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こういう話を読んでいると、「生きづらさ」とか「人生無理」なんていうのも、人それぞれ基準が違うのだよなあ、と考えずにはいられない。
僕自身も生きづらさを抱えて生きてきたつもりなのだけれど、なんとか自分なりに飼いならしてきたのかな、と最近になって思えるようになってきたし、3日目、TSUTAYAのレジで店員さんと話していて、ふと、ああ、50歳を前にして、仕事以外でようやく人と身構えずに接することができるようになってきたような気がする。20歳のときに今くらいの対人スキルや問題解決能力があれば、もっとマシな人生を送れてきたのではないか、というのが頭に浮かんできた。
子どもの頃の僕は、書店で買う本をレジに持っていくのが恥ずかしい、そんな人間だったから(ちなみに、エロ本とかではなくて、マイコン雑誌とか『タクティクス』とかです。まあ、当時も『ポプコム』とか『テクノポリス』とかは、これはエロ本より無理なんじゃないか、という表紙の号もあったけれど)。
芦田愛菜さんは、あまりに大人な発言や人生観から、「人生2周目なんじゃない?」なんて言われているのだけれど、僕も「2周目」や「強くてニューゲーム」ができないものか、せっかくここまでレベル上げしたのにもったいないなあ、と、こんな年齢になって考えてしまうのだ。たぶん、多くの人は、そんなことを思いながら、結局人生の隠しコマンドを発見できないまま死んでいったのだろう。
冒頭のエントリでアメさんが書いたものを読みながら、僕は「ああ、これは客商売ではよくあることだよなあ」と思った。
水商売の店に男性の黒服がいるのは、「料金に応じたサービスを逸脱しようとする客」への牽制、場合によってはその排除という目的があるのだ。
風俗で働くというのも、赤の他人の前で無防備な状態になるわけだから、すごく怖いだろうな。もちろん、困った客ばかりではないし、金銭的な見返りもあるからやっている、という人がほとんどなのだろうが。
この「人生無理バー」というのは、掲げている看板が「生きる困難を抱えている人たちの交流の場」という「善意的なもの」であったから、いろんな難しい人を拒絶できなかったのだろうな、とも思う。
アメさん(冒頭のエントリの著者)が「発達障害者を出禁」にしたのは悪手というか、そもそも「発達障害」という言葉そのものが定義も曖昧なまま濫用されすぎているのだが、書かれているエピソードを読むと、アメさんという人も「うまく他人をあしらえない人」なのだろうな、と感じた。
話を聞くプロでもないかぎり、興味のない他人の話を10分、15分聞き続けるのはかなりつらいものだ。10分って、けっこう長いよ。
でも、彼女はそこで、「話を打ち切ってしまう」ことができない。それは、相手に申し訳ないような気がするし、「人生無理バー」というコンセプトに反しているのではないか、と思ってしまうから。
僕も研修医の頃、毎回同じ昔話をする患者さんの部屋で、毎日30分くらい過ごしていた。そのうち、「あの部屋に行くから、5分したらポケベルを慣らしてくれる?」と看護師さんにお願いするようになった。
時間は有限だ。ただし、あからさまに邪険にするのも差し障りがあることも多い。
結局のところ、折り合いをつけていくしかないのだ。カウンセラーも、「どんなに相手が話を続けたがっていても、きちんと時間を区切るようにしている」そうだ。
僕はこれを読んでいて、以前書いた、この話を思い出しました。
たぶん、アメさんが困っていたことは、相手や周囲には、あまりうまく伝わっていなかった。
それなりに、その場ではうまくやれてしまうし、周囲もそう見ているのです。
本人は限界に近づいているのに、周りに気を遣ったり、みんなこのくらいは我慢しているはずだ、と思い込んだりで、なかなかSOSが出せない。
まさにこのエントリの話で、「自分の『いい人ガソリン』はもうガス欠なのに、そのことは走れなくなるまで、周りには伝わらない」のです。
