【読書感想】「自分」の壁 ☆☆☆ - 琥珀色の戯言

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【読書感想】「自分」の壁 ☆☆☆


「自分」の壁 (新潮新書)

「自分」の壁 (新潮新書)


Kindle版もあります。

「自分」の壁(新潮新書)

「自分」の壁(新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
「自分探し」なんてムダなこと。「本当の自分」を探すよりも、「本物の自信」を育てたほうがいい。脳、人生、医療、死、情報、仕事など、あらゆるテーマについて、頭の中にある「壁」を超えたときに、新たな思考の次元が見えてくる。「自分とは地図の中の矢印である」「自分以外の存在を意識せよ」「仕事とは厄介な状況ごと背負うこと」―『バカの壁』から十一年、最初から最後まで目からウロコの指摘が詰まった一冊。


 あの大ベストセラー『バカの壁』の養老孟司先生の著書。
 僕の周囲では、『バカの壁』について、「あんなわかりきったことばかり書いてある本が、なんであんなに売れたんだ?」という人が多くて、僕も正直なところ、そう思っていたのです。
 でも、しばらく経って、あらためて読み直してみると、みんなが「そうそう」と頷けるようなことを、まとめて文章化するというのは、けっこう大変なことなんだよなあ、と。
 しかし、今回この『「自分」の壁』を読んでいると、なんだか煙に巻かれているような内容だな、と感じてしまったのも事実です。
 でも、「白か黒か!」みたいな言説がもてはやされがちな世の中で、これほど、のらりくらりと「灰色」を貫いている人も、貴重ではありますよね。
 というか、僕自身も、そういうところがあるし。

 原発の問題では福島の事故以前に、なぜもっときちんとした安全対策ができなかったのか、ということが議論されます。私は、その最大の原因は、原発が政治問題になってしまったことだと思っています。
 政治問題化したために、「是か非か」という対立構造が確立されてしまった。建設をするかどうか、というのではなく、すでにそこにあって稼働しているものの安全性を議論する場合、「是か非か」では、まともな議論になりません。いくら「危ないからなくせ」と繰り返しても、電力会社が「わかりました」と簡単に言うはずがない。
「将来的になくす」ということも、もちろん選択肢だったのでしょう。しかし、その前に考えるべき安全性の問題は、政治とは関係ありません。純粋に技術の問題です。
 反対の人も賛成の人もいていいのです。しかし、とりあえず誰にとっても重要なのは、「どうすれば今よりも安全になるか」ということだったはずです。それを考える上では、政治的立場は関係ありません。「津波が来たときに、この防波堤でいいのか」「浸水したときに、この電源は耐えられるのか」といった具体的な問題を検討するだけです。
 あの事故のときに呆れたのは、非常用電源が防水になっていなかったことでした。今どき、ケータイでも防水加工を施してあるのに、その程度のことをしていないのは、明らかに手抜きです。そして、こういうことは技術的な問題です。
 ところが、「危険だ、存在を絶対認めない」という反対と、「安全だ。絶対に必要だ」という賛成がぶつかりあうだけでは、そうした実質的な議論に発展しない。
 その構図は、事故後の今も変わっていないように見えます。
 なんでもオープンにして議論すればいいのだけれど、そうはならない。すぐに対立構造ができてしまう。こうなると、結果として攻められる側は情報をオープンにできなくなる。オープンにしないことを正当化しているのではありません。ただ、人間の心理としては当然そうなる、ということです。


 ああ、これは確かに、一理あるなあ、と。
 「賛成」も「反対」も、「とりあえず、安全性を高めるにはどうすればいいか」という点では妥協できそうな気がします。
 でも、原発廃止を希望している僕としては、「この養老先生の言葉を鵜呑みにしてしまったら、なし崩し的に『原発がダラダラと続いていく』ことになるんじゃないか」と危惧してしまうのも事実です。
 とはいえ、廃炉の方法も技術的に確立されていないという現状を考えると、そう簡単に「廃止」するのが難しいというのも、わかるんですよね。
 そもそも、「廃炉にするための方法を研究するために、有能な人材が原子力業界に集まってくる」とも思えないし……
 原子力というのは、本当にやっかいなものを手に入れてしまったものではありますね。


