裕木奈江さんは「われわれは、みんなバカだから」と言っているのだと思う。 - いつか電池がきれるまで

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”To write a diary is to die a little.”

裕木奈江さんは「われわれは、みんなバカだから」と言っているのだと思う。



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 裕木奈江さんのTwitterでの発言が物議を醸しています。というか、炎上しています。

 実際は、このツイートは連続したツイートのうちの一つであり、「日本ではゾーニングがうまく機能していないこと」「それが『世界の(先進国の)基準』とかけ離れてしまっていて、他国から奇異の目で見られがちなこと」を前提にしたものではあるのです。
 
 ツイートというのは、短くまとめなければいけないので、色々とこぼれ落ちてしまうものがあって、裕木さんは「違法なものは、なんでもかんでも規制しろ」というのではなく、「ゾーニングをちゃんとしないまま、『表現の自由』を盾に、過激・違法なコンテンツが不特定多数の人の目に触れることを危惧している」ということなのだと思います。


 ……でも、このツイートに書かれていることって、本質としては、「あなたたち(あるいは「私たち」)はフィクションとノンフィクションを切り分けて扱えないバカなんですよ。自覚してないでしょうけど」という挑発であり、それを感知して、みんな怒っているのです。
 

 僕自身は表現規制には反対なのですが、園子温監督のセクハラ・パワハラ疑惑についての記事を読んで、考え込まずにはいられませんでした。
 園子温監督がこれまで撮ってきた映画には、過激で反社会的な暴力シーンがたくさんありますし、それが園監督の「個性」のひとつとして認知されてもいるのです。
 
 『冷たい熱帯魚』を撮った監督が、品行方正で虫も殺さぬ人だったら、それはそれで違和感がある。
 では、「そういう(セクハラ・パワハラをした)人が撮った映画」だったら、作品は無価値、あるいは「悪」になるのか、それとも、「作品は作品」なのか?
 これまでと同じ内容が、作者の不祥事が発覚すると「ダメ」になってしまうのか。

 アートとか創作というのは、ときに、ロクでもない人間が、素晴らしい仕事をすることがあって、作者と作品の間で、僕は戸惑ってしまうのです。


 脱線しました。

 僕は若かりし頃、裕木奈江さんの大ファンだったのです。
 きっかけは、裕木奈江さんがやっていた「オールナイトニッポン」を偶然聴いたことだったんですよ。

 当時から手練れの喋り手が並んでいた『オールナイト』の一部(25時〜27時)のパーソナリティに突然抜擢された、僕と同じくらいの年齢の、幻想の世界からやってきたような、やたらとキャーキャー騒ぐ、声と喋り方が素敵な女の子。
 裕木さんの歌も好きでした。
 あれは「造られたキャラクター」だったのかなあ。


 裕木さんは、『ポケベルが鳴らなくて』というドラマで、緒形拳さんを誘惑する若い女性を演じて、ドラマは大ヒットしました。
 ところが、裕木さんは、そのドラマで演じたキャラクターのイメージで世間から見られるようになり、同時期には、週刊誌に「生意気エピソード」が書かれて、世の中の、とくに女性から大バッシングを受けることになったのです。

 裕木さんは、今でいう「あざとい系女子」のさきがけ的な感じだったんですよね。
 僕もあの頃、「裕木奈江が好き、なんて男は、騙されてる!」と熱く語る人を何人も見てきましたし。


 裕木さんは、出演したドラマの「年上の男を誘惑する若い女性」という「フィクションで演じた役」の影響から、現実で辛い思いをしたわけですし、僕は『金曜日の妻たちへ』や『昼顔』といった不倫ドラマが、世の人々に「不倫ブーム」を巻き起こしたのも見てきました(ちなみに、不倫は刑法上は犯罪ではありません。民法では損害賠償などの対象となりますが)。

 裕木さんは「自由な娯楽を嗜むには一定以上の知性が必要で、そうでない人には自制が難しく作品に影響される」と仰っていますが、これに対するネット上での反論・批判の多くは「バカは自由にコンテンツを楽しんではいけない、ということか、なんという差別主義者!」みたいなものなのです。

「いや、世の中の人々は作品と現実、フィクションとノンフィクションを切り分けて楽しめる知性を持っているんだ」

 そう言う人は、僕がざっと反応を見た限りでは、いませんでした。

 僕自身も、フィクションにさまざまな影響を受けながら生きてきた人間なので、「そんな立派な知性なんて持ってはいない」のです。今だって、カープが巨人にボコボコにされていることにムカつきまくりながらこの文章をタイプしています。
 贔屓の野球チームの結果とか、株価の上下とか、自分の力ではどうしようもないことに手を出してイライラしている50男の愚かさよ。

 もっとも、ほとんどの人間は愚かでフィクションとノンフィクションとを区分けできないところがあるからこそ、このどうしようもない人生を、少しはマシにできている、というのも事実です。


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 今を代表する知性のひとり、ユヴァル・ノア・ハラリさんは人間の文明をここまで進化させてきたのは「虚構(フィクション)を信じる力」なのだと繰り返し述べています。

 伝説や神話、神々、宗教は、認知革命に伴って初めて現れた。それまでも、「気をつけろ! ライオンだ!」と言える動物や人類種は多くいた。だがホモ・サピエンスは認知革命のおかげで、「ライオンはわが部族の守護霊だ」と言う能力を獲得した。虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。

 現実には存在しないものについて語り、『鏡の国のアリス』ではないけれど、ありえないことを朝飯前に六つも信じられるのはホモ・サピエンスだけであるという点には、比較的容易に同意してもらえるだろう。サルが相手では、死後、サルの天国でいくらでもバナナが食べられると請け合ったところで、そのサルが持っているバナナを譲ってはもらえない。だが、これはどうして重要なのか? なにしろ、虚構は危険だ。虚構のせいで人は判断を誤ったり、気を逸らされたりしかねない。森に妖精やユニコーンを探しに行く人は、キノコやシカを探しに行く人に比べて、生き延びる可能性が低く思える。また、実在しない守護神に向かって何時間も祈っていたら、それは貴重な時間の無駄遣いで、その代わりに狩猟採集や戦闘、密通でもしていたほうがいいのではないか?