僕の個人的な経験からは、いわゆる「メンヘラ的な困った人」と親身になって付き合うには、自分の人生まるごと犠牲にするつもりじゃないと難しいのです。
いろんな苦しみを背負っていたり、自分を頼ってきたり、表情がくるくる変わって飽きなかったり、というのは、たまに接するくらいであれば「魅力」になりうるのかもしれませんが、ちょっと長くなれば地獄です。
夜中に突然電話がかかってきて、こちらがどんなに疲れていても1時間くらい延々と相手が話したいことを話されたり、突き放すと「死んでやる」と言われたり、頼りにされていると思っていたら、ちょっとしたきっかけ(こちらからはわからないことも多い)で、理不尽な嫌がらせをされたり、根拠のないデマを流されたり。
だから、見捨てていい、とは言いませんし、言うべきでもないと思う。
でも、ときには「自分を守るために、関係を切断する」という判断もやむをえないと僕は考えるようになりました。
アメさんの行動の問題点は、「対象を『発達障害者全体』にしてしまったこと」と「こういう愚痴をネットに書いてしまったこと」だと思います。
後者に関しては、僕が知っている2000年前後のネットって、こういう「困ったお客さんや婚活で出会った変な人」をコンテンツにしている人気サイト(ブログ)って、たくさんあったんですよ。
そういうサイトに対して、多くの人が、「なんてひどい客なんだ!管理人(ブログ主)がんばれ!」というような応援メッセージをそのサイトの掲示板に書き込んで、管理人が「ありがとー(≧▽≦)」とか返信していたんですよね。中には、患者さんをネタにして炎上してしまった医療関係者などもいたのですけど。
現在、2020年のネットでは、そういう「サイト(ブログ)内は、自分だけの領域」ではなくなっています。
Twitterで拡散され、『はてなブックマーク』では、「客商売に向いてない」「発達障害の人を差別している」と大バッシングされてしまいます。
「オタサーの姫」としてふるまっていたら、部室の壁はあっというまに取り払われ、いつのまにか「社会の敵」にされてしまう。
客商売に関しては、「そりゃ、人気キャバ嬢みたいに客あしらいがうまかったら、『人生無理バー』とかやろうと思わないだろ……」と同情せざるをえないし、「ちゃんと話を聞いてあげなければ」と真面目にやっていたからこそ、起こった悲劇だという気がします。
これがネットに書かれたものじゃなくて、知り合いが直接自分に愚痴ってきたら、「そうか、大変だったね……もうムリしなくて良いんじゃない?」くらいの言葉をかける人が多いのではなかろうか。
「限界まで我慢しちゃう人」だから、「穏健に撤退する」のではなくて、不満を蓄積し、「迷惑な客の話を(匿名で)ネットに晒す」という極端な手段を使ってしまった。
前回も書いた話なのですが、今の『note』というのは、ある意味「個人サイト文化」に回帰しているようにみえるところがあって、個人の「ぶっちゃけ」みたいなのが、コンテンツとして珍重されがちなのです。
その一方で、ぶっちゃけた人は「正義を振りかざす人々」の標的にされ、「蜂の一刺し」のように、一瞬燃えて光り輝き、すぐに燃え尽きてしまう。
多くの人が、そういう「セルフ晒し上げ芸」を競っているから、『note』は、どんどん「なんでもあり」「とにかくセンセーショナルなほうが勝ち」「炎上上等」な世界が具現しているのです。まあ、ひとり一発ずつ芸を披露して退場していっても、人間はたくさんいるから。
雉も鳴かずば撃たれまいに。
でも、今の世の中を生きていると、もし撃たれるとしても、ひと鳴きくらいして、自分の存在を証明したい、という気持ちもわからなくはないんです。
中途半端に鳴くことしかできない僕は、なんだかとてもせつない。
あと、この『しょぼい喫茶店』の話も思い出しました。
こういう話って、「うまくやれなかった人を責める」ほうに向かいがちではありますが、「こういうことが起こりうる」というのを多くの人に共有してもらえるという点では、意義もあると思うんですけどね。
でも、「困ったお客様」ばかりを最初にイメージしていたら、接客業、サービス業なんて、誰もやりたがらないよね……