 養老先生の基本的なスタンスは、今の世の中で「正しい」されているもの「効率的」とされているものに対して、ちょっと待てよ、と立ち止まって考える、あるいは、「常識」を疑ってみること、なんですよね。

 政治家は、選挙で公約やマニフェストを掲げて戦い、それが守れないとウソつきと非難されます。
 これで思い出したのは、数年前に、「文藝春秋」で読んだ記事です。最近もそうですが、その頃も、歴史問題で世界中から文句を言われていました。靖国問題従軍慰安婦問題について中国や韓国やアメリカが怒っていた。そこで編集部は、在日外国人に「日本のいいところを言ってくれ」というインタビューをするという企画を立てました。
「もう悪口はわかったから、いいところを聞かせてほしい」というわけです。
 そのときに大多数を占めた「日本人のいいところ」は、「時間通りに来る」「言った通りにやる」ということでした。
 これを日本人の美点として評価してもらえるのは結構な話でしょう。しかし、裏を返せば、「時間通りに来ない」「言った通りにやらない」ほうが世界基準だということです。だから外国人は、日本に来て驚く。
 世界の先進国はマニフェストを選挙で打ち出して、それを守るのが世界基準である、だからマニフェスト選挙なのだという話が常識のように言われて、今に至っています。でも、それ自体がウソです。
 日本が国際化することは、日本人がもっとウソつきになるということです。日本人の中で国際化が進んでいる人種はオレオレ詐欺の連中かもしれません。ああいうウソつきは、外国には昔から当たり前にいるからです。

 まあ、この話に関しては「外国」にもいろいろあるんじゃないか、とは思うんですけどね。
 日本以外の国を、こういう文脈で、「外国」としてひとまとめにするのは、いかがなものか。
 でも、たしかに「グローバル・スタンダード」というのは、必ずしも良いところばかりではない、というのは考えてみる必要があるのかもしれませんね。
 そういう「駆け引き」みたいなものも含めて、世界標準に向かっていくのか、それとも、日本国内で「閉鎖的」と言われながらも、「心地好い日本のやりかた」を維持していくのか。
 

 この新書を読んでいると、養老先生のこの「いちいち揚げ足をとっているような感じ」に、ちょっとイラッとするところもあるんですよ。

 体が頭(意識)次第で何とかなる、というのは、まさに今の医学界が勘違いしている点ですが、こういう考え方が知らず知らずのうちに読者の意識に刷り込まれます。
 ノーベル賞を取った山中伸弥教授のiPS細胞への期待にそれがよく出ているでしょう。人間が細胞をどうにかすれば、体は何とかなる、という考え方を多くの人が疑わずに受け入れています。そういう研究にはお金も集まりやすい。
 だから、「iPS細胞って安全なのか」という意見はほとんど聞こえてきません。
 よく、「遺伝子組み換え大豆」を使った食品の安全性について心配する人がいます。私自身は、その種の食品の安全性をあまり心配していませんが、仮にあれが心配だというのであれば、iPS細胞も心配したほうがいいでしょう。生物学者の福岡伸一さんは、iPS細胞とがん細胞は生物学的に見ると、よく似ている点を指摘しています。iPS細胞そのものが、がん細胞になってしまう可能性だってあるのです。
 誤解のないように言っておきますが、私も福岡さんも新しい治療法が生まれることを期待していないわけではありません。しかし、まだよくわからないブラックボックスの部分がかなりあるから、簡単に応用へと進められるわけではない、ということです。

 「何にでも分化できる」というiPS細胞は、がん細胞と似た性格のものであるのは確かです。
 極論すれば、その分化を人間がコントロールできるかどうかを除けば、同じものだと言えるかもしれません。
 養老先生って、めんどくさい人だなあ、とは思うのだけれど、めんどくさく感じるのは、「挙げ足ばかりとっているような気はするけれど、そこで指摘されていることには、無視できないくらいの理があるから」なんですよね。
 こういう人の、こういう話も、たまには聞いておいたほうが良いのだろうな、という気がします。
 みんな、なんとなくそんな気がするからこそ、養老先生の著書は、こんなに売れているのかな、と。



バカの壁 (新潮新書)

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