- 作者: 神田憲行
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2014/10/17
- メディア: 新書
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Kindle版もあります。
- 作者: 神田憲行
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2015/01/30
- メディア: Kindle版
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内容(「BOOK」データベースより)
灘、開成、筑駒…東京大学合格者数ランキングの「常連校」は数多く存在する。しかし、五〇年以上トップ10に名を連ねる麻布の校長は「東大入試のために六年間も使うのはバカバカしい」と断言して憚らない。校則も無ければ、大学現役合格にもこだわらない。いわゆる「進学校」のイメージを裏切り続ける麻布。独自の教育と魅力を解き明かすべく、現役の生徒から図書館司書、保健室の先生、麻布が輩出した各界OBの証言までを徹底取材!
僕自身には、まったく縁がない世界であり、30年近く前の高校入試の際に、「東京には、麻布高校という個性豊かな(変な)学校があるらしい」なんていう噂を耳にしたことがあるくらいだったのですが、この本を読んで、いまさらながら、「そんな進学校がありえるのか……」と驚いてしまいました。
読みながら、中島らもさん(灘中・灘高から大阪芸大卒)が、学生時代の頃を書いていた文章を、ちょっと思いだしたんですよね。
著者は、「麻布」へのイメージを、冒頭でこんなふうに述べています。
小学校から高校まで田舎の公立、それもどちらかというと程度のあまりよろしくない学校を出ている私からすると、麻布はクラクラするような存在だ。私にとって私立進学校は、銀ブチ眼鏡をキラーンと光らせて参考書を抱えているような「漫画の世界」でしかない。
しかし世の中でちょっと変わったこと、跳ねたことをして私の視野に入ってくる人のなかに麻布出身者が異常に多かった。最終学歴は「東京大学」になっていても、一枚めくるとそこには「麻布」とあった。
「お前の学校、変わった人多いよな」「そうかもしれません」「変だよな」「変ですね」。
「変」「変」というキャッチボールを積み重ねていくうちに「麻布って変」をいっそ形にすればいいのではないか、ということになった。一流大学を出ているのに、あまりその学歴にしがみついた生き方をしていない。「えっ、麻布出てその大学?」という人もいる。何か口を開けば、社会の注目を集める発言をする。中学受験をして東大を目指すという「レールに乗った」人生のはずなのに、その行動を発想が「変」なのである。
そこではガチガチの受験指導ではない、私たちの先入観とは違う教育が行われているのではないか。その「謎」を解き明かすことで、麻布以外の生徒、親、教師たちにも参考になるような教育、生き方を提示することはできないか。
その想いで学校に通い、生徒、先生、OB、その他関係者に取材した。
二年間の取材で得た感想は、「やっぱり麻布って変」だった。
この新書からうかがえる麻布の生徒たちの様子って、僕の中高時代(もう30年くらい前、なんですけどね)に、クラスの中で、ちょっと浮いていたマニアックな男子生徒の集団を、濃縮して1ヵ所に集めたような感じなんですよ。
僕もおそらく、そういう集団の一員だったので(自分ではなかなか客観的にみることができないし、思いだしたくもないのだけれど)、なんだかけっこう親近感がわいてきます。
「普通の学校」では、周囲から白眼視されたり、女子にモテずにコンプレックスの塊になったり、あるいは、趣味をこじらせてサブカル野郎になってしまったりする男子たちが、水を得た魚のように、跳ね回れる場所、それが麻布。
麻布の行事や校内を見学して、私がいちばん驚いたのは教室だ。変を通り越して「これは学校の態をなしてはいないのではないか」とすら思った。生徒さんにアンケートをとるために、彦坂先生が当時担任をしていたクラスにお邪魔した。「クラスタイム」という名前のホームルームなのだが、先生が教室に入ってもまだ立っておしゃべりしている生徒がいる。横座りで音楽を聴いている生徒、机に漫画本を積みあげてむさぼるように読んでいる生徒もいた。田舎の県立高校育ちの私は頭のなかで「これはうちの学校では校則違反」「こいつも校則違反」「こいつらまとめて停学や!」と、やり場のない怒りに見舞われた。別にそんなこと、私が思う必要はないのだが。
