キャラメル・エッセー:「時計仕掛けの昭和館」:SSブログ
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尋ね人の時間です。 [キャラメル・エッセー]

10年後の復刻・キャラメルエッセー

 
 「昭和」を語るためには、自分の昭和を再確認する必要がありました。繁栄の陰でいいことばかりではなかったこの時代。それを振り返ることは、ある意味で自分史を語ることになります。このエッセーは「生涯学習」をテーマに1997年から98年(H9~10)に掛けて新潟日報に連載したものですが、背景に「昭和」があります。
 社会的に
共通の体験も、あるいは極私的な体験も、昭和からの延長線上で起きたことには違いないのです。
そんな訳でこの記事を10年振りに復刻させて頂くことに致します。


回転ドアの向こうには―1


「尋ね人の時間です」


 その少年は15才だと言った。Tシャツかアンダーウエアか判別しにくい着衣の裾を、ズボンの中に入れるでもなし出すでもなしの風采で、進められた椅子に腰を下ろした。市民ミュージカルのオーディションの場である。

 「今、何してるの?」と審査員。「中学出てから家で詩とか書いたりして。親も僕のことあんまり面倒見ないから」。どこか投げやりな調子。「母が募集のこと教えてくれたんで。僕も、自分の思ったこと表現できるタレントみたいなことやりたいなって…」。母親がいつも家に一人でいる息子のために、ミュージカルの仲間に入れてみたらどうだろうと思って勧めたに違いない。
 「ミュージカルはみんなと呼吸を合わせていかなきゃならないんだよ。大勢といっしょに頑張ったりした経験、ある?」「一人っ子なんで。友だちいないんですよ。自分でも良く分かんない性格で。人の中に入っていけないんですよ」。なぜかフッと、最近発覚したあの忌まわしい事件が頭をよぎる。あの少年も同年代だった。(注・当時、少年による殺人が複数発生し、14歳が問題視された)
「舞台に登らなくても、裏方で、というのはどう?」。周りと協調がとれないことを懸念した審査員の質間だ。「やっぱり役者として…。分からないなりに、自分を表現したいんで…」。ステージの上でなくては意味がないということらしい
でも、この少年の気持ち、分かるような気がする。うまく表現できないながらも、だれかに自分を分かってほしいと、必死に思いを伝えようとしている一途さが伝わってくる。こころを開いて訴えている。15の時、自分は何を考えていただろうかとふと思う。そのころ自分も、手に負えないほどの演劇少年だったんだ。


× × × × × × × × × × × × × × ×

 「昭和19年、○○部隊に所属の◇◇さんの消息をご存じの方は、日本放送協会までご連絡ください」 戦後まもなくの昭和21年7月、NHKで「尋ね人の時間」というラジオ放送が始まった。戦争で離れ離れになった人たちが互いに捜し合うよすがにしたもので、この番組は昭和37年まで続いた。昭和20年代、30年代は「人捜し」の時代であった。
その後「人捜し」は形を変えて、高度経済成長期には労働力確保の目的で展開された。そしてバブル崩壊。底無しの低迷経済を「安定成長」と呼ぶレトリックに怒りとあきらめを抱きながら、人々は今まで願っても得られなかつた自由時間が生まれていることに気づいた。暇ができると人間は余計なことを考える。これまでの自分は何だったんだろう。国のため、社会のため、家族のための時間割のほかに、自分のための時間割があっていいはずだと こう考えると、最近よく耳にする「自己実現」とか「生涯学習」とかいう言葉がかなり分かりやすくなってくる。物よりこころの時代に至って、現代の「尋ね人の時間」は、内なる自分への問い掛けに変わってきた。巷間言うところの「自分探し」である。

オーディションの結果、15歳の少年はせりふのある役はもらえなかった。けれども歌やダンスでコーラスラインを飾ることになった。彼はまさしく「自分探し」の渦中にある。翻ってそれは、現在の自分自身のテーマでもある。この試みにゴールはない。1年後の公演までに、少年がどのような歩みを見せてくれるかを見守りたい。  

 

●10年前の記事のため、現在とずれが生じるものがあるかもしれません が、その場合はご容赦ください。

高島屋 Caves.I 125*125

復活、欠食児童の栄養源 [キャラメル・エッセー]

