“REVIVAL OF EVANGELION”『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)²/Air/まごころを、君に』を映画館で観てきた話 - いつか電池がきれるまで

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“REVIVAL OF EVANGELION”『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)²/Air/まごころを、君に』を映画館で観てきた話

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natalie.mu

解説
 一部の若者層に圧倒的な支持を得た話題のTVアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」。97年春に公開されたその劇場版「シト新生」に続く劇場版の完結編。 アスカが乗った弐号機と量産型エヴァとの戦い、人類補完計画の行方、 そして、シンジの心の旅路の終着地点はいったいどこなのだろうか。全てのファンが待ち望んだ物語の結末が、ついに明かされる。


 2021年に「完結編」と目される『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』が公開予定だったのですが、新型コロナウイルスの感染拡大により公開延期となりました。現時点(2021年1月22日)では、新たな公開日の目処が立ってはいないのですが、とりえあず完成していることは確かなので、新型コロナの流行がおさまるのを待つしかないですね。
 多くの人が公開に際して映画館に集まることは間違いないでしょうし、映画館や配給会社にしても、コロナ禍による観客減の影響を懸念するのはやむをえないところです。とはいえ、こういう状況下だからこそ、人を映画館に呼べる作品を劇場側は求めている。
 そういう意味では、『鬼滅の刃 無限列車編』は日本の映画館を救った、とも言えそうです。

 それにしても、『新劇場版』の『序』が公開されたのが2007年ですから、もう13年以上経っているんですよね。「旧劇場版」の映画での完結編である『Airまごころを、君に』が公開されたのは1997年なので、旧劇場版が終わって、「新劇場版」がはじまるまでよりもずっと長い年月が「新劇場版」の『序』から、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』まで辿り着くまでにかかっているのだよなあ。
 
 大学時代、後輩が『エヴァンゲリオン』というのにハマっている、というのを聞いたとき、「大学生になってアニメかよ」と思ったのを記憶しています。しかも僕は、「あの『オタクがハマるという、わけのわかんない、包帯をした不健康な女の子が出てくるというアニメとか、大学生が観るものじゃないだろ」と半ばバカにしていました。
 実際のところ、僕が『エヴァ』を観たのは、テレビシリーズ、旧劇場版が終わってからずっと後のことで、パチンコの『エヴァンゲリオン』がきっかけで観てみようと思い、結果、ハマってしまったのです。
 ただ、「ハマった」とはいっても、フィギュアを集めたり、関連本を買いあさって「解釈」をするというレベルではありませんでした。

 それは、「リアルタイムでの熱狂の時代」からはだいぶ時間が経ってからのことでしたし、この『Airまごころを、君に』を観たのも、テレビシリーズでの猫だましを食らったような25話、26話を観たのも、ネットである程度「ネタバレを食らったあと」だったのです。

 もし、リアルタイムでこの直撃を受けていたら、どう感じただろうか、とは思います。

 『2ちゃんねる』が生まれたのは、『エヴァ』の解釈についての議論がきっかけだった、なんていう真偽不明の都市伝説があるくらい、当時は話題になったそうですし。

 『Airまごころを、君に』のクライマックスでの有名なシーン「気持ち、いいの?」や、当時物議を醸したラストシーンも、半ばネタバレした状態で観ると、「ああ、これか」っていう再確認の作業っぽくなります。

 2007年に『新劇場版・序』を映画館に観に行ったときも、「オッサン一人で『ヱヴァンゲリヲン』だなんて、周りから白眼視されるのではないか」とおそるおそる、という感じだったのを思い出しました。
 なんだか昔からアニメはみんなのもので、世間からも当たり前の趣味だと思われている、と過去は改変されがちだけれど、大人が「アニメ大好き!」と公言できるようになったのって、わりと最近というか、ちょうどこの『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の公開くらいからではないかなあ。

