すべての戦争は自衛意識から始まる---「自分の国は血を流してでも守れ」と叫ぶ人に訊きたい
- 作者: 森達也
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2015/01/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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Kindle版もあります。
- 作者: 森達也
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2015/02/16
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内容(「BOOK」データベースより)
「反日」「国賊」「売国奴」…。いつのまに、こんな言葉が跋扈するようになったのか?加害の歴史から目をそむけ、仮想敵国の脅威と自衛を叫ぶこの国は、再び戦争を選ぶのか。この社会を覆う不安の正体に迫る渾身の論考。
またいつもの「森達也節」か……と思いつつも、つい読んでしまう森さんのエッセイ。
僕は1970年代はじめに生まれた「団塊ジュニア世代」であり、しかも、幼少期に広島で暮らしており、戦後の日本のなかでも、いちばん濃い「平和教育」を受けてきた集団の一人ではないかと思っています。
それが先天的なものなのか、後天的なものなのかはともかく、「戦争はしたくない」。
この本のサブタイトルは、【「自分の国は血を流してでも守れ」と叫ぶ人に訊きたい】なのですが、こういう人たちは「自分や自分の身近な人の血」は流すつもりはないのだろうな、という気がしますし。
そもそも、赤の他人だって、誰かにとっては「大事な人」なんだよね。
とはいえ、昨今の国際情勢などを鑑みると、森達也さんの話は、あまりにも「逆張り」のように感じてしまうのもまた事実。
読みながら「綺麗事ばっかり言われてもねえ……」と思ったり、「いや、こういう『戦争ができる国なのが当たり前」という言説が力を持っていくなかで、綺麗事を言うのが、森達也という人の存在意義なのだから」と思ったり。
ある意味、これだけ身体を張って、「逆張り」を続けている人って、貴重ですよね。
100%「その通り!」と思うような意見なら、わざわざ読む必要もない、そう自分に言い聞かせながら読みました。
20世紀に入ってからの大きな戦争をいくつか列挙した。このすべてに共通することは自衛の意識だ。事例は他にいくらでもある。戦争は自衛の意識から発動する。防衛庁が防衛省に変わることで、自衛隊の呼称はやがて国防軍にと変わるだろう。
自衛や防衛の文字があるうちは軍隊じゃないと、もしあなたが思うなら、イラクや北朝鮮、シリアやイスラエルの軍隊の正式名称も国防軍であることを知ってほしい。中国の軍隊は人民解放軍。アメリカのペンタゴンは国防総省だ。ヒトラーは権力を手中にすると同時に、Reichswehr(共和国軍)をWehrmacht(国防軍)へと改称した。金正日総書記の正式な肩書きは国防委員長だ(今のところ金正恩は国防第一委員長)。2014年7月、イスラエル国防軍はハマスの攻撃に対する自衛権の行使として、ガザ地区に暮らす市民に対して行った無差別攻撃を「Operation Protective Edge(境界防衛作戦)」と命名している。
近代、少なくとも第一次世界大戦以降には「これは侵略戦争だ」と宣言してはじめられた戦争はないのです。
みんな、直接的、あるいは間接的に「自衛のため」だと主張している。
「やらなければ、やられてしまう」
あのNY同時多発テロの後、アメリカがイラクを攻撃したことについて、僕は何人かのアメリカ人に「圧倒的な戦力差があって、イラクも査察を受け入れると言っていた。一般市民が空爆で犠牲になってもいるのに、あまりにも不公平じゃないのか?」と尋ねてみたことがあります。
彼らは、一様にこう答えました。
「いや、あのNYのテロで、我々も命の危険にさらされているということが、あらためてわかった。戦力差があっても、テロリストの爆弾が自分の近くで爆発すればおしまいなんだ。だから、リスクを減らすためには、しょうがないと思う」と。
「当事者」は、自分たちが圧倒的に強い状況でも、怖いものは怖いのです。
うちの長男も、「イスラム国」の人質事件が起こってから、夜、「イスラム国が来るかもしれない……」と怖がって寝付いてくれませんでした。
日本に、しかもこんな田舎には来ないから、たぶん……
それは「取り越し苦労」ではあるのだろうけれど、「全くありえない話」でもないわけで。
このエッセイのなかで、森さんは、「人は、けっこう簡単に残酷になれるのだ」ということを、繰り返しています。
日中戦争で「百人斬り競争」をした2人の日本兵、ナチスのホロコーストに関与した人物、カンボジアでポル・ポト派に与した人々……
彼らは、それが「悪いこと」だと思ってやっていたわけではないのです。
「百人斬り競争」をした日本兵2人は、戦後、戦犯として処刑されています。
しかし、当時の彼らの立場からすれば、「任務に忠実であり、周囲の期待に応えただけ」とも言える。
敵国日本に原子爆弾を投下したときのニュースを聞いたとき、ほとんどのアメリカ国民は歓喜の声をあげていた。このときにはサビで「原爆は神様からの贈りもの」とある歌が大ヒットしている。あるいはホロコーストに文革にポル・ポト派の大虐殺。そんな事例は歴史にいくらでもある。彼らも自分と同じ人間なのだと考える人がいても、それを口にすれば非国民として糾弾される。だから押し黙っているうちに、芽生えた違和感はいつのまにか消えてしまう。つまり実が虚に覆われる。
人は、慣れる。
流れに逆らうことは、怖い。
そして、いざ戦争がはじまってしまうと、どんな手を使っても勝たなければならないと、思うようになる。
「写真を見てほしいんです。戦前の治安維持法成立直前の新聞を大学図書館で検索して、その見出しを撮影したんです」
言われてしぶしぶ見た。次の授業の準備があるから忙しいのに。でも見ると同時に呆然とした。(1)の見出しは「世論の反対に背いて治安維持法可決さる」。そして(2)は「無理やりに質問全部終了」。どちらもどこかで目にしたばかりのフレーズだ。思わず南京は訊いた。
「……本当にこれは当時の新聞の見出しなのか」
「当時です」
「ここ数日の見出しと変わらないじゃないか」
「まだあります」
言いながら杉森は、画面に当てた指をスライドさせながら次の写真を見せる。ガラケーしか持たない南京は、この気取ったような指の動きがどうにも憎らしいのだけど(しかも操作するときの顔もなんとなくドヤ顔に見える)、今はそんなことを言っている場合じゃない。(3)の見出しは「治安維持法は伝家の宝刀に過ぎぬ」。……伝家の宝刀? 一瞬だけ過去と現在がさらに入り混じったような感覚に襲われて混乱したけれど、続く小見出しの「社会運動が同法案の為 抑制せられる事はない」との記述で理解できた。要するに法案を拡大解釈して国民を縛ることなどありえないと(政権は)主張しているのだ。
「ここ数日」とは、「特定秘密保護法」が可決された、2013年12月6日近辺を指しています。
歴史は繰り返す。
安倍政権に、現時点ではそんな意思はないとしても、将来、これを悪用する政治家が出てこないとは限らない。
歴史上の大きな転換点は、必ずしも、その場にいた人々に、そのように認識されていたわけではないのです。
森達也という人が、「本気でそう思っている」のか、「あえてアンチテーゼをぶつけてきている」のか、僕にはよくわからないのです。
ただ、僕にとっては、ときどきこの人の話を聞くというのは、時計の針を時報に合わせるようなものなんですよね。