「ツツイスト」として生きてきた僕が、筒井康隆さんの長篇小説から、10作を選んで語ってみます。 - いつか電池がきれるまで

いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「ツツイスト」として生きてきた僕が、筒井康隆さんの長篇小説から、10作を選んで語ってみます。


 僕は30年近く「ツツイスト」として生きています。
 でも、最近は、とりあえず新刊が出たら手に取るくらいで、過去の作品を読みかえすこともなかったんですよね。
 何年か前に「慰安婦ツイート事件」なんていうのもあって、長年のファンとしては、「これが筒井康隆」なのか、「筒井康隆老いたのか、生きづらい時代になったのか」なんて考え込んでしまうところもありました。


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 先日、この本を読んで、僕の中の「筒井康隆熱」が再燃してきたのです。
 こうして半世紀にわたる筒井作品を振り返ってみると、「時代と寝ているようで、実際は、今読んでも十分『現代的』な作品」ばかりであり、筒井康隆は、僕が最初に大好きになった小説家で、いまでも憧れの人であり続けています。
 筒井さんは、常に新しいものを取り入れて前に進もうとしてきたし、その作品を読むことで、僕も現代文学の潮流を体験することができました。
 筒井さんは、僕にとっての先生でもある。
 正直、筒井さんの作品を語るのは、ちょっと怖くもあるのです。僕以上のツツイストが世の中にはたくさんいるし、筒井さんについて書くことは、筒井さん自身に読まれるのではないか、と意識せずにはいられないところもある。
 下手なこと書いたら「逆襲」されるかもしれない。
 それでも、こうして思いついた機会に、僕が読んできた筒井康隆さんの長篇小説から、10作を選んで、語ってみたいと思います。
 これがベストだと言うつもりは毛頭ありません。
 思いついた、好きなもの、語りたいものを年代順に並べてみました。
 あまりにも作品が多く、どこから手をつけて良いのやら、という若い読み手にも、ぜひ一度筒井さんの作品を手にとってもらいたい。
 筒井さんほど、面白くて、読むと自分が少しだけ世の中のことがわかったり、賢くなれたような気分になれる作家は、少なくとも僕にとっては他にはいませんでした。


(1)48億の妄想(1965年)

内容紹介
テレビが絶対の時代、あらゆる人間が各所に設置されたテレビ・アイを意識してひたすら熱演。テレビに踊らされる人間、マスコミを痛烈に風刺した画期的長篇処女作


 筒井さんの長編デビュー作。僕がこれをはじめて読んだのは高校生のときでした。1980年代後半です。
 当時は歴史小説かミステリしか読まなかった僕は、半ば義理で手にとって、しぶしぶ読み始めたのですが、筒井さんが描いた「メディアに踊らされる人々」の姿に「世の中には、こんなに時代を見る目がある人がいるのか!」と驚愕したのを覚えています。読み終えて、これが1965年に書かれたものであるということを知って、さらに驚きました。僕が生まれるまえに、すでにこんなことを書いていた人がいるなんて!
 2017年に読むと、ちょっと古いと思うところもあるかもしれませんが、SNSで自分を飾り立てようとしたり、目立つためには嘘も辞さない人たちというのは、けっして「新しい存在」ではない、ということがわかります。



(2)霊長類 南へ(1969年)

霊長類 南へ (角川文庫)

霊長類 南へ (角川文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
毎読新聞の記者澱口は、恋人の珠子をベッドに押し倒していた。珠子が笑った。「どうしたのよ、世界の終りがくるわけでもあるまいし」その頃、合衆国大統領は青くなっていた。日本と韓国の基地に原爆が落ちたのだ。大統領はホットラインに手を伸ばした。だが遅かった。原爆はソ連にも落ち、それをアメリカの攻撃と思ったソ連はすでにミサイルを。ホテルを出た澱口と珠子は、凄じい混乱を第三京浜に見た。破滅を知った人類のとめどもない暴走が始ったのだ。


 筒井さんの長編第二作。核戦争で人類が滅亡していく姿が、コミカルかつリズミカルに描かれている作品です。
 ものすごく怖い話なんだけれど、ものすごく面白い。
 そして、ラストの静謐さが、とても印象に残っています。
 この作品を僕が読んだ1980年代の後半というのは、まだ「1999年にノストラダムスの大予言で地球が滅ぶ」とか「恐怖の大王とは核戦争のことだ」なんていうのが、まことしやかに語られていた時代で、2017年よりもずっと、「核戦争による人類滅亡」というのは、身近な恐怖だったような気がします。
 そういう意味では、いまの時代って、たしかに「平和ボケ」しているのかもしれないなあ。悪いことじゃないんだろうけど。
 ちなみに、大学時代に僕が帰省した際、6歳下の弟が「この『霊長類 南へ』って、面白いねえ」と語りかけてきて、ああ、こいつは僕の弟なんだな」とあらためて感じたのをよく覚えています。




