- 作者: 一坂太郎
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2014/10/24
- メディア: 新書
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内容紹介
二〇一五年大河ドラマ。脱藩、投獄、処刑……明治維新の礎となった松陰の苦難の生涯と逆境にあっても慈愛に満ちた家族の絆を描く。
内容(「BOOK」データベースより)
読書好きの家庭に生まれた吉田松陰は、おおらかな母滝や教育熱心な父百合之助、弟思いの兄梅太郎、個性豊かな妹弟や叔父に囲まれ育った。明治維新の立役者となる多くの若者たちを育てた松陰の生涯は、常に捨て身で革新的な思想を主張し、脱藩や二度の投獄、処刑へと至る壮絶なものであったが、周りにはいつも家族や同志の支えがあったのだ。松陰と彼を愛した人々、彼の「志」を受け継いだ者たちを描く幕末群像。
2015年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』は、吉田松陰の妹・文さんが主役です。
文さんを演じるのは、井上真央さん。
それで、こういう「吉田松陰の家族」について、これまでの「伝記」よりも詳述した新書が出ることになったのだと思われます。
また、時代の局面を打破するためならテロも大いに推奨した。門下生たちに、あいつを殺せ、こいつを殺せと手紙で指示を与え、ついには自分が乗り出して幕府要人を殺そうとする。それが「至誠」であると、一点の疑いもなく信じていたのだが、裁きの場では通用するはずもなく、ついには処刑されてしまった。
「志」に対して誠実で、妥協は認めぬという少数派の行き着くところはテロでなのだ。かつての日本には巨大な権力者に挑みかかる若きテロリストに、多くの国民が共感して喝采を送るといった傾向があった。そうした風潮のなかで、松蔭もヒーロー視されたという一面がある。
つねに捨て身で、恐いもの知らずで暴走したかに見える松蔭だが、いくつか「泣き所」があった。そのひとつが「家族」というのも実に人間臭い。孤独な獄中生活を送っているとき、妹から手紙や差し入れが届くと、子供のように大はしゃぎして、長々とした説教くさい手紙を書くあたりなど、微笑ましくもある。どのような家族だったのか、どのように育てられたのか、興味は尽きない。松蔭の生涯を追いながら、家族にも注目して稿を進めてゆきたい。
この新書、内容としては、吉田松陰という日本の転換期を生きた傑物の人生と、彼の影響を受けた人々の「その後」を辿っていくものなのですが、著者は、必ずしも吉田松陰を手放しで賞賛しているわけではありません。
吉田松陰という人物が実際にやったことについて、こんな「身も蓋もない評価」をしています。
松蔭の生涯だけを見るなら、失敗の人と言わざるをえない。脱藩、密航計画、老中暗殺計画と、どれを見ても、うまく運ばなかった。
もし、ここで松蔭の遺志を継ぐ者が現れなければ、今日「吉田松陰」の名は山口県か萩市の郷土史の片隅に記された程度のものだったかもしれない。しかし、そのようにならなかったのは、門下生たちが遺志を継いだからである。
吉田松陰自身が何かをやったというよりは、彼の薫陶を受けた人々が、その後の歴史に大きな影響を与えたからこそ、吉田松陰という人は、大きな存在として評価され続けているのです。
そもそも、松蔭に対する評価も、明治維新後は「英雄」として称えられたり、親族や教え子が「萩の乱」の首謀者として裁かれ、大きな批判にさらされたりと、二転三転していくのです。
松蔭が安政の大獄で囚われたのも「幕府の要人暗殺計画」が発覚したからで、「無実」でもないし、幕府としては「テロリストに対する、当然の対応」だったのです。
書物と学問が好きで、人にものを教えるのが大好きだった吉田松陰という人は、処刑される寸前まで、想像と理想の世界を生きていたような感じがします。
もし、松蔭が長生きしていたら、「大言壮語ばかりの人」として、忘れ去られていた可能性もあったのではないかなあ。
この新書のなかでは、松下村塾で松蔭が教えていたことの一部が紹介されています。
また、松蔭は読書の方法を、塾生たちに伝授している。
たとえば歴史書は、
「地を離れて人なく、人を離れて事なし、人事を極めんと欲すれば先づ地理を見よ」
と、つねに地図と照合しながら読めと教えた。
頼山陽の『日本外史』の講義を始めるときには、
「外史は平氏を始めとすれども、長州人は毛利氏より始むべし」
と述べ、『日本外史』の巻頭からではなく、途中の毛利氏の部分から講義を始めたというのも面白い。まず自分が立つ足元をよく知ることこそが、大切なのだ。
また、書籍は読むだけではなく、己が感ずるところは抄録しておくよう指導した。松蔭みずからも実行していたため、指には筆の「タク」(たこ)ができたほどである、
「今年の抄は明年の愚となり。明年の録は明後年の拙を覚ゆべし。これ智識の上達する徴なり」
と、抄録を作ることで、自分の学問の進歩の度合いを確認せよと、教えていた。
この話は、今でも参考になりますよね。
松蔭は「教え上手」であり、他人にものを教えることに情熱を持ち続けていたようです。
そして、何でも記録に残しておくという習慣が、後世にも吉田松陰という人の思想を伝えることにもつながりました。
この新書で、吉田松陰の家族の「その後」を辿ってみると、「家族に、一族に『偉人』がいる」と注目も浴びるし、大きなプレッシャーにさらされ、自分も「偉人的」に生きなければならないような気分になっていくのかな、と考え込まずにはいられません。
僕も「周囲の人々」の一員なので、「有名人の子供」に対しては、つい特別視してしまうのですが、「特別でも、平凡でも、あれこれ言われてしまう」というのは、けっこうつらいのだろうな、と。
ちなみに、松蔭の妹のひとりで、大河ドラマの主人公である、文さんについて、著者は、こんなエピソードを紹介しています。
松蔭が野山獄にあった安政二年(1855年)十一月三日、母滝にあてた手紙のなかに、文の成長を喜ぶ次のような一節がある。
「お文は定めて成人仕りたるにて之れあるべく、仕事(家事)も追々覚え候や、間合間合に手習など精を出し候仕り度く奉り候」
松下村塾出身の横山幾太が明治24年(1891年)に語った回顧録「〓〓釣餘鈔」(『全集・十二』)によると、松蔭の意を悟った中谷正亮が、あるとき久坂に文を妻にしてはどうかと尋ねる。ところが久坂は、
「夫(そ)の妹醜なる(容姿がよくない)」
との理由から、これを拒んだ。すると中谷は、厳然としてあらたまっていう。
「之れは甚だ君に似合はざる言を聞くものかな、大丈夫の妻を妻(め)とる、色を択ぶべきか」
容姿で妻を選ぶのかと問われた久坂は言葉に詰まり、ついに承諾したという。「当時中谷の媒酌は妙なり」と横山は述べている。真偽のほどは定かではないが、よく知られる逸話である。
ともかく、こうして文は安政四年十二月、久坂に嫁ぐ、新婚夫婦は杉家で生活したようだ。
諸葛孔明の妻が「醜女」であった、というエピソードを、これを読んで思いだしてしまいました。
周囲の人は、孔明のような賢者、権力者であっても、あんな醜女を嫁にしたのか、とはやし立てていたそうですが、当の孔明は、妻の容貌に対するこだわりは、まったく見せなかったそうです。
その孔明の妻は、理知にあふれ、夫をよく助けた、と言われています。
まあ、井上真央さんは、どうみても「醜女」じゃないですけどね。
「この妹さんの話で、1年間ドラマを維持できるのだろうか……」と思うのですが、さて、どうなるのやら。