それでも夜は明ける ☆☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言

琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

それでも夜は明ける ☆☆☆☆☆



あらすじ: 1841年、奴隷制廃止以前のニューヨーク、家族と一緒に幸せに暮らしていた黒人音楽家ソロモン(キウェテル・イジョフォー)は、ある日突然拉致され、奴隷として南部の綿花農園に売られてしまう。


参考リンク:映画『それでも夜は明ける』公式サイト



2014年9本目の劇場での鑑賞作品。

 公開初日、金曜日のレイトショーを観たのですが、お客さんは15人くらいでした。
 アカデミー作品賞を受賞したから、このくらいの客入りなのか、受賞したのにこんなもの、なのか。
 最近アメリカの奴隷制度についての映画が多いのですが、日本人にとっては、あまり実感がわかないテーマでしょうしねえ。


 これは、僕がこれまで観た映画のなかで、いちばん丁寧に「奴隷の日常生活」みたいなものを描いていた作品のように思います。
 北部に住む「自由黒人」だった主人公は、騙されて奴隷として南部の農場に売り飛ばされてしまうのです。
 そこから、逃げ出す手立てもないまま、12年間……


 僕がこの映画でいちばん印象に残ったのは、主人公が連れてこられた最初の農場で、子どもと引き離されて泣きじゃくっている黒人女性に、農場主の妻(白人)が優しくこんなふうに言った場面でした。
「かわいそうに……子どものことは早く忘れなさい。今日はゆっくり休むといいわ」
 この農園主の妻は、それまで生きてきた白人の世界、黒人が奴隷であることが当たり前の世界では、きっと「優しい人」なのでしょう。
 同じ人間であるならば、まだ小さな子どもと引き離されたばかりの母親に「早く忘れなさい」なんて、言えるはずがない。
 でも、「同じ人間ではない」のが当然の世界、奴隷がいなければ、収穫もできず、経済的に成り立たない世界に生きてきた人にとっては、そのくらいが「奴隷への優しさの限界」になってしまう。
 

 この映画のなかには、農場主の白人にみそめられ、「妻」となった元黒人奴隷の女性も出てくるのですが、彼女も「元奴隷」でありながら、自分が彼らの「主人」になってみると、「まあ私も昔は苦労したけどね」という感じで、奴隷制度そのものを変革しようとはしないのです。
 結局のところ、そのシステムの矛盾はわかっていても、自分がそれによって生かされていると、そのシステムを破壊する勇気は、なかなか持てないのです。


 主人公だって、「私は『自由黒人』なんだ!」と訴えているのですが、いまの世界に生きている僕にとっては「じゃあ、『自由黒人』じゃない黒人は、奴隷になっても仕方がない、っていうことなのかな……」と、ちょっと引っかかってしまいました。

 本当にみんなで自由になろうとするのならば、反乱とか革命とかをやるしかないわけで、そこで「反乱を起こせない人」を責めるのは間違っているのも、頭ではわかっているつもりなのだけれど。


 この映画を観ながら、『夜と霧』のことを思い出していました。
 ナチスのユダヤ人収容所でのことが、書かれている本です。
 極限状態で、「生き延びる」ために、自分のプライドを捨てたり、「御主人様」に唯々諾々としたがって、自分の良心に反した行為を行うのは、やむをえないと思う。
 悪いのは、そんなところに彼らを「収容」した連中なのだから。
 でも、僕は、つい、「収容所のなかで、うまく立ち回って生き延びようとする人たち」を責めてしまうのです。
 「奴隷」という状況にあっては「仲間」のことは気になりつつも「自分だけでも、早くこの環境から逃れたい、家族に会いたい」と思うのは当然のはずなのに……


 本当に、スッキリしない映画なのだけれども、だからこそ、この作品には、すごく価値があるのです。
 邦題は『それでも夜は明ける』だけれども、僕は観終えても「よかったね」とも「夜が明けた」とも思えなくて。
 理不尽に自由を奪われた人間が、12年間も苦しみ、ようやく、もとの自由にたどり着いた。
 この12年間は、もう取り戻せない。
 12年もかけてようやくたどり着いたのは、「元通りの場所」と、12年分老けた自分、そして、ムチで背中にできた傷。
 多くの北部の黒人が、誘拐されて南部に送られ、奴隷にされたそうです。
 主人公ソロモンは、帰還できた「ものすごく幸運なひとり」だった。
 逆にいえば、同じように騙され、自由を奪われ、奴隷として亡くなった人が、大勢いたのです。


 そもそも「自由黒人」だから奴隷にするのはけしからん、のか?
 アフリカから連れてこられた「自由じゃない黒人」は、奴隷にされても、仕方がないのか?


 この「南部で奴隷を必要としていた人たち」にとって、リンカーンの「奴隷解放宣言」は、たぶん、正気の沙汰だとは思えなかったはずです。
 奴隷が必要不可欠だった人たちにとっては、奴隷に優しい言葉をかけてやることと、奴隷を解放することとは違う、全然違う。
 そして、奴隷を解放することと、黒人に平等な権利を認めることも違う。


 たぶん、「本物の夜」はまだ、明けていないのです。
 これは、アメリカだけの話、黒人だけの話ではないんですよね、きっと。

 
 アカデミー賞作品賞をこの映画に授賞した人たちは、「この映画を、ひとりでも多くの人に観てもらいたい」という想いがあったのだろうなあ。
 僕にとっても『ゼロ・グラビティ』と同じくらい、「観てもらいたい映画」でした。
 地球の引力から抜け出し、宇宙を目指すのが人間なら、奴隷を逃げないように鎖で地面に縛り付けるのも人間、なんですよね。

アクセスカウンター