(3)家族八景(1972年)

家族八景 (新潮文庫)

家族八景 (新潮文庫)

家族八景 (新潮文庫)

家族八景 (新潮文庫)

内容紹介
幸か不幸か生まれながらのテレパシーをもって、目の前の人の心をすべて読みとってしまう可愛いお手伝いさんの七瀬――彼女は転々として移り住む八軒の住人の心にふと忍び寄ってマイホームの虚偽を抉り出す。人間心理の深層に容赦なく光を当て、平凡な日常生活を営む小市民の猥雑な心の裏面を、コミカルな筆致で、ペーソスにまで昇華させた、恐ろしくも哀しい本である。


 「七瀬シリーズ」、とくに『家族八景』って、筒井作品のなかでは、比較的読みやすい、わかりやすい、というイメージを僕は持っていたのです。若いころに読むと「家族の欺瞞」みたいなものにシンクロしていたし。
 『七瀬ふたたび』は、なんか変わったな、『エディプスの恋人』は、「何これ?」って感じだったのですが、『筒井康隆入門』で、佐々木敦さんは、筒井さんがあえて違うスタイルでこの3部作を書いたことを指摘しておられます。
 僕がいま読んだら、『エディプスの恋人』が、いちばん面白いのではなかろうか。というか、『家族八景』は、「七瀬に見られる側」のように感じて、きついかもしれませんね。



(4)虚人たち(1981年)

虚人たち (中公文庫)

虚人たち (中公文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
同時に、しかも別々に誘拐された美貌の妻と娘の悲鳴がはるかに聞こえる。自らが小説の登場人物であることを意識しつつ、主人公は必死の捜索に出るが…。小説形式からのその恐ろしいまでの“自由”に、現実の制約は蒼ざめ、読者さえも立ちすくむ前人未踏の話題作。泉鏡花賞受賞。


 ナンセンス、スラップスティックの名手として、当代随一の流行作家だった筒井さんが、「純文学的な作品」を世に問い、発表当時はその内容の難解さも含めて、かなり話題になったそうです。
 僕が読んだ時点では、筒井さんは純文学の世界でも大物作家になっていたのですが、「泉鏡花賞受賞」なんていうオビに期待満々で読み始めたら、なんだか主人公の言い訳みたいなのが延々と続くし、話はややこしいし、何なんだこれは、みんなこんなのをありがたがっているなんて、「筒井ブランド」に踊らされているだけなのではないか、と大いに疑問だったのです。
 今から考えると、「筒井ブランド」だからこそ、こういう作品に僕もあきらめずに食らいつくことができたし、読み終えたことで、少し文学の潮流を知ることができたのかな、と思うのですが。
 こういう「主人公が、自らが小説の主人公であることを知っている話」、メタ・フィクションって、今の若い読者にとっては、むしろ、「あたりまえすぎる手法」になっているのかもしれないけれど。



(5)虚航船団(1984年)

虚航船団 (新潮文庫)

虚航船団 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
鼬族の惑星クォールの刑紀999年6月3日、国籍不明の2基の核弾頭ミサイルによって国際都市ククモが攻撃され、翌4日、無数の小型単座戦闘艇に乗ったオオカマキリを従えた文房具の殺戮部隊が天空から飛来した。それはジャコウネコのスリカタ姉妹の大予言どおりの出来事だった―。宇宙と歴史のすべてを呑み込んだ超虚構の黙示録的世界。鬼才が放つ世紀末への戦慄のメッセージ。


 何なんだこれ?というのが、はじめて読んだときの率直な感想でした。
 なんで文房具の戦争?そもそもこれ、「面白い」のか?
 当時の僕は、この作品そのものを楽しんでいたというよりは、筒井さんの『虚航船団』を「読める」人間である自分に船酔いしていたのではないか、という気もします。
 「純文学書下ろし作品」で、立派な箱入りで、けっこう高かったんだよなあ、とか、この作品を批判した評論家たちに『虚航船団の逆襲』っていうエッセイ集で、筒井さんが猛然と反撃していたこととか、後年、子どもが読んでいた『かいじゅうぞろぞろ』という絵本をみて、「これを描いた人は『虚航船団』に影響されたんじゃないかなあ」なんて思ったことなど、作品そのものより、その周辺のことをたくさん覚えているんですよね。


かいじゅうぞろぞろ (創作えほん)

かいじゅうぞろぞろ (創作えほん)



(6)旅のラゴス(1986年)

旅のラゴス (新潮文庫)