「新潟日報」・10年後の復刻
 キャラメルエッセー
 回転ドアの向こうには-2



復活、欠食児童の栄養源

  たばこをやめて
10年になる。それまで1日4~50本を数えるヘビースモーカーだったが、国際的にも喫煙者への風向きが強くなってきたころでもあり、できることならやめたいと思っていた。
  きっかけは風邪でのどをひどく痛めたことからだった。奥が真っ赤にただれて吸えなくなった。症状がよほど悪質だったのか、医師の手当てが適切でなかったのか、結果的にいつまでたっても回復しなかった。それが逆に良かった。一週間我慢したから、半月我慢できたから、もう少しでひと月だから、と1日刻みで禁煙記録が延びていった。苦悶の1カ月が過ぎ、苫渋の半年が過ぎ、苦闘の1年が過ぎた。「意思の勝利」だった。

  タバコをやめて問題になるのが間のつなぎ方である。入門はガムあたりからだが、トローチだ、コーヒーだと手当たり次第。家の中ではビーフジャーキーなどということもあった。そのうち、駅ホームの売店でふと見かけたのが、昔のままの姿をした森永ミルクキャラメルだった。黄色のパヅケージに古いエンゼルマーク。「滋養豊富・風味絶佳」と謳った大時代なコピー。濃厚な感じの懐かしい味。さすがに外出時に携帯することはないが、以来それがたばこ代わりになって、今日も座右にある。


  戦争が始まった昭和16(1941)年前後に生まれた子供たち。それは、ごちそうや甘いおやつを知らない世代だと、よく母から聞かされた。さつま芋から作った水アメを至上のうまさと記憶している。戦後ようやく進駐軍が車の上からばらまくチョコレートの味を知ったが、日常おいしいものといえばキャラメルだった。

  グリコを筆頭に、明治クリームキャラメル、雪印バターキャラメル、フルヤウィンターキャラメル、カバヤキャラメル、とキャラメルのオンパレード。新潟ローカルでは北日本キャラメルというのもあった。グリコの「一粒300メートル」のコピー通り、キャラメルを食べていれば元気が保証される、そんな信頼感があった。この世代…つまり欠食児童のように育った世代を「キャラメル世代」と呼びたい。

  キャラメル世代の重要なポイントは、戦争をこの目で見た最後の世代であることだ。もちろん戦場に出たわけではない。家族といっしょにB29の大空襲の下を逃げ惑い、炎上する市街が赤々と天空を焦がす光景を原風景として心の深層に刻み込んでいる世代をいう。
 
 キャラメル世代の価値観は、物質的には「質より量」を重視する。味は少々落ちても料理のボリュウムに感動するのだ。欠食世代だからこれはうなずける。そのくせ精神的には「質の高さ」を尊重する。これはみじめさの裏返しだ。食うものがなくても空腹を表に出さない「武上は食わねど高楊枝」の精神である。性善説をかたくなに信じ、人を疑わない。「質実剛健」「不言実行」「以心伝心」「率先垂範」「犠牲的精神」といった、いまや死語に近い言動を美徳と思う考え方が拭いがたく根付いていたりする。
 良く言えぱ訳知りのお人良し。悪く言えば馬鹿正直。ひとことで言えば苦労人なのだ。このあたりが特に、ボランティア的要素の強い生涯学習活動などにはぴったり適合する。

  戦後52年。戦争を知る人たちが国民の半数を割ってしまった今日、平和の語り部としてそれを語り継ぐことも、生涯学習活動の大きなテーマになり得るだろう。現実にそうした活動も行われ、キャラメル世代がとてもよいリーダーシップをとっている。混とんとした世情だが、酸いも甘いも噛み分けた、いや、大甘のキャラメル世代の美学が容認される社会なら、素晴らしい人間関係が築けると思うのである。



●10年前の記事のため、現在とずれが生じるところがありますが、そのまま掲載しております。

高島屋 Caves.I 125*125

「幻灯機」が広げたフィルムの世界 [キャラメル・エッセー]

10年後の復刻・キャラメルエッセー

回転ドアの向こうには-3 「幻灯機」が広げたフィルムの世界

  まずきれいだと思った。そして不思議だった。それは縁側の雨戸の小さな節穴から差し込む光が映し出した前庭の風景だった。暗がりの白壁にくっきりと、県道に沿った向かいの家並みと庭の柿の木が逆さに映り込んでいる。5~6歳の少年に、この不思議は間もなく納得がいく。  