 例のごとく、前置きがやたらと長くなってしまったのですが、観てきました、2021年1月8日から22日までの期間限定上映の『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)2/Airまごころを、君に』。この緊急事態宣言が出ているなかで、映画を観にいくのもどうか、という迷いはありましたし、そもそも新作公開前の限定公開だったはずなので、もしかしたら新たな公開日の前に、もう一度「期間限定公開」が行われるのではないか、とも考えたのですが、遅れてきた『エヴァ鑑賞者』である僕は、どうしても、これを一度映画館で観てみたかった。
 ちなみに、1日1回の上映で、平日の昼だったのですが、120人が入れる劇場に50人くらいの観客がいて、ほとんどが男性、1997年に『旧劇場版』をリアルタイムで観ていたくらいの世代(40代前後)が半分、おそらく、1997年には生まれていないか、物心ついていないかくらいの若者が残り半分、という感じでした。「もう一度映画館で観ておきたい」か、「一度は映画館で観てみたい」か。

 上映時間160分、1~24話までのダイジェスト版(いちおう)の『DEATH(TRUE)2』が80分くらいで、テレビ版とは違う「本来の25、26話」である『Airまごころを、君に』が、だいたい40分ずつ。『DEATH(TRUE)2』のあと、5分間の「休憩」あり。
 久々に「休憩時間」がある映画を観ました。しかし5分は微妙だなあ、トイレに行くには時間が足りない。

 『新劇場版・序』を久々に観たときに、映画らしいオープニングとかも状況説明とかもなく唐突に始まって話が進んでいくことに驚き、いつオープニングテーマとか流れるのだろう、と思ったのですが、『旧劇場版』の『DEATH(TRUE)2』も同じような流れでした。4人の主役級キャラがそれぞれ自分が担当する楽器を持ち寄って演奏する、という設定で、それぞれに関するエピソードが断片的に紡がれていきます。
 
 『エヴァ』を観たことがあっても「ああ、あのシーンだな」と断片を集めた名場面集のような感じで、記憶で行間を埋めていくしかないので、いきなりこれだけ観たら、「何これ?」ですよねきっと。ある意味、『エヴァ』は旧劇場版から、「観客に予習を求める作品」だったとも言えそうです。まあ、当時は「知らない人が、いきなり映画を観に来るような作品じゃない」という認識をされていたのかもしれませんし、今回久しぶりに観た感想としては、「ヤマアラシのジレンマ」とか、エレベーターので気まずい時間とか、全体的には説明不足というか説明拒否のようなダイジェスト版なのに、気になる場面にはピンポイントで時間が使われているのが新鮮ではありました。レイの殺伐とした部屋のインパクトって、当時はすごかったよなあ。でも、あれがひとつの「リアル」だと今は多くの人が理解しているのではなかろうか。

 ラミエルの作画とか、新劇場版と比べてみると、技術の進化とカネのかけかたが違うことを思い知らされます。
 そして、『エヴァ』って、大人になってみると、「偉そうに他者の前でふるまっている大人の、人に見せないようにしている姿」に、半ば共感、半ば嫌悪感を抱いてしまうのです。
 80分、いろんなことを思い出しているうちに、あっという間に終わってしまった。

 そして、『Airまごころを、君に』。冒頭の病室でのシンジの行動に、声を出して笑ってしまいそうになりました。昔DVDで観たときには顔がひきつってしまったのだけれども。いやしかし、露悪的にしてもひどいなこれ。
 当時は、いろいろと「解釈」が試みられたこの最終話(25、26話)ではありますが、ヒリヒリしながら観た40代末期の男にとっては、「なんだかシンジはずっとウジウジしているだけで何もしていない」し、「アスカは大立ち回りをやっているけれど、単にバーサーカー化しているだけ」だし、レイに至っては、ほとんど出番がなくて、ゲンドウを拒絶するだけが仕事、という感じなんですよ。ネルフ本部が侵攻されて、もともと対人戦闘を想定されていないネルフの人たちが大勢死ぬところが延々と描かれているのと、ミサトさんががんばっているところばかりが印象に残ります。

「あんたまだ生きてるんでしょ!だったらしっかり生きて、それから死になさい!」

これを最初に聞いてから、僕は20年くらい生きているわけですが、「しっかり生きて」きただろうか……

そして、「大人のキスよ。帰ってきたら続きをしましょう」は、記憶に残っていたのですが、今回もう一度観て刺さったのは、「大人のキス」でシンジを送り出したあと、力尽きて横たわったミサトが「これでよかったのかな……」と、今わの際に述懐している場面でした。ああ、あれだけ「やれるだけのことをやった」ようにみえるミサトさんでも、心残りはあるんだよな……人間、そんなものだよな……妙にしんみりしてしまったのです。