旅のラゴス (新潮文庫)

内容紹介
北から南へ、そして南から北へ。突然高度な文明を失った代償として、人びとが超能力を獲得しだした「この世界」で、ひたすら旅を続ける男ラゴス。集団転移、壁抜けなどの体験を繰り返し、二度も奴隷の身に落とされながら、生涯をかけて旅をするラゴスの目的は何か? 異空間と異時間がクロスする不思議な物語世界に人間の一生と文明の消長をかっちりと構築した爽快な連作長編。

 高校時代、家のトイレで読み始めたら、読み終えるまでトイレを出られなくなってしまった、という傑作。
 予備校の夏期講習に通っていた時期で、自分の世渡りとかひとづきあいには全く自信が持てなかったのだけれど、ラゴスみたいに生きていけたらいいなあ、と、ずっと思っていたんですよね。「徹底した観察者」として、何かを見届ける、そんな人生。
 ……なんで、僕はこんな人間になってしまったのだろう。



(7)残像に口紅を(1989年)

残像に口紅を (中公文庫)

残像に口紅を (中公文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
「あ」が使えなくなると、「愛」も「あなた」も消えてしまった。世界からひとつ、またひとつと、ことばが消えてゆく。愛するものを失うことは、とても哀しい…。言語が消滅するなかで、執筆し、飲食し、講演し、交情する小説家を描き、その後の著者自身の断筆状況を予感させる、究極の実験的長篇小説。


 よくこんなことができるな……
 正直、小説として、ストーリーが面白いとか、そういうわけじゃないんですよ。
 どんどん使える言葉が減っていくにもかかわらず、話が続いていくという曲芸を、半ばハラハラし、半ば、そう言いながらも使ってしまったところを見つけてやろう、という野心を持ちながら読みました。間違い探しは、10ページもしないうちに諦めたのですが、『筒井康隆入門』によると、5か所ほど消えてしまったことばを使ってしまったところがあるそうです。むしろ、たった5か所かよ!って感じですが。
 今であれば、コンピュータを使えば、重複後チェックは比較的簡単にできるはずなのですが、筒井さんは手作業で、自分の小説に頻出することばの統計をとり、先を見通しながら、世界からことばを消していったのだとか。
 そんなめんどくさいことをすでに功成り名を遂げた筒井さんがやったというのもすごいし、自分でやらずにはいられないところが、筒井さんらしさなのかな、と。



(8)文学部唯野教授(1990年)

文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

内容紹介
これは究極のパロディか,抱腹絶倒のメタフィクションか! 大学に内緒で小説を発表している唯野先生は,グロテスクな日常を乗り切りながら,講義では印象批評からポスト構造主義まで壮観な文学理論を展開して行くのであったが….「大学」と「文学」という2つの制度=権力と渡り合った,爆笑と驚愕のスーパー話題騒然小説.


 高校時代に筒井作品に目覚めた僕なのですが、初期作品から読んでいって、この『唯野教授』がベストセラーになった時期に、ようやく新刊に追いつきました。
 当時、通っていた大学の教授が講義に少し遅れてきた際に「大学の講義は12分遅れで始まり12分早く終わるのが常識らしいので」と言いながら教室に入ってきたんですよね。僕の周囲には、小説を読んでいる人があまりいなかったので、ちょっとニヤニヤしてしまいました。
 当時は、唯野教授の講義内容は難しくてよくわからず、大学教授の生態を喜んで読んでいた気がします。
 文学理論のほうを、もう少しちゃんと読んでおけばよかった……



(9)朝のガスパール(1992年)

朝のガスパール (新潮文庫)

朝のガスパール (新潮文庫)

朝のガスパール

朝のガスパール

内容(「BOOK」データベースより)
コンピューター・ゲーム『まぼろしの遊撃隊』に熱中する金剛商事常務貴野原の美貌の妻聡子は株の投資に失敗し、夫の全財産を抵当に、巨額の負債を作っていた。窮地の聡子を救うため、なんと“まぼろしの遊撃隊”がやってきた。かくして債務取立代行のヤクザ達と兵士達の銃撃戦が始まる。虚構の壁を超越し、無限の物語空間を達成し得たメタ・フィクションの金字塔。日本SF大賞受賞。