ただし、先生がやってきてプリントを配り始めると、生徒たちはとくに注意されなくても席に戻り、課題にサッと取り組み始めるのだとか。
ある意味、とても効率的な動きをする集団であり、そうやって切り替えられるからこそ、こんな狼藉が許されているのです。
「クラスの中は絶望的に汚い」そうですけど。
また、学校運営のかなりの部分が、生徒の「自治」に任されている学校でもあります。
運動会は、たとえば中一から高三までの一組は赤、二組が青とクラスを縦割りに色わけにして、色別対抗で行われる。
ここからがちょっと変なのだが、各色の団長は、まず自分の髪の毛をクラスの色に染めることから始める。だから校内には赤、青、緑といった髪色の生徒が現れる。委員長は全クラスの色を使って染めるから、だんだら模様ですごいことになる。あんな髪の毛をして先生から怒られないというのは、田舎の高校生だった私からすれば考えられないことだ。
ちなみに運動会、文化祭とも受験を考えた保護者が子どもを連れて見学に来ることも多く、みんな髪の毛の色にショックを受けるそうで、先述の学校説明会では彦坂先生が、
「いろんな髪の毛をした生徒がいますが気にしないでください」
と弁解のようなことを言っていた。
そして麻布のもうひとつの素顔を見せてくれるのが、三日間かけて行われる文化祭だ。麻布の文化祭は一般公開されていて、三日間でのべ二万人も訪れるという、ちょっとした商業イベント並みの規模である。文実(文化祭実行委員会)の委員長は選挙で選ばれ、方針に不満をもった生徒がいると解任動議が出されることもある(取材当時)。ちなみに麻布には生徒会はなく、文実、予算委員会、選挙管理委員会などの分立体制だ。文実の「部室」も見学させてもらったが、かなり汚い。扉も天井もOBたちが書き残していった落書きだらけだ。しかし、ここは彼らの「自治の誇り」にもつながる城なのだろう。そこに学校の指導は及ばない。文実は委員長のもと、行事部門など複数の部門にわかれ(当時)、数百万円の予算を彼らだけで執行する。外部の業者に依託する際には、生徒が業者を探して選び、交渉して代金を支払う。先生という「大人」は介在しない。
「お行儀の良い、勉強ばかりやっている進学校」ではなく、自由とともに、責任とか社会への向き合い方も実践させていく、それが麻布の校風。
ただし、それが許されるのは、麻布に実績があるから、というのも事実です。
取材当時の校長(現在は学園理事)だった氷上信廣先生は、こんな話をされています。
氷上先生が校長になったとき、前任者から、
「この学校を運営するのは、山の稜線を歩くようなものだよ」
と忠告されたという。
「東大合格者数を増やすことだけ考えて、ただの進学校にしてしまえば話は簡単なんです。しかしそれでは今までこの学校が育んできた伝統や大切にしてきた価値観を失う恐れがある。進学実績を気にしつつ、自由な校風を維持していく、二律背反のような学校運営をしなければならない。本当に難しいことです」
東大進学率について、氷上先生は「そりゃ気にしますよ」と言う。
「うちは東大合格者ランキングのベスト10から落ちたことがない。そこが最低ラインかなと思っています。人数で言うと70人、本音では常時80人は入ってほしい。90人とか100人も入った年も珍しくないわけですから」
水上先生が校長に就任した翌年の2004年度、東大合格者数が、かろうじてトップ10内はキープしたものの激減した。月刊誌に「麻布の凋落」という記事まで書かれ、PTA総会でそのことについて言及することを求められた。
「そのとき初めて、僕は『麻布は二兎を追う学校です』と言ったんです。最初のウサギは進学実績のこと。東大合格者数が激減しても麻布の存在意義が問われるとは全く思わないし、必ず復活するからと。もうひとつのウサギが人間形成です。そのために生徒は自主自立して積極的にクラブ活動などを自分たちで運営する。凋落というような、学校そのものがダメになったような言われ方をして全く心外だと言いました。以来、僕は生徒にも『二兎を追え』と言っているんです」