 だが虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけではなく、集団でそうできるようになった。聖書の天地創造の物語や、オーストラリア先住民の「夢の時代(天地創造の時代)」の神話、近代国家の国民主義の神話のような、共通の神話を私たちは紡ぎ出すことができる。そのような神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与える。アリやミツバチも大勢でいっしょに働けるが、彼らのやり方は融通が利かず、近親者としかうまくいかない。オオカミやチンパンジーはアリよりもはるかに柔軟な形で力を合わせるが、少数のごく親密な個体とでなければ駄目だ。ところがサピエンスは、無数の赤の他人と著しく柔軟な形で協力できる。だからこそサピエンスが世界を支配し、アリは私たちの残り物を食べ、チンパンジーは動物園や研究室に閉じ込められているのだ。

 

 われわれは「フィクションを信じてしまうバカ」だけれど、「フィクションを信じることができる」ということが、人間をここまで進化させ、文明を発達させてきたのです。


 裕木さんは、自ら海外へ留学して、演技の勉強もされていた方なので、「演じること」「表現と規制、ゾーニング」について、ずっと考えてこられたのではないかと思います。

 このツイートの件に関しては、「そりゃ炎上するだろうな」なのですが、人は、自分の経験の延長線上を生きています。

 以前、お子さんを自動車事故で亡くしたスポーツ選手が「あれから車を見るのも嫌いになって、なるべく乗らないし、自分で運転もしない」と仰っていました。

 この人に「いや、車は便利だし、今の社会には欠かせないものだから。あなたの娘さんのことは残念だったけど、もっと世界を俯瞰的に見ましょうよ、車が嫌いなんておかしいですよ」と「説得」できるのか、するべきなのか。

 僕はただ、「あなたの立場は理解し、尊重しますが、僕自身はこれまで通り車に乗ります(気持ちとしてはなんだか申し訳ないけど)」と思うだけです。


 正直、『オールナイトニッポン』で、毎週キャーキャー騒いでいた裕木さんと、モテないやる気ない人間が嫌い、だった僕が、あれから30年経って、こうして今もこの世界に存在していることそのものが、僕にとっては感慨深くもあるのです。
 
 アブドーラ・ザ・ブッチャータイガー・ジェット・シンのような悪役レスラーが、本当に「怖い人」だと思っていた40年前に比べると、世の中の「この人は、こういう役を演じているだけなんだ」という立場への理解は、それなりに進んできてはいます。まだまだ。ではありますが。

 つい先日も、「恋愛リアリティショー」の出演者がバッシングを苦に命を絶っていますよね。
 ネットでは、「カジュアルな不快感や悪意」の集積が、人を大きく損なうことがある。そして、加害者たちは「そんなつもりじゃなかった」「私だけじゃない」と知らんぷりをする。


表現の自由」は大事だけれど、それを主張し、維持していくためには、受け手も、まだまだ「成熟」すべきなのでしょう。
 戦時中にプロパガンダ映画が作られてきたのは、人が「影響」されるから、なんですよね。

 ほとんどの人は、『ドラゴンクエスト』を楽しんでいても、町中で「こんぼう」を振り回しはしません。
 僕はフィクションのおかげで生きてきた人間なので、フィクションを、エンタメを守りたい。


 この裕木さんのツイートって、「意見」というより、「挑発あるいは皮肉」だとしか僕には思えない。


 僕なりに、冒頭のツイートを解釈すると、
 
「虚構の影響に対する自制やセルフコントロールも十分にできないくせに、自分にとって都合の良い『自由』ばかり求めるなよ愚民ども」

 あるいは、ひろゆきさんの有名な
「嘘を嘘だと見抜けない人には、インターネットを使うのは難しい」

 ということではないかと。


 みんなが「俺たちをバカにするな!」と怒るのは「想定内」ではなかろうか。裕木さんは、バカにしているというか、長年の経験から、「諦めている」ようにも見えます。

 こういう挑発(あるいは問題提起)に対して、「あなたはこれまで人が殺されるホラー映画とか戦争映画に出演していたじゃないか」「不倫する役をやっていたじゃないか」と揚げ足を取って「してやったり!」みたいな大人が大勢いて、それに「イイネ!」がたくさんつくのが、今の世の中なのです。
「意見」を言うと「人格」が攻撃される世界では、まともな議論など成立するわけがない。


 個人的には、「バカはバカなりに、エンタメを消費して楽しく生きていく」のは悪いことでもない、というか、それで良いと思っていますし、僕もなるべくそうしたい。

 でも、「エンタメをエンタメとして楽しむ」ことこそ、最も難しく、知性的なことなのかもしれませんね。

 中島らもさんが、主宰していた劇団で「劇場でお客さんがひたすら笑って楽しんでくれて、終わったら、どんな内容だったかすぐに忘れてしまうような舞台をやりたい」と仰っていたのを思い出します。


 好きな人の言葉には、好意的に反応してしまうのが自分の悪い癖だというのは頭ではわかっているのですが、僕は裕木さんがこの言葉を発するまでの心の変遷を想像せずにはいられませんでした。


 泣いてないってば。



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