 作品の内容よりも、当時まだ一般的なものではなかったパソコン通信で読者と双方向のやりとりをしながら、ストーリーを変化させていく、という創作のプロセスが話題になった作品です。
 これが朝日新聞の朝刊に連載されていたのですから、筒井さんにとっても、朝日新聞にとっても、かなりの冒険だったのではないでしょうか。
 この『朝のガスパール』に関しては、読者の反応のなかに愉快犯というか荒らしのような人が出てきたり、意外な反応に作者のほうが困惑していたりという会議室(この作品専用の掲示板のようなもの)でのやりとりのが、この作品のB面とも言うべき『電脳筒井線』に収録されていて、僕はそちらにも興味津々でした。
 インターネット時代であれば、こういう「読者の反応でストーリーが変わっていく小説」みたいなのがもっと出てきてもよさそうなものですが、意外とフォロワーが出てきませんよね。
ハリウッド映画では、いくつかのエンディングのパターンをつくって、試写会で反応がよかったものを採用する、というようなやりかたをしているそうですが。
今後、AIがさらに進歩してきたら、「個々の読者の好みに合わせたストーリーに分岐していく小説」なんていうのも珍しくなくなるかもしれませんね。『ティル・ナ・ノーグ』か!(オールドマイコンゲーマー向けのツッコミ)



(10)巨船ベラス・レトラス(2007年)

巨船ベラス・レトラス

巨船ベラス・レトラス

内容紹介
『大いなる助走』から四半世紀、巨匠・筒井康隆が再び文壇の内幕を鋭く描く! パソコンソフト会社を興して成功した狭山銀次が創刊した、前衛的な文芸誌「ベラス・レトラス」。破格の原稿料に釣られ、常連執筆者となった作家たち。実験的な作風で知られる錣山兼光、ホラー小説の旗手・伊川谷幻麝、盲目の詩人・七尾霊兆、革新的な作品で派手に登場した笹川卯三郎……。そうした作家たちの成功を妬む同人誌作家が爆弾テロを起こすところから物語は始まる。小説世界の内と外は自在につながり、過激なメタフィクションが展開、ついには「筒井康隆」を名乗る人物が語り始める。現代の文学を取り巻く状況を風刺する、ブラックユーモアに満ちた快作(解説・市川真人)


2007年に書いた感想のリンクを貼っておきます。
fujipon.hatenadiary.com
正直、これを書いた時点では、筒井さんももう70過ぎだし、もうそろそろ引退かな……なんて思っていたんですよね。
それから10年……まだまだ現役で、新しいジャンルにも積極的に挑戦されていて、もう本当に参りました、としか言いようがありません。

それに比べりゃ今の作家は同時期にデビューした作家仲間と連絡を取りあって、執筆状況や原稿料や何やかやの情報交換をしながら、他より進まず遅れずほどほどの作品を生み出していこうという程度の望みしか持っていないようだ。これは若い作家に限らない。今の若い連中はみんなそうだが、ブーアスティンの言うアンテナ型になってしまった。周囲を見て自分の行動を決める、他人と容易に同調する、仲間から一歩抜きん出ることは摩擦を生みシカトされる恐れがあるから避ける。そして作家の場合ただ作家になり他の作家と肩を並べることができたというだけで自足してしまう。勉強といっては仲間の作品を、自分の作品もその水準さえ維持していればいいんだという安心感を得るためにのみ読むだけだ。皆と同じことをして何が悪いという心理が根幹にあるから、仲間の評価以外の批判を聞き入れることはない。あのう、これはレベルの違いがあるだけである程度は最近の純文学をやっている作家の一部にも言えることなんだね。


 これもやはり「予言の書」だよなあ、と。
 みんな仲良しでひたすら褒めあっている、「本屋大賞御用達作家」の皆様のことを思い出してしまいました。


 筒井さんは短編やエッセイ、日記も滅法面白いのですが、今回は長編で頭に浮かんだ10作品を御紹介してみました。
 これがベスト、というつもりも、僕がちゃんと読めているという自信もないのですが、いちツツイストとして、ひとりでも多くの人に、筒井作品に触れてほしいと願っています。そんなこと僕がわざわざ言わなくても、いまでも売れ続け、多大なフォロワーを生み出している人なのですけど
 僕は筒井さんの日記の大ファンで、『腹立半分日記』は今でもときどき読み返します。筒井さんの日記を読んでいると、カエルの脚ってそんなに旨いのか……と思うのですが、残念ながら、この年まで口にする機会はありませんでした。いや、やっぱりカエルだしなあ……鶏肉みたいな味がする、という話なのですが。
 いまの10代、20代くらいの人にとっての筒井康隆というのは、どういう存在だかわからないのですが、いつか、僕の息子たちが『霊長類 南へ』とか『旅のラゴス』を読んでくれたらいいなあ、なんて思いつつ、さりげなく本棚に置いておこうと思います。
 しかし、親の立場になってみると、筒井作品をむさぼり読む子どもって、ちょっと心配でもあるなあ。


筒井康隆入門 (星海社新書)

筒井康隆入門 (星海社新書)

腹立半分日記 (文春文庫)

腹立半分日記 (文春文庫)

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