()内は候補回数です。
磯崎憲一郎『眼と太陽』 文藝夏号(初)
岡崎祥久『ctの深い川の町』 群像6月号(3)
小野正嗣『マイクロバス』 新潮4月号(2)
木村紅美『月食の日』 文学界5月号(初)
津村記久子『婚礼、葬礼、その他』 文学界3月号(2)
羽田圭介『走ル』 文藝春号(初)
楊逸『時が滲む朝』 文学界6月号(2)
井上荒野『切羽へ』 新潮社(2)
荻原浩『愛しの座敷わらし』 朝日新聞出版(3)
新野剛志『あぽやん』 文藝春秋(初)
三崎亜記『鼓笛隊の襲来』光文社(3)
山本兼一『千両花嫁 とびきり屋見立て帖 文藝春秋(2)
和田竜『のぼうの城』 小学館(初)
候補作が発表されたわけですが、「うーん、地味だな……」というのが率直な感想です。
前回、第138回の芥川賞・直木賞が、川上未映子さん、桜庭一樹さんという、パンクからオタクまでを幅広くカヴァーできる「華も実もある二人」で盛り上がっただけになおさら。
いや、僕は今回の候補作を1作たりとも読んでいないので、候補者名を眺めての印象でしかないんですけど。
あくまでも「顔ぶれだけを見て」の予想になってしまうのですが、芥川賞の注目は、前回「次点」だったという楊逸さん、そして、受賞すれば、綿矢・金原コンビに次ぐ若さで、男性としてはもっとも若い受賞者になる羽田圭介さんの受賞が成るかどうかでしょう。
楊逸さんに関しては、前回の「選評」で、各選考委員の評価が大きく分かれていたのですが、こんなに早く2回目の候補になったのは、ちょっと意外でした。一般的には、前回が次点で、すぐ次の回に候補になるというのは「受賞フラグが立った!」という感じなのですが、半年前にかなり「酷評」していた石原慎太郎さんや宮本輝さんがどう出るか、文学賞ウォッチャーとしては非常に興味深いです。
(以下、前回の「選評」から、楊逸さんの『ワンちゃん』に対するコメントの抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)、あと、前回の「選評」のなかで、『ワンちゃん』について僕が書いたものも再録しました)
小川洋子
「『ワンちゃん』の日本語が、日本人が書いたのと変らない美しい文章である必要はないと思う。むしろある種のたどたどしさにより、今まで日本人に気付かれなかった日本語の秘密があぶり出される、という奇跡、かつてアゴタ・クリストフが『悪童日記』で示したような奇跡を、私は求めたのかもしれない」村上龍
「『ワンちゃん』は、ユニークさと切実さでかなりの評価を得たが、日本語表現が「稚拙」という理由で受賞には至らなかった。だがわたしは、移民二世や在日外国人による今後の日本語表現にモチベーションを与えるという意味でも受賞してほしかった。芥川賞受賞作としてどのような稚拙さが問題なのかは主観的なイシューだと思う」
「それにしても、ヒロインの中国人女性の視点で描かれた日本の地方の「惨状」はリアルだった。地方で頻発する陰惨な事件の背景が、はじめて小説で描かれたといってよいかもしれない」黒井千次
「(楊逸氏の『ワンちゃん』には)日本人のあまり書かなくなってしまった世界を突きつけられたような感慨を覚えた。日本語の表現に致命的な問題があるとは感じなかった。今回の候補作の中では内容において異彩を放っていたのだから、次作にも期待を寄せる」高樹のぶ子
「作家は自分の中に絶対文学といも呼べるものを持っている。ほとんど生理的なレベルで。心酔する文学に出会うと、この絶対性に変化が訪れるけれど、文学賞選考の場でそうした僥倖はまず起きない。となると、自分の中の絶対文学と候補作の距離が許容されるものかどうか、許容されるには何が必要か、ということになる。実作者が受賞作を選ぶということは、こうしたある種の妥協を、意識的にであれ無意識的にであれ、行うことだ。(中略)
一方で、文芸ジャーナリズムは、この絶対文学の対極にある。ジャーナルとは記録、動いているものをキャッチし、時代性のファイルに収めること。「メディアの話題性」とは峻別されなくてはならない。小説が持っている情報の社会的鮮度と質量を、文学の重要な要素とする感覚のことで、これが無くては芥川賞は生き延びて来なかったと思う。中国女性の心の情報を発信した『ワンちゃん』は、私にはぎりぎり許容できたが、ぎりぎりアウトの選考委員もいた。その線引きは日本語としての文章への許容度だったと思う。あるいは盛り込まれた情報に対する、評価の軽重か」
