- 作者: 伊藤亜紗
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2015/04/16
- メディア: 新書
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Kindle版もあります。
- 作者: 伊藤亜紗
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2015/05/15
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内容(「BOOK」データベースより)
私たちは日々、五感―視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚―からたくさんの情報を得て生きている。なかでも視覚は特権的な位置を占め、人間が外界から得る情報の八~九割は視覚に由来すると言われている。では、私たちが最も頼っている視覚という感覚を取り除いてみると、身体は、そして世界の捉え方はどうなるのか―?美学と現代アートを専門とする著者が、視覚障害者の空間認識、感覚の使い方、体の使い方、コミュニケーションの仕方、生きるための戦略としてのユーモアなどを分析。目の見えない人の「見方」に迫りながら、「見る」ことそのものを問い直す。
「目の見えない人」は、世界をどのように認識しながら、行動しているのか?
「見えない人」の多くは、「見える人」に比べると制限されるところはあるものの、ほとんど自力で「目が見えることを前提としてつくられている世界」のなかで生活しています。
当然、彼らには「視覚」以外の「身のまわりのことを知るための方法」があるわけです。
でも、そういうのって、なかなかうまく言葉にされることがないし、「ハンディキャップを負った人たち」に根掘り葉掘り「欠落している機能の補いかた」について尋ねる、というのもいかがなものか、という「自粛ムード」もありそうです。
それは、「持っている者の傲慢」ではないか、というような。
でも、そうやって、「話題にするのを避ける」というのは「優しさ」なのだろうか?
著者は、「まえがき」でこう書いています。
人が得る情報の八割から九割は視覚に由来すると言われています。小皿に醤油を差すにも、文字盤の数字を確認するにも、まっすぐ道を歩くにも、流れる雲の動きを追うにも、私たちは目を使っています。
しかし、これは裏を返せば目に依存しすぎているともいえます。そして、私たちはついつい目でとらえた世界がすべてだと思い込んでしまいます。本当は、耳でとらえた世界や、手でとらえた世界もあっていいはずです。物理的には同じ物や空間でも、目でアプローチするのと、目以外の手段でアプローチするのでは、全く異なる相貌が表われてきます。けれども私たちの多くは、目に頼るあまり、そうした「世界の別の顔」を見逃しています。
この「世界の別の顔」を感知できるスペシャリストが、目が見えない人、つまり視覚障害者です。たとえば、足の裏の感触で畳の目の向きを知覚し、そこから部屋の壁がどちらに面しているのかを知る。あるいは、音の反響具合からカーテンが開いているかどうかを判断し、外から聞こえてくる車の交通量からおよその時間を推測する。人によって手がかりにする情報は違いますが、見えない人は、そうしたことを当たり前のように行なっています。
この本は、視覚障害者やその関係者6人に対して著者が行なったインタビューに基づいて書かれているそうなのですが、この6名は「視力を失った年齢はそれぞれ違うけれど、見えていた時期があった人たち」です。
「視覚障害者」といっても、その状況は人それぞれで、まったく見えない、という人もいれば、人の輪郭くらいはぼんやりと感じる、という人もいます。
この新書を読んでいて痛感したのは「視覚障害者」という枠組みで考えてしまう傾向があるけれど、それぞれの障害の程度や周囲を知るための方法にはかなりの個人差があって、十把一絡げに語れるようなものではない、ということでした。
個人的には「生まれた時点で見えなかった人の感覚」に興味があったのですが、それをうまく言葉にしてもらうのは、難しいのだろうなあ。
見える人が目をつぶることと、そもそも見えないことはどう違うのか。見える人が目をつぶるのは、単なる視覚情報の遮断です。つまり引き算。そこで感じられるのは欠如です。しかし私がとらえたいのは、「見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態」ではありません。視覚抜きで成立している体そのものに変身したいのです。そのような条件が生み出す体の特徴、見えてくる世界のあり方、その意味を実感したいのです。
