- 作者: 藤原聖子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2011/07/07
- メディア: 新書
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内容(「BOOK」データベースより)
世界の宗教というと、ニュースはテロや事件のことばかり。子どもたちは学校で、他人の宗教とどう付き合うよう教えられているのか。信者の子どもたちの暮らしぶりはどうか。欧米・アジア9か国の教科書を実際に確かめてみよう。
世界にはいろんな教科書があるな、と思いながら、この新書を読みました。
いやまあ、当然ながら、この新書1冊だけで、「世界各国の宗教教育のすべて」がわかるわけじゃないのですが、僕は読んでいて、少しだけ安心したのです。
ああ、なんか「極端なイメージ」だけが一人歩きしているけど、大枠においては、多くの国で、「なるべくみんなが認め合えるような宗教教育」を子どもたちにしていこうとしているのだな、って。
この新書のなかでは、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、トルコ、タイ、インドネシア、フィリピン、韓国の9か国の教科書が紹介されています。
この9か国には、ひとつの宗教を国民の大部分が信じている国もあれば、いろんな宗教が入り乱れている国もありますが、どの国でも、「どんな宗教も、差別をしない」という原則で、教科書はつくられています。
イギリス、ドイツ、トルコ、タイ、インドネシアの5か国には「宗教科」の授業があり、その授業は、同じクラスのなかにキリスト教徒もいればイスラム教徒もいるという「統合型」(イギリスと、ドイツの一部の州)と、宗教別に授業が行われる「分離型」(トルコ、タイ、インドネシアとドイツの多くの州)に分けられるそうです。
日本には縁のない話のようですが、日本でもキリスト教、仏教などの宗教系の私立の学校では「宗教」の授業が行われています(僕はそういう学校に在籍したことがないので、実際はどんな授業なのかはわかりませんが)。
ただ、イランのような「イスラム原理主義者」につくられた国や、「共産党絶対主義」の中国はどうなんだろう?とは思ったんですけどね。
(宗教心が強い人がもっと公職についた方が自国のためになるか?というアンケートに対して)回答者の半数近くが「宗教心の強い人がもっと公職についた方が自国のためになる」と答えたアメリカやイラクでは、宗教をめぐって「熱い事件」が度々起きています。2010年9月には、同時多発テロ事件9周年を前に、アメリカのあるキリスト教の牧師が、イスラム教の聖典である「クルアーン(コーラン)を焼く」と宣言し、大騒ぎになりました。実際、ニューヨークのテロ跡地近くで、モスク建設反対を唱える活動家の中に、クルアーンを焼いてみせる人も現れました。イラクでは、サダム・フセイン政権は、ブッシュ前大統領率いるアメリカ軍の攻撃によって倒された後、同じイスラム内のスンナ派とシーア派の武力対立が続いています。
こういったニュースを見ると、「なぜ同じ神を信じているのに仲良くなれないんだろう?でも、日本にいる自分にはまあ関係ないな」と思う人が多いのではないでしょうか。どうやら、外国では宗教対立が起こっているようだが、自分は無宗教だし、とても遠い世界のことに感じる、と。
実は、その見かたこそ問題なのです。というのも、現在世界で起こっている摩擦・衝突には、異なる宗教や宗派間のギャップという面もあるからです。たとえばクルアーン焼却事件では、焼いた側も、それに強く抗議した信者の側も、クルアーンは信者にとってとても大切なのだ(だから焼くことは最大の侮辱になるのだ)という点では認識が一致しています。しかし、みなさんのなかには、「人間が殺されたわけじゃないし、そんなに大騒ぎしなくても。大人げない」と思う人がいるかもしれません。そのような価値観は、熱心な信者の人たちにとっては容認しがたいものです。
「ちなみに、宗教心が強い人がもっと公職についた方が自国のためになるか?」という質問に対して、「強く賛成」あるいは「賛成」と答えたのは、アメリカでは40.2%、イラクでは42.6%だったのに対して、韓国では17.8%、日本では、わずか5%だったそうです。
日本人というのは、本当に「宗教に対する警戒心が強い国」だということなのでしょう。
それもひとつの「日本の特徴」であるのと同時に、「宗教への無知が、カルト教団への無防備さの元凶となっている」という面もあるのですが。
「進化論を教えない学校もある」という「福音派」が大きな勢力となっているアメリカでは、どんなことになっているのだろう?と思っていたのですが、少なくとも、ここで紹介されている一般的な教科書では、「宗教間の融和」を目指していることが伺えました。
むしろ、「日本はいまだにサムライなのか……」ということのほうが、気になるくらいに。
この新書によると、アメリカの公立高校では、学校でクリスマスを祝うことがないそうです。「政教分離に反するから」という理由で。
日本人からすれば、「子どもたちが喜ぶんだから、別にいいんじゃない?」と思うようなことにも、むしろ、アメリカは厳格なのです。
(もっとも、日本でも一部の新興宗教では、クリスマスを祝うことが禁じられていて、参加できない子どもたちが仲間はずれにされてしまう、ということはあります。日本の場合、「宗教行事」という概念が無いために、かえって子どもたちには「違和感」が強いようです)
また、フランスは、徹底的に「(教育の場から)あらゆる宗教を排除する」ことによって、平等を目指そうとしているそうです。
それはそれで、不自然に思える面もあるのですけど。
ドイツの「宗教科」は、道徳の授業も兼ねているそうです。
クリスチャンとして、現実的な問題にどう向き合っていくのか?
