仮想儀礼 ☆☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言

琥珀色の戯言

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仮想儀礼 ☆☆☆☆☆


仮想儀礼〈上〉

仮想儀礼〈上〉

仮想儀礼〈下〉

仮想儀礼〈下〉

内容(「BOOK」データベースより)
信者が三十人いれば、食っていける。五百人いれば、ベンツに乗れる―作家になる夢破れ家族と職を失った正彦と、不倫の果てに相手に去られホームレス同然となった矢口は、9・11で、実業の象徴、ワールドトレードセンターが、宗教という虚業によって破壊されるのを目撃する。長引く不況の下で、大人は漠然とした不安と閉塞感に捕らえられ、若者は退屈しきっている。宗教ほど時代のニーズに合った事業はない。古いマンションの一室。借り物の教義と手作りの仏像で教団を立ち上げた二人の前に現れたのは…。二十一世紀の黙示録的長篇サスペンス。

昨年の年末は、すっかりこの本にハマってしまいました。
上下巻で合計900ページを超える長さなのですが、「生きるためのビジネスとして新興宗教をはじめた男」鈴木正彦こと桐生慧海と「聖泉真法会」のゆくえが気になってほとんど一気読み。
この主人公・鈴木は、公務員として、傍からみれば順風満帆な生活を送りながらゲームのシナリオなどを書いていたのですが、作家として食べていくことを夢見て公務員をやめてしまいます。
ところが、書きあげた大作は買い手がなくなってしまい、妻とも離婚……
「創作病患者」のひとりである僕としては、感情移入せずにはいられません。

この作品のなかでは、「聖泉真法会」の立ち上げの部分に関しては、「ネットに新興宗教のサイトを公開しただけで、こんなにリアクションがあったり、本部に人が来たりはしないんじゃないかな」とは思ったんですよね。サイトに人を集めるのは、とにかく最初の立ち上げが難しい。ある意味、1人の訪問者を2人にするほうが、100人を200人にするより難しいところがありますし。
でも、この小説に関して僕がちょっと引っかかったのはその部分だけでした。

最初は「生きづらさを抱える若者たち」が信者の中心で、食うや食わずだった「聖泉真法会」は、ある信者の獲得をきっかけに、大躍進していきます。
そのあたりのプロセスは、よくできた企業小説のよう(というか、宗教団体というのも、ひとつの「企業」ですよねやはり)。
その後、「聖泉真法会」は、「迷走」をはじめるのですが、そのなかでの桐生、矢口のそれぞれの心境の変化と、尖鋭化していく「信者」たちを篠田さんは容赦なく描いていきます。
「ごく普通の生活者」として生きていかざるをえない一方で、どんどん「解脱」してしまう信者たち。
彼らが信じているものは、「ゲームソフトの設定として創作された宗教」でしかありません。
しかしながら、信じる側にとっては、「教えの内容など、どうでもよくなってしまっているのに、『信仰心』だけが肥大していく」といくのです。

僕はこの本を読みながら、結局のところ、宗教というのは、多くの人を巻き込むことに成功した、誰かの妄想みたいなものなのかもしれないな、と考えずにはいられませんでした。
魯迅ではないけれど、「通る人が多ければ、そこが道になる」だけのこと。

この小説、読んでみるまで「新興宗教の闇を告発する作品」だと思っていたんですよ。
でも、読み進めていくうちに、とくに後半〜終盤では、書いている篠田さんも、自分が創造主であるはずの「桐生慧海の世界」に引きずりこまれかけているようにすら感じました。
「新興宗教」の恐ろしさ、禍々しさ、そして、バカバカしさ。
しかし、同時に、「それを信じないと生きていけない(あるいは、生きている意味を見出せない)人々」が存在し、それが「さほど反社会的なものではない場合」に、われわれは、それを全否定することができるのか?
新興宗教の信者になるのは、どこにでもいる「生きづらさを抱えていたり、人生で大きなダメージを受けて弱っている人」でしかありません。

旧約聖書に限らず、宗教の本質は苛烈なものだ。我々の世界に民主主義はない。根回しも多数決もない。中途半端な教祖は、信者に食われる。半端なのはいけない。信者に食われる前に、こちらが食ってしまうことだ。食われる信者はそれで幸せなのだ。満足して食われていく。そのことは心に留めておいた方がいい」

これは作中にでてくる、ある権力者の言葉なのですが、背筋が凍るような凄味とリアリティ!
こういうのを読むと、いったい篠田さんはどうやって取材したのだろうか、これがすべて「想像」だとは思えないんだけど……と考えてしまいます。
ほんと、この小説を読んでいると、「教祖っていうのもラクじゃないよなあ。教団を運営していくにはお金を稼がないわけにはいかないし、信者どうしのいがみ合いや周囲との軋轢もあるし……」と、教祖側に同情してしまうところもたくさんあるのですよ。
オウムだって、教団を維持していくためには、「尖鋭化」していくしかなかったのかもしれない(だからといって、彼らがやったことが許されるというわけではないのですが)。

その一方で、作者は、桐生という存在を借りて、読者にこんなことを語りかけます。

 ある年配の女性は、庭を潰して駐車場を作ってから、体調が優れず医者に行っても治らないと、相談に来た。霊能者に見てもらうと、借財の怨念がついている、と言われお祓いの対価として多額のお布施を要求された。しかしそんなことをしても、体はいっこうに良くならないと訴えた。
 相談に乗った正彦は、女性の体調について詳しく尋ねた。どこが痛い、苦しいという訴えを気が済むまで聞いてやった後、循環器系の専門病院に行くように指示し、なるべく毎日、ここに来て礼拝するようにと付け加えた。
 またこの近くに住んでいる中年の主婦は、自分は生まれてこの方、ずっと人に騙され続けている、世の中のすべてが自分を裏切っている、と訴えた。聞けば最近もパートタイマーとして働いていた小さな店で給料の不払いに遭い、高齢の母は病気が治らないのに強制的に退院させられて行き場がない。長兄は金持ちで大きな家に住んでいるのに、妻が恐くて母のことは見て見ぬふりをする。
 正彦が答えたのは、給料請求の具体的な手続きであり、母親の介護に関しては、相談に乗ってくれる自治体の窓口を具体的に教え、要領よく事態を伝えられない女に代わり、電話をかけてやった。
 教祖の仕事とはとうてい思えない。しかし普通の家庭生活を送っている多くの女性が、心の問題や神様について云々する以前に、社会のシステムや制度についての正確な知識を持っておらず、そのために問題が解決できず、相談相手もいない状況に置かれていることに正彦は驚かされていた。

この「リアルさ」には、痺れました。
病院で働いていても痛感させられることが多いのですが、世の中には、医学的な治療をキチンと受けたり、行政サービスを利用すれば解決できる(あるいは、劇的に状況を改善できる)ことを「神様に解決してもらおうとする人」というのが、けっして少なくないのです。
そして、病院は「自分から受診してくれない人」を探し出して無理やり検査したりはしませんし、申請のしかたも知らない人のかわりに、行政側から積極的に生活保護を受けられるようにしてくれたりもしません。
「知っている人」と「知らない人」の格差は、広がっていく一方で、「知らない人」たちは、さらに宗教でも搾取されるという容赦ない現実……

手にとったときの分厚さ(しかも上下巻!)に躊躇するかもしれませんが、その長さにも十分納得できます。
「人間にとって、『宗教』とは何だろう?」と問いかけたい人から、とにかく面白い小説、続きが気になる小説を読みたいという人まで、幅広くオススメできる傑作です。

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