あまり背景とかを深掘りしなかった僕には、ゲンドウがやろうとしていたことと、ゼーレがやろうとしていたことは、同じことのようにみえて、なぜ両者が決裂し、血を流すことになったのか、よくわからなかったんですよ。いや、最後はもう、誰が死ぬとか生き残るとか、そういうのはどうでもいい状態になってしまうのだろうけど。

そして、例の観客を現実に引き戻す、「気持ち、いいの?」に関しては、さすがにこちらも身構えているので、「まだか、もうそろそろかな……」「あっ、来た、なんか思ったよりあっさりしているな」と拍子抜けしてしまいました。
もちろん、予備知識なしで、あれを映画館でいきなり観た人たちは、「何それ?俺たちをバカにしているの?」と思ってもおかしくはないけれど。

物議を醸した(というか、僕自身が白けてしまった)映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』のことも思い出したんですよ。


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あらためて考えてみると、この『Airまごころを、君に』のあの場面に込められたメッセージも「そろそろ現実に帰れよ」だったわけで、1997年には、庵野秀明監督や『エヴァンゲリオン』をつくったクリエイターたちも、「現実>虚構(アニメやゲームの世界」だと認識をしていたのです。
「作ってるあなたたちがそれを言うのか!」と反発しながらも、観客は「やっぱりそうだよね……いつまでも幻想の世界に浸らずに、現実と見なくちゃいけないよね……」と頷かざるをえなかった。

ところが、「もう、つまんない日常とか現実なんていうのは、生命活動を維持するための最低限の収入を得るための場にして、無難に過ごし、『推し』や『コンテンツ』を人生のメインステージにしても良いんじゃない?少なくとも、そういう生き方もひとつの選択肢なんじゃない?」というのが、今、2021年を生きている僕の実感ですし、そういう生き方への社会的なコンセンサスも得られつつあると思うのです。

「世界国家」みたいな理想が掲げられるなか、アメリカとソ連の対立が続いた時代があり、その後、ソ連が崩壊して、21世紀には、国境はなくなっていくかのように思われた。でも、イギリスのEU離脱トランプ大統領の誕生のように、「世界は、やっぱり『ひとつ』にはなれない」と、多くの人が実感しているのが現在の状況なのです。
敵と仲良くできないことはわかる。ところが、敵がいなくなってみたら、味方だと思っていた人たちの間の「違い」が、かえって目立つようになって、ギクシャクしてしまった。
昔観たときよりも、ずっと「人類補完計画」は、荒唐無稽に感じるようになった。

エヴァンゲリオン』で投げかけられた「自分とは何か」「他者との距離感の難しさ」というのは、普遍的なテーマだとは思うのです。
でも、「現実に戻れ」が、もう殺し文句にはならない時代(もう、アニメやゲームは「現実の一部」になってしまった時代)に、庵野秀明監督は、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』を、どう終わらせるのか?

 もしかしたら、新劇場版、13年もかかってしまったことによって、世の中の変化に作品がついていけなくなってしまって、さらに時間がかかった可能性もあると思うんですよ。しかも、この新型コロナウイルスの感染拡大で、人々の価値観はまた大きく変わってきている。ウイルスによって、ATフィールドがさらに強化されている時代に「人類補完計画」って言われても……だよなあ。

 僕が年を取ったから、なのか、時代が『エヴァ』に追いつき、むしろ追い越してしまったのか。
 いま、『Airまごころを、君に』を観ると、納得してしまうところと、もしかしたら、自分は(製作者たちに)いまく言いくるめられて、なんとなくわかってような気になっていただけではないか、という疑問が半々、という感じなんですよ。これはこれで、TV版の25話、26話と同じくらいに「未完成」な作品だという気もします。

 でも、その「未完成さ」こそが『エヴァ』の魅力だし、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』が楽しみであるのと同時に、「終わりを見届けることへの怖れ」も感じているのです。


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