教科書には、こんな事例が出てくるそうです。
K・ヴェーナー(仮名)は、アウクスブルクの州立裁判所で11ヶ月の間拘禁刑に処せられていました。彼は自分の彼女や友人たちのために、一年間ずっとフランクフルトで麻薬の取引をしていたのです。同時に彼は小切手詐欺も行っており、言い逃れできない罪を犯していました。しかしながら、彼の量刑は軽減されました。ヴェーナーは検察庁の未決勾留措置の際に捜査協力し、架空の取引によって他の麻薬取引商たちを逮捕することに一役買ったのです。
アウクスブルグのある学校の暮らすでこの公判に関する検討がなされ、そこで生徒たちから様々な意見が出ました。
この起訴に関してあるグループは、他の取引商たちを捕らえるためとはいえ、彼の行為はとてもほめられたものではないと考えました。それに対して他のあるグループは、そのような犯罪者を逮捕するためには、彼の行為は方法として適切であったと考えました。しかし同じ事柄が、なぜこのように異なる評価につながったのでしょう?(Kennzeichen C9, p.104)
これは本当に難しい「問いかけ」ですよね。
実際に子どもたちのあいだで、どんな議論がなされたのか、僕も興味があります。
こういうのは、日本人としては、「宗教」というより「道徳」の問題だと思うのですが、宗教を持っている人たちにとっては、「宗教」と「道徳」というのは、密接につながっているおです。
それにしても、これが14歳前後の子どもたち向けの教科書に載っているのですから、ドイツが抱えている「悩み」も、けっこう深そうです。
お隣、韓国のカトリック系では、こんな教科書が使われているそうです。
第1章は、「自分を確立しよう」というテーマで、最初に出てくる有名人は、20代でIT企業「ヤフー」を立ち上げたジェリー・ヤンです。台湾生まれで、幼少時にアメリカに移住し、インターネットビジネスの先鞭をつけた人物です。韓国には、アメリカに留学し成功を収めたいという夢をもつ高校生は多いようで、ヤンの経歴は憧れの対象なのでしょう。
ただし、この教科書がヤンをとりあげているのは、子どもたちに社会的成功を促すためではありません。主題は若者とインターネットの適切な関係にあります。ネットゲームにはまり、ネット上の自分と現実の自分のギャップが広がるあまりに失恋してしまったという男子高校生のエピソードを出し、彼とヤンを読者に比較させています。ネット上の架空の自分に現実の自分を乗っ取られてしまった彼と、ゲームとともに育ちながらも、現実社会でアジア人差別を克服し、自己を確立したヤンの違いを考えさせています。
この教科書、高校生用・15歳~17歳向けだそうなのですが、カトリック教育財団協議会の制作にもかかわらず、神やイエスへの信仰が真っ向から語られるのは、最後の第6章になってからなのだとか。
このジェリー・ヤンのエピソードが最初に出てくるところなどは、いかにも「IT先進国」の韓国らしくて、こういう教科書は、同じ宗派でも「お国柄」が出るみたいです。
僕は、「ネットゲームにハマり、失恋してしまう男子高校生」に、むしろ共感してしまうのですが。
子どもたちには、なるべく争わず、お互いを認め合って、生きていってほしい。
これは、ある程度経済的に恵まれていれば、どんな国、宗教でも、共通したところなのかもしれません。
礼拝のしかたや偶像崇拝をみとめるか、という点では違いがありますが、世界で多数の信者を抱えている宗教では、「日常において、信者に求められる生きかた」には、そんなに大きな違いはなさそうです。
少なくとも、殺人や破壊を称賛している「メジャーな宗教」はありませんから。
しかし、こうして子どもたちに「宗教教育」を行っても、「宗教間の対立」が無くなる気配はありません。
子どもの前に、まず、変わるべきは大人たち、なんでしょうけどね、本当は。