   ひと回りも年のちがう長兄が、土蔵の中から見つけ出してきた大正時代の古い幻灯機。それは電球を入れるブリキのランプハウスしか形をとどめていないものだったが、兄は虫めがねのレンズを流用した鏡筒を付け加えて、反射式幻灯機を完成させた。4人の兄姉が5センチ幅ほどの紙テープをつくり、てんでに絵や漫画をかいて、時々タ食後に幻灯会を催した。暗い画面を見ながら少年は、この幻灯が動けばいいな、と思った。兄姉たちはよく映画の語をした。「フランケンシュタイン」や「ジキルとハイド」、チャプリンやヒチコック、化け猫映画などが幻灯会の話題だった。なぜ写真が動くのか。少年はその秘密を知りたいと思った。  

   娯楽の少ない時代、小学校の体育館で時々映画会が催された。文化映画が多かったが、年に数回は「鞍馬天狗」「銭形平次」などの劇映画も上映された。そんな時、少年はいつも映写機の傍らにいた。フィルムは古く、いわゆる雨降りで、よく切れた。その切れ端をもらうのが目的だった。

  当時、少年雑誌にブリキの手回し映写機の広告が載っていて、少年はそれが欲しかった。買ってもらえなかったが、動く写真が見られるその機械を近所の仲間が持っていた。少年は大事なメンコやビー玉と引き換えに、映画フィルムの断片を手に入れた。昔の活動写真やニュース映画を切り売りしたものだったが、それを一コマずつ目で追いながら、写真が動く原理の一端を納得した。

  少年の好奇心をさらに刺激したのは国語の教科書だった。映画の発明について。リュミエール兄弟によるシネマトグラフ初公開のエピソードを述べた文章には、「列車の到着」という史上初の映画の1コマが載っていた。当時の観客が、進んでくる列車に思わず浮き足立ったというその実際の画面を、少年はいつか見たいと思った。こうして少年の心は、ますます動く映像にのめり込んでいく。やがて二番目の兄が教師になり、視聴覚を担当すると、家には16ミリ映画の資料が備わった。少年はそれらを興味深くむさぼり読み、映画のメカニズムやシナリオ作法といった事柄を納得していく。

  興味を覚えた物事には、進んで知ろうという意欲がわくものである。自ら学ぶ。これが「生涯学習」の基本らしい。「生涯学習」という言葉が使われ出したのは平成に入ってから。それまでは、入学前の児童には家庭教育、在学中は学校教育、社会人には社会教育と個別に認識されてきたようだ。しかし、それぞれは互いに重なり合い、明確に区分できるものではない。また「教育」は与えるという感じだが、本来は自発的であることが望ましい。「学習」にはその響きがある。ならば一生を通じての自己実現という意味で幼児期から円熟期までを一元化し、「生涯学習」と呼ぼうという傾向になってきているらしい。

  ともかく、人間形成の大本は幼・少年期にあることは言をまたない。先ほどの少年は長じて映像制作をなりわいとし、現在は自身の生涯学習のメインテーマとも考えている。生涯学習とはまさに、生き方そのものなのではないかと思う。ある専門学校の映像講座の中で私はこの話をした。講義が終わって女子学生がぽつりと言った。「本や映画がその人の人生を変えることって、本当にあるんですね」。

  昔、少年が手に入れた大河内伝次郎の丹下左膳映画…正式には昭和3年製作、伊藤大輔監督「新版大岡政談」のフィルムの断片は、今でも私の宝物である。

 

●上は「新版大岡政談」のフィルムとその動画(無声)です。

●この「キャラメルエッセー」は1997年から98年に掛けて「新潟日報」家庭欄に掲載されたものです。 14回まで続きますが、途中他のテーマが入りますので断続的な連載となりますことをご了承くださ い。

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山のあなたのなお遠く [キャラメル・エッセー]

P1030925b-3.JPG 「新潟日報」連載・10年後の復刻
      キャラメルエッセー
      回転ドアの向こうには―4 

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山のあなたのなお遠く
 
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 「一流中学より二流高校へ入学後、三流大学を卒業…」。これは、ある出版物の奥付に記された著者プロフィールの書き出しである。その本は十数年前、私より一時代あとの「団塊の世代」にあたる友人、橋倉正信さんが著したものだが、実にオツな表現だと思う。それは、自信と余裕を持って自分を笑い飛ばしながら、学歴社会に翻弄される受験生の姿を見事に比ゆしているからだ。