麻布高校の場合、「エリートだからこそ、東大合格者数ランキングが、ずっとベスト10以内だからこそ、許される校風」であり、「天才ばっかりが集っている学校だからこそ、自治だの自由だのが成り立っているのだ」と思っていたんですよね。
この新書を読んでいると、そんな超エリート校にも、さまざまな葛藤があるのだなあ、とあらためて思い知らされました。
なかでも、麻布の先生たちの「この学校の校風を守り、リベラルアーツの砦として受け継いでいきたい」という思いには、なんだかとても心を打たれたのです。
日本の大学が、どんどん「職業訓練校化」しているなかで、生徒たちの好奇心や自立心、そして、物事を理解していくための下地をつくることを目指している麻布は、そこらの大学よりも、もっと、「本来の大学的」であるとも言えるのではないかと。
逆に、こういう「生徒の自主性や、考える力を育てるための教育が、麻布のような高偏差値校でしか許されないというのは、ちょっともったいないのではないか」とも感じました。
それは本来、同年代の学生たちみんなが、学校で磨いておくべきものなのに。
こんな学校に入れたのだから、親のほうも、それなりに「覚悟」(あまり受験に特化した授業はしないとか、学校行事に力を入れすぎて浪人してしまうとか)をしているのかと思いきや、麻布でも「子供が東大に行けるかどうか?」を心配する親が少なからずいるのです。
もともと、勉強はできる子ばかりなのだから、受験対策に特化してしまえば、もっと、東大合格者数を増やすことは可能なのかもしれません。
そのほうが、先生たちもラクなのではないかと思うのだけれど、麻布は、あえて、イバラの道を選んでいます。
麻布も、けっして「楽園」ではないのです。
まあ、中高生の男子が集団でいて、「曇りひとつない楽園」になるわけがないのだけれども。
物理の加藤先生は、こんな話をされています。
ーー「やんちゃな子が多い」と聞いていたそうですが、実際にはどうですか。
加藤先生:「ここに来る前に定時制にいてよかったなあと思います。生徒とぶつかっていかないといけないので、ここと生徒の扱いがよく似ているんですよ。教員もすごくアットホームだし、生徒を頭ごなしに叱るということもしない。どうしたの、なんでそんなことしたのと訊くと自分が悪かったんだなとわかってくれたりする。つっぱったり、教師に反発する一方で逆にものすごく人なつこかったり、教員室に入り浸ったりしている子がいるのも、麻布も定時制も同じです。教育の根本は一緒かもしれません」
一方で、公立進学校にも定時制にもない麻布特有の生徒の雰囲気も感じるという。
「生徒ひとりひとりが孤独感をもっているんじゃないのかなあ。自分のことをわかってくれている友だちがいる子が少ないのかな。ここは何でも自分のことをさらけだしすぎちゃう子が多いんですよ。だから逆に、あそこまで自分はさらけだせない、と内に秘めている子も多いような気もします」
加藤先生が感じるこの生徒がもつ独特の孤独感は、言葉を変えながらこのあとに登場する先生、生徒の取材にも出てくる。
「自由な校風」「自主性を重んじる」「学ぶ力を身につける」というのは、すごく魅力的に感じられるのです。
でも、その一方で、それはけっして、生徒たちにとっても「ラクではない」のでしょう。
「自由」には、責任が伴う。
そして、この校風が、すべての生徒に「向いている」わけでもない。
それでも、「いろんな生徒の、いろんなありかたを許容する」というこの学校は、けっして「合わない生徒を簡単に切り捨てることはない」ようです。
「エリート」っていうのもラクじゃないんだな、と、しみじみと感じるような生徒たちの話やエピソードも、この新書のなかにはおさめられているのです。
「二兎を追う」のは、キツいところもあるよね、やっぱり。
「理想の教育」だと感じるところもあり、その一方で、「いまの日本の教育のなかで、これだけ多くのことを、ある学校だけが生徒に求めるのが妥当なのだろうか?」と思うところもあり。
良い(とされる)大学に行くことだけがすべてじゃない。
その一方で、良い大学に行けるものなら、やはり、行っておくにこしたことはない。
麻布には、今、僕が自分の子どもに受けさせようとしている「教育」というものについて、あらためて考えさせられるところが、たくさんありました。
行きたくても、そう簡単に行けるような学校じゃないのは、百も承知なのだけれども。