- 作者: 二階堂奥歯
- 出版社/メーカー: ポプラ社
- 発売日: 2006/01
- メディア: 単行本
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内容(「MARC」データベースより)
私という一冊の本を、私が破棄してはいけない? いけない。そんなことをしてはいけない。私は、物語をまもる者だから。今も、そして死の最後の瞬間にも。若き女性編集者の、深遠で切実な心の記録。伝説のウェブ日記を書籍化。
参考リンク(2):二階堂奥歯『八本脚の蝶』(ポプラ社)ができるまで 東雅夫(文芸評論家)×斉藤尚美(ポプラ社)対談 2006年1月(東雅夫の幻妖ブックブログ)
7年ぶりの重版、なのだそうです。
今回、これを書くにあたって、『八本脚の蝶』のWEBサイトを久々に訪れてみました。
ああ、あの頃のネット日記って、こんな感じのそっけないフォントで書かれていたよなあ、と懐かしい気分になったのと同時に、当時、ふだんと同じフォントで淡々と書かれた「最後のお知らせ」を読んだときのなんともいえない気持ちを、少しだけ思い出したのです。
あのときはたぶん、引き込まれそうになったのと同時に「自分で幕を引く以外に、きれいに完結させることができない物語もあるのかな」などと、あれこれ考えていたものです。
あれから10年、僕は、まだ生きています。
この『八本脚の蝶』を読むと、自分があまりにも「普通の人間」であることが、すごく悲しくなり、そして、ありがたくも思えてくるのです。
でもね、今回、僕も結婚したり親になったりして、あらためて読み返してみると、ここで語られている内面を抱えながら、彼女は社会のなかでは「有能な一編集者」として生きていたのだ、というようなことを考えてもみるのです。
この本の巻末には、彼女を知るひとたちが、当時の思い出を寄稿しているのですが、そのなかに「恋人」のものがあります。
奥歯との旅行は、たいていレンタカーを借りてのドライブ旅行であった。私が車を運転し、助手席の奥歯は過ぎゆく外の風景を眺めている。カーステレオでは、私が好んで聴くモーニング娘。が流れていて、奥歯がブーブー文句を言う。今度は奥歯が戸川純をかけ、陰気くさいと私が文句を言う。オザケンや筋肉少女帯が流れると、仲良くふたりで口ずさむ。そんな記憶だけが、断片的に私の頭に残っている。
いま読み返してみて、これを読んでいたら、なんだかすごく涙が出てきて。
ああ、奥歯さんにも「どこにでもいる女の子」としての一面があったんだな、あんなに頭が良くて、考えること、知ることへの欲求が強すぎて、生身の身体がついていけなくなったような人だったのに。
そして、もうひとつ思ったのは、もしかしたら、僕の周りにも「二階堂奥歯のような人」が、僕には涼しい顔だけを見せながら生きているのかもしれないな、ということでした。
他人の心の中なんて、本当は誰もわからない。
いや、自分自身の心の中でさえ、自分自身にもわからない。
奥歯さんは、ずっと諦めることなく、それを理解しようとし続けていたのだろうか?