宮本輝
「高く評価する委員もいた楊逸氏の『ワンちゃん』は、とにもかくにも日本語が未熟すぎた。母国語以外で小説を書いたからといって、その粗さを大目に見るというわけにはいかない。小説の構成も粗くて、今日的な素材に対する作家としての繊細さに疑いを持たせてしまった。今後も日本語で小説を書きつづけていくのなら、優れた文章で書かれた名作をむさぼり読んで、たくさん書くことだ」石原慎太郎
「外国人が書いた小説という特異性?の故に前評判の高かった楊逸氏の『ワンちゃん』は、日本語としての文章が粗雑すぎる。同じ外国人の日本語としての作品としたら、中原中也賞を得たアーサー・ビナード氏の詩集の日本語としての完成度と比べれば雲泥の差である。選者の誰かが、「こうした素材を描いた小説が文藝春秋の本誌に載ることに意味がある」などといっていたがそれは本来文学の本質とは全く関わりない。そうした舞台としてはむしろそこらの週刊誌の方がふさわしかろう」山田詠美
「『ワンちゃん』。候補作の主人公の中で、一番応援したくなる<ワンちゃん>。でも、つたない。たどたどしさを魅力に導くのは、技巧を凝らしてこそ。そして、マスコミにひと言。文学は政治を題材にできるが、政治は、文学を包容し得ない。選考と政治は無縁なり」相変わらず「浮世離れ」している川上弘美さんの選評はさておき、今回の選評では、受賞作である川上未映子さんの『乳と卵』以上に、楊逸さんの『ワンちゃん』に対する言及が目立っていました(『乳と卵』に関しては、石原慎太郎さん以外は、「今回の候補作のなかでは抜けているので、とくにあれこれ言う必要はないだろう」という雰囲気でした)。
今回の選評は、結果的に『芥川賞』と「外国人が書く日本語の小説」に対する、各選考委員のスタンスが浮き彫りになっています。
作品への評価とは別に「こういう作品に授賞することが、日本語を母国語としない人たちへの日本語での創作のモチベーションになるのではないか」と主張した村上龍さんと、「とはいえ、日本語として稚拙なものに対して授賞するわけにはいかない」という宮本輝さん、石原慎太郎さん、山田詠美さん。「小説」とか「文学」というものを「社会に対してアピールするためのひとつの『アイテム』だし、もっと社会に対して文壇側から仕掛けていくべきだ」と考えているようにみえる村上さんと「選考(あるいは作品への評価)と政治は無縁」だと考えている山田さんたち。
まあ、これはどちらが正しい、というものではないのかもしれませんが、僕は今回に関しては、「石原慎太郎もけっこう良いこと言うよなあ」と思いました。前回(137回)の選評での「軒並みタイトルが面白くなさそう」というのも「慧眼」だったし、「無茶苦茶なことも言っているけど、ある意味すごい人だなあ」と最近は感じています。
いやまあ、僕は『ワンちゃん』を読んでないので、あれこれ言うのは失礼なのは承知の上なのですが。今回の選評のなかでとくに印象に残ったのは、小川洋子さんの
『ワンちゃん』の日本語が、日本人が書いたのと変らない美しい文章である必要はないと思う。
という言葉でした。「日本語が稚拙である」と切り捨てるのではなく、そこに「政治的な意義」を見出すのでもなく、「その『たどたどしさ』もまた、『文学的表現』となりうるのだ」という考えかたもあるのだな、と。その一方で、山田詠美さんは、同じ作品を「たどたどしさを魅力に導くのは、技巧を凝らしてこそ」と一刀両断にしておられます。このお二人は現代を代表する「日本語作家」であるだけに、そのスタンスの違いがすごく際立っていました。
僕はどちらかというと、「小川洋子さんの見かたのほうが好きだな」と思ったのですけど。
直木賞のほうは、顔ぶれだけ見ると、「3回目ノミネート組」の萩原浩さんと三崎亜紀さんが「そろそろかな?」という感じですね。萩原さんあたりだと既刊もたくさん売れそうですし。しかし、この候補者リストを眺めてみると「本屋大賞で人気になるような作家」と、直木賞はちょっと距離を置こうとしているような気もします。とか言ってたら、次回は森見登美彦さんが受賞するのが直木賞ではありますが。
いちおう、最後に僕の予想を書いておきます(あくまでも「受賞者予想」ですので、作品の評価とは別です)。