300 〜帝国の進撃〜 ☆☆ - 琥珀色の戯言

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300 〜帝国の進撃〜 ☆☆


あらすじ: 100万もの兵を率いてギリシャ侵攻を図るペルシャ帝国を相手に、300人の精鋭と共に戦いを繰り広げた果てに命を落としたスパルタのレオニダス王。彼の遺志を継ぐようにしてアテナイテミストクレス将軍(サリヴァン・ステイプルトン)は、パン屋、陶工、詩人といった一般市民から成るギリシャ連合軍を率いてペルシャ帝国に立ち向かっていく。ペルシャ帝国の海軍指揮官アルテミシア(エヴァ・グリーン)らと拮抗する中、ついに大海原を舞台にした最終決戦を迎えることに。


参考リンク:映画『300 帝国の進撃』オフィシャルサイト


2014年22本目の劇場での鑑賞作品。2D字幕版。
平日の夕方で、観客数は僕も含めて6人でした。


僕は前作の『300』がけっこう好きなんですよ(前作『300』の感想はこちら)。


それで、今回の「続編」の公開もけっこう楽しみにしていたのですけど、正直なところ、観てがっかりしました。
この続編をつくった人たちは、なぜ『300』が残虐シーン連発だったにもかかわらず(「死体ツリー」「死体ウォール」がババーンと登場したのは、けっこう驚きました)、あんなに人気を博したのか、というのを、理解していなかったのではなかろうか。
刎ねられた首がすっ飛んでいったり、ドバドバ血が出たり、戦闘時にスローモーションが多用されたりしているのは「前作通り」ではあるのですが、そういう残虐さがけっこうワンパターンで、同じような戦闘シーンが続くので、映画では血まみれの戦士たちが戦っているにもかかわらず、僕は何度か居眠りしてしまいました。
うーむ、多少寝不足ではありましたが、まさかこんな早めの時間の映画鑑賞で、何度も寝落ちしてしまうとは……


そもそも、前作『300』の「テルモピレーの戦い」は、実際にあった戦いで、映画『300』もヘロドトスペルシャ戦争についての記述を、かなりとりいれたものだったそうです。
スパルタの戦士たちの言葉にはヘロドトスの『歴史』に書かれているものが多く使われています。


前作『300』の感想で、僕はこんなことを書きました。

普通の映画だったら、「100万の大軍に300人で立ち向かう葛藤」みたいなのが描かれそうなものなのですが、この映画は「これがスパルタだ!」でおしまい。いや、僕だったら、「スパルタ的な自由」より「ペルシャの配下の不自由」のほうがいいかも。


ところで、僕がこの映画を観ていちばん考えたことは、「歴史における『物語』の力」なんですよね。この「テルモピレーの戦い」そのものは、はっきり言って「スパルタ軍の無謀な意地っ張り」でしかありません。でも、この戦いでの300人のスパルタ人たちの「敢闘」は、結果的に歴史上、大きな意味を持つようになっていったのです。ペルシア帝国からすれば「あんな恐ろしい連中とはなるべく戦いたくはない」と考えるようになったでしょうし、ギリシア側は「テルモピレーの勇者たち」によって、大きな「勇気」を与えられたのです。そういう「影響」でいえば、太平洋戦争での硫黄島の戦いや神風特攻隊というのは、けっして「全くの犬死にではなかった」のかもしれません。もちろん、それは合理的、効率的な手段ではないのだとしても。


『300』って、マッチョな世界観と残虐シーンの「残酷美」が観ていて印象に残るのですが、「なぜ、レオニダス王と300人のスパルタの勇者たちは、あんな勝てるはずもない戦いで死ぬことを選んだのだろう?」という歴史的な「なぜ?」への、ひとつの答えが提示されているんですよね。
「自分たちの死が語り継がれること、情報として、他者に影響を与えうること」を理解し、自ら「伝説」になることを望んだ男たち。
本当は、彼らのなかにも、死ぬことへの葛藤があったのかもしれませんが……


でも、今回の『帝国の進撃』では、アテネが、テミストクレスが「戦う理由」が伝わってこないんですよ。
そもそも、マラトンの戦いで、テミストクレスがダレイオス1世を射たなんて事実はないし、サラミスの海戦ペルシャ軍に、女性の指揮官がいたという史実もありません。そのペルシャ海軍のフィクションの女性指揮官アルテミシアは、復讐狂、色情狂なのが目立つばかりで、全く有能にはみえないんですよ。
フィクションを混ぜるのはしょうがないとしても、さすがにひどい。
こんな大軍を擁しているのに、ノコノコ指揮官が最前線に出てくるのはおかしいよ……
そして、あっさり誘いに乗るなよテミストクレス……
この映画のテミストクレスって、「ペルシャが攻めてきたから、なんとなく対抗している」ようにしか見えないのです。
記録によると、史実のテミストクレスには、名誉欲、権力欲が強い策略家、という一面があったそうなのですが、この映画でのテミストクレスは「無策」です。


なぜか、アテネの船のシーンでは、鞭打たれながら櫓を漕いでいる奴隷たちが頻回に登場してきます。
ギリシャのポリスの「自由」の象徴である「直接民主制」が成立し、男たちが政治にばかり目を向けられたのは、奴隷の労働があったからです。
しかし、この映画に「アテネは自由自由って言っているけど、奴隷をこき使いながらじゃないか!」という「歴史の矛盾への言及とか、抗議、あてこすり」みたいな意図があるとも思えませんし……


こんな「史実には存在しなかったペルシャ海軍の女性指揮官」対「こんなにアホだったとは思えないテミストクレス」の歴史マニアを置いてけぼりにした中途半端な争いには、前作の「美学」が感じられないのです。
テミストクレスという人物の内面も、全く見えてきません。


それこそ、ヘロドトスの『歴史』くらいしかテキストのない時代ですから、「嘘と本当の境界」なんて、知りようがないんですけどね。
でもまあ、この歴史改変(想像力?)は、ちょっと「やりすぎ」なんじゃないかなあ。


笑えるくらい凄惨な場面がみたければ『地獄でなぜ悪い』を観ればいいし、壮大な海戦スペクタクルを観たければ『レッドクリフ』を観ればいい。
なんというか、前作『300』の「死というものに対する、スパルタ人、そしてレオニダスの強い意志や美学」みたいなものが伝わってこず、見かけだけ同じように「残酷」にしても、そりゃつまらんよな、と。


「こういうの出しとけば怖いんだろ」っていう感じで、死体とか幽霊とかゾンビとかを、漫然とたくさん出すようなホラー映画って退屈ですよね。
そこに「心に訴えかけてくる、不安を煽るような何か」がなければ、どんなに「怖そうなもの」を並べても「見るのが嫌」になるだけです。


前作がヒットしたので、続編をつくろうとしてみたがうまくいかず、さりとて予算もかなり使ってしまったのでお蔵入りにもできなかったので、なんとか帳尻合わせて公開しました、というのが伝わってくる駄作でした。
これじゃ、レオニダスもスパルタの300人の精兵たちも、浮かばれないよ……

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