しさがあるのです。


 昔から受け継がれてきた、文化や習慣、宗教など、共通するところをもつ人々の集団が「民族」だと思っていたのですが、「民族」という概念は、そんなに古いものではないのです。
 さらに、佐藤さんは、「シーア派のアラブ人」や「沖縄問題」のような「現在進行形の新しい民族」が生まれてきているのではないか、と指摘しているのです。

 第一回の講義の最後は、これから「民族問題」を考えるイントロダクションとして、アンダーソン、ゲルナー、スミスの基本的な論点を紹介します。
 まず「民族」というアイデンティティの核となるものは何か? 言い換えると、我々が「日本人」だと意識するとき、何がその根拠となるのか。
 そのとき、大きく異なる二つの考え方があります。ひとつは「原初主義」というもので、もうひとつは「道具主義」です。
 まず「原初主義」のほうは、民族とか国家には、その原初、はじめのところに、何かしらの実体的な源があるという考え方なんです。たとえば日本語を使うから日本人だと考えるなら、言語が民族の源になるし、肌の色や骨格など生物的、自然人類学的な違いに境界線を求めると、人種主義に近づく。あるいは、日本列島に住んでいるから日本人、インドに住んでいるからインド人だというのであれば、地域が民族の「原初」になるわけです。このほかにも宗教や経済生活、文化的共通性など、「動かざるもの」を共有するのが民族だ、という考え方です。
 日常的に「民族」というと、多くの人がこの原初主義的なイメージを持っていると思います。最近「日本の伝統を守れ」とか「日本を取り戻す!」などと唱えている、声の大きいおじさんたちは、その典型といえるでしょう。
 しかし、こうした素朴な考え方はわりと簡単に壁にぶつかってしまいます。言語にしても、人種にしても、文化にしても、歴史的に源をたどっていくと、複数の「民族」にまたがっていたり、境界が曖昧だったり、住んでいる場所も移動していたりと、矛盾する事例がたくさん出てきてしまう。
 それに対して、「民族というものは、作られたものだ」と主張するのが道具主義の立場です。では、何のために、誰が「民族」を作ったのかというと、国家のエリート、支配層が、統治目的のために、支配の道具として、民族意識ナショナリズムを利用した、と考える。だから「道具主義」なんですね。
 この道具主義の代表的な論者が『想像の共同体』の著者、ベネディクト・アンダーソンです。彼は<国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である>という有名な定義を提示して、国民、民族とは政治によるフィクションだと説いたのです。
 そして、支配層が心理操作によって、国民、民族という自意識を高めて、敵と味方の線引きをしていく。その意味で、民族というのは確実不変なルーツやコアを持つものではなく、非常に流動化しやすく、操作されやすい概念だと唱えたわけです。


 こういう感じで、佐藤さんの講義は進んでいきます。
 このベネディクト・アンダーソンの定義はよく知られているものであり、納得してしまうのですが、いまの世界で、人々が実感している「民族」というのは、必ずしも「支配層の心理操作によるもの」だけではない、と現代では多くの専門家が指摘しているそうです。
 僕の想像上の太平洋戦争前の日本は、「支配層の心理操作によるもの」のようなイメージがありますが、いまの日本で「日本を取り戻す!」と言っている人たちは、何かに操作されている、とも思えないんですよね。
「核となるもの」がはっきりしないところがあるからこそ、今の民族問題というのは、難しいところがあるようにも感じます。
 そして、「合理性」だけで説得できる、というものでもない。

 では、なぜ、スコットランドでここまで分離独立派が勢いを増したのか? そして、なぜ琉球新報だけがそれを見抜けたのか?
 答えは簡単です。スコットランドで起きていることと、沖縄情勢が極めてアナロジカルだからです。
 イギリス政府は最初、独立に関する住民投票をやっても、大したことないだろうとたかをくくっていたのですが、途中から、やばいと思いはじめて、慌ててかなり本格的な選挙キャンペーンを始めます。そのキャンペーンのなかの一つが、スコットランドがイギリスに残留した場合、年間1400ポンド(約24万円)もお得だとして、スコットランド人は一人当たり280個多くホットドックを買うことができます、海外の保養地に二人で10日間遊びに行ける上に日焼けクリームまで買えますよ、という代物だったのです。このキャンペーンが、スコットランド人を怒らせてしまった。要するに馬鹿にするな、ということです。
 このキャンペーンの背後にあるのは、すべてを経済的利害で判断するという新自由主義的世界観です。それがかえってスコットランドナショナリズムを煽ってしまった。実は、イギリスのEU離脱をめぐる国民投票も、さらにはアメリカ大統領選挙でのヒラリー・クリントンの敗北も、同じパターンを反復しているともいえるでしょう。いずれも新自由主義的な政治エリートが自分たちの論理を過信したことが、失敗の一因となった。


「俺達をバカにするな!」
 そういう感情というのは、バカにしている(と思われている側)が想像するより、はるかに強く、大きな反発を生むのです。
 人は、お金のためなら何でもすることもあれば、プライドを守るためなら、窮乏も辞さないこともある。
 そういう潮目を見極めるのは、簡単なことではないのです。


 佐藤さんの講義の最初のほうだけで、もうこんな長さになってしまったので、ここではこのくらいにしておきますが、こんな感じで、「民族問題の専門家になろうというわけじゃないけれど、ちゃんと勉強してみたい」という人には、読みがいがある新書だと思います。
 けっして読みやすくもなければ、簡単でもないんですけど。


大世界史 現代を生きぬく最強の教科書 (文春新書)

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