この『八本脚の蝶』を読んでいると、「でも、あなたは男なんですよ、やっぱり」と指差されているような気分になるところがたくさんあります。
コスメのこと、洋服のこと、人形のこと……
残念ながら、僕には彼女が描いている小物のことは、ほとんどわからない。
ジェンダーのこと、マゾヒズムのこと……
10年経っても、やっぱり、よくわからない。
金魚は一言で言えばデカダンスなのだそうです。
人工的に作り出され、人間の手を離れては存在できない美しくもグロテスクな生き物が金魚だそうです。
願わくば私も金魚のようにありたいものだわ。
人工的に身体の線を作り上げるような衣服はやめたほうがいいんじゃない? とか、すっぴんのほうがいいよ! とか、ある男性に言われた。
彼の真意は別として、そういった女性に対するナチュラル志向というのは、支配欲からくるものなのだろう。
彼らが欲しいのは自分好みに作り上げるための素材としての女性であって、自分の身体(容姿)を自分自身でコントロールしている者ではないのだ、おそらく。
ロリータファッションは、自分はあなたのための素材ではなく、自分自身のための素材なのだという意思の表明のように私には思われる。自分で自分を着せ替えできる人形には、御主人様なんて必要ないのだから。
「○○(女性アイドル)のような彼女がほしい」
と、異性に対するアピールが今ひとつ不足しているように思われる男性が本気で言うのを聞いておどろくことがままある。
そんな「女のコ」(アイドルグラビア的表現)と付き合いたい人は何千人、何万人の中から選ばれるに足るだけの男性かどうかを、どうして考えてみないのだろう。
彼らはどうも自分は常に一方的に「見る者」であると無邪気に信じ込んでいるようだ。自分もまたコミュニケーションの場においては「見られる物」であり、見た目で判断されるのだという意識が欠けているように思われる。
ああ、読んでいてつらい……
正直、僕は奥歯さんとは絶対に仲良くできそうもないというか、彼女は僕のような俗物を軽蔑するのではないかなあ、なんて思わずにはいられません。
彼女の世界は魅力的に見えるのだけれども、きっと、僕の世界とは相容れない。
この『八本脚の蝶』は、幻想文学やSF、ミステリ、さまざまな性的嗜好(思考)などについての思索の書であり、素晴らしいブックガイドにもなっています。
僕が読んだことがある本はほとんど出てこないのだけれども、「そんなに売れそうもないような、一部の好事家しか読まないのではないかと思われるような本」も、奥歯さんのような人が書き継ぎ、読み継いできたのだなあ、と感慨深いものがあります。
読む人がいなければ、「物語」は存在しないのだから。
僕は、この本を読んでいて、いとうせいこうさんの『ノーライフキング』を久々に読みかえしてみたくなりました。
世の中には、まだまだ読んでいない、たぶん一生読み切れないであろう、あるいは、僕の興味が届く範囲では、存在することすら知ることが出来ない数々の本があることに、喜びと悲しみを感じるのですよね、これを読んでいると。
先日、奥歯さんのお父さんとお会いした時、食事が終わり場所を替えるため、明るいエレベーターホールからほの暗いエレベーターに乗り込んで、ゆっくりと乗り込んで、ゆっくりと降りはじめた時、ふいに、ふつりあいなほど坦々と、このように言いました。
「私は奥歯は自殺するかもしれないと思っていました。そして、私には止められないだろうと、思っていたんですよ」
声音にあきらめの色は微塵もなく、ただ強烈な苦渋、抑制されつづけていた苦渋の残香がありました。
これはあなたのような人を子に持った親の、最高の愛情表現ではなかったでしょうか。
実は「参考リンク(2)」の、この本を担当したポプラ社の編集者が「社内では『この本を読んだ人が影響され。死を美化して自殺してしまうのではないか?』という単行本化への反対意見が出た」と語っておられます。
その編集者は「この本はむしろ、生きづらさを抱えている人に、『生きていればこんな素晴らしい出会いや楽しい経験がある』ことを伝えられるから」と反論したそうです。
でもまあなんというか、親というものになってみると、このお父さんの「苦渋」も少しわかるようになったかもしれません。
「考えることが生きること」になってしまった自分の子ども。
そして、「考えること」を突き詰めると、耐えきれなくなって思考は暴走してしまい、もう、自分でスイッチを切るしかない。
「物語」を愛してやまなかった人が、あなたに読まれる物語になった。
これを読んで興味を持ったかたがいらっしゃったら、ぜひ、書店で少しだけでもページをめくってみてください。
世の中の多数派ではないだろうけれど、この本を必要としている人は、きっと今でも、あちらこちらにいるはずだから。