それはいわば、四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。壊れた、不完全な椅子です。でも、そもそも三本の脚で立っている椅子もある。脚の配置を変えれば、三本でも立てるのです。
脚の配置によって生まれる、四本のバランスと三本のバランス。見えない人は、耳の働かせ方、足腰の能力、はたまた言葉の定義などが、見える人とはちょっとずつ違います。ちょっとずつ使い方を変えることで、視覚なしでも立てるバランスを見つけているのです。
変身するとは、そうした視覚抜きのバランスで世界を感じてみるということです。脚が一本ないという「欠落」ではなく、三本が作る「全体」を感じるということです。
異なるバランスで感じると、世界は全く違って見えてきます。つまり、同じ世界でも見え方、すなわち「意味」が違ってくるのです。
著者は、「見えない人」の感覚の一例として、東京工業大学がある「大岡山」での、全盲の木下路得さんとのやりとりを紹介しています。
木下さんは、小学校くらいから視力が低下していったそうです。
私と木下さんはまず大岡山駅の改札で待ち合わせて、交差点をわたってすぐの大学正門を抜け、私の研究室がある西9号館に向かって歩きはじめました。その途中、15メートルほどの穏やかな坂道を下っていたときです。木下さんが言いました。「大岡山はやっぱり山で、いまその斜面をおりているんですね」。
私はそれを聞いて、かなりびっくりしてしまいました。なぜなら木下さんが、そこを「山の斜面」だと言ったからです。毎日のようにそこを行き来していましたが、私にとってはそれはただの「坂道」でしかありませんでした。
つまり私にとってそれは、大岡山駅という「出発点」と、西9号館という「目的地」をつなぐ道順の一部でしかなく、曲がってしまえばもう忘れてしまうような、空間的にも意味的にも他の空間や道から分節化された「部分」でしかなかった。それに対して木下さんが口にしたのは、もっと俯瞰的で空間全体をとらえるイメージでした。
確かに言われてみれば、木下さんの言う通り、大岡山の南半分は駅の改札を「頂上」とするお椀をふせたような地形をしており、西9号館はその「ふもと」に位置しています。その頂上からふもとに向かう斜面を、私たちは下っていました。
「目の前のものが見えない」からこそ、木下さんは「大岡山」を俯瞰し、そこは「山」なのだと認識したのです。
目が見える著者は、「ゆるやかな坂道」だとしか感じていなかったのに。
「見えない」ということによって、生まれてくる「見方」もあるのだということを、著者は繰り返し紹介しています。
だからサポートしなくても良い、というわけではないのだけれど、見える側にとっても、学ぶところが大きいのだ、と。
この新書を読んで、「見えない人の世界」も、最近のテクノロジーの進歩で、大きく変化してきていることを知りました。
見えない人=点字、というイメージがあるのですが、2006年に厚生労働省が行なった調査では、日本の視覚障害者の点字識字率は、12.6%しかないのだそうです。
ただし、それは悪いことだ、というわけではありません。
点字は習得するのが難しい、というのと、最近は電子化されたテキストが音声で読み上げられるようになったり、インターネットでダウンロードした雑誌を音で「読む」ことができるようになったことで、習得する必要性そのものが低下したのです。
若い世代ほど「点字離れ」が進んでもいるのだとか。
この新書は、美学や現代アートを専門としているという著者が、「かわいそう」という視点ではなく、「目が見えない人」は、「いま持っている機能をどのように使って生活を充実させているのか」を探ったものです。
そして、「彼らの世界」は、けっして他人事ではありません。
日本はこれから、どの国も経験したことのないような超高齢化社会に突入します。社会に高齢者が増えるということは、障害者が増えるということでもあります。さまざまな障害を持った人が、さまざまな体を駆使してひとつの社会をつくりあげていく時代、つまり高齢化社会になるとは、身体多様化の時代を迎えるということでもあります。医療技術や工学技術の発展も、この多様化を加速する要因でしょう。
そうなると、人と人とが理解しあうために、相手の体のあり方を知ることが不可欠になってくるでしょう。異なる民族の人がコミュニケーションをとるのに、その背景にある文化や歴史を知る必要があるように、これからは、相手がどのような体を持っているのか想像できることが必要になってくるのです。多様な身体を記述し、そこに生じる問題に寄り添う。そうした視点が求められているように思います。
誰でも、年齢とともに身体の機能は失われていくのです。
病気や事故による身体の変調だって、いつ起きてもおかしくない。
それを「恐怖」としてではなく、「起こりうる変化」としてとらえ、準備をしていくことが必要なのでしょうね。
テクノロジーが、さまざまな形で人間をサポートできるようになってきているのも事実ですし。