 小・中学校のころは義務教育とはいえ、たいした勉強をしなくても、兄弟や年長の遊び友だちといっしょにいるだけで知恵もついた。いわば地区大会レベルだ。けれども高校進学になると県大会への出場となる。優秀な生徒が方々から大勢集まってくるから、通り一遍の勉強のしかたでは問に合わなくなってくる。まして大学受験ともなれば全国大会である。受験生は理想と現実のはざまで葛藤し、初めて親掛かりではない、自分自身の力量や限界を認識する。だから前述の橋倉さんの表現は、どこか普通的な響きを持って真理のように聞こえてくるのである。さすがに世の中の真理を見透かしていた橋倉さんは、現在、編集プロダクションの社長として、映画関係誌、タウン情報誌など多くの出版に携わり、国内はもとより海外でも精力的に活躍中である。

 反対に私はといえば、ずーっと自分勝手の生き方しかしてこなかった。「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う」(カール・ブッセ/上田敏訳)。「遠い山の向こうの知らない町よ。いつか馬車に乗って行きたい町よ」ボヘミア民謡「遠くの町」小林純一訳詞)少年時代、この詩とこの歌が好きだった。真冬の深夜、冷えた寝床で、広い田んぼを渡って聞こえてくる上り列車の汽笛に耳を傾けながら、遠くつながっている東京を漠然と思っていた。自分は何になりたいのか。スポーツは大の苦手。反対に芝居は小学校の学芸会に出たときから病みつきになっていた。何といってもいろいろな役に変身できることがたまらない。そのほか学校の先生、新聞記者、童話作家なども選択肢の中にあった。

 高校のクラブ活動では夜遅くまで演劇に打ち込み、夜学の人たちとこわばったコッペパンを分け合ったりした。学校から帰れば、遅い夕食もそこそこにまた出かけていく。
地元の先輩や仲間が集まる漬劇サークルのけいこだ。場所は公民館。普通高校、商業、工業、農業など学校は異なるが、もともと同じ中学校の出身者だから息が合う。中卒で就職した後輩たちもいっしょにけいこに励む。そこは進学組も就職組もこだわりの無い和やかな交流の場である。真冬は土間で石油缶にくべた薪(まき)で暖を取りながら、深夜まで意見を戦わせる。真夏の夜には親友とローカル線の線路をまくらに、つたない演劇諭・恋愛論を戦わせて、そのまま始発電軍が来るまで眠り込んでしまったりした。思えば高校時代は自分探しに目覚めた頃でもあった。

 私の時代、昭和30年代半ば、大学進学はまだ選ばれた人たちのものだった。それに、農家の四男が家を出ることに疑間は感じなかった。就職組も、エリートが目指すところは東京だったが、私の場合は相応に川崎だった。どっちにしても、どうせ出るなら早く自分の生活をこの手で営んでみたい。そうした気持ちが強かった。
まだ雪解けの三月の末、生まれ育った町の停車場(ていしゃば)のホームで、おふくろとふるさとに涙で別れを告げたときから、私は大人になった。期待と不安で越えた山の向こうには、なるほど好きだった歌の詩の通り、ポプラ並木や飾り窓の店はあるにはあった。けれども、少年の頃から夢見ていたユートピアは、さらにそのまた向こうにあるらしかった。
 「山のあなたのなお遠く、幸い住むと人の言う」
  当時、日本の賃金水準はアメリカの9分の1。安保闘争もようやく沈静化し、所得倍増の掛け声の下に、日本は高度経済成長へのスタートを切り、右肩上がりの上り坂を一気に駆け上ろうとしていた

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●この記事は19971212日に新潟日報に掲載されたものです。
 新潟日報連載、全14回を随時掲載させて頂いております。
 
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ケ・セラ・セラ スピリット [キャラメル・エッセー]

P1030925b-3.JPG 「新潟日報」連載・10年後の復刻

      キャラメル・エッセー
      回転ドアの向こうには―5

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ケ・セラ・セラ スピリット 

 
「道端の石ころだって何かの役に立つ。世の中にあるもので無用の物などないんだよ」。綱渡り芸人が純真なヒロインに言う。イタリア映画「道」のワンシーンである。当時中学生になりたての私はいたく感激した。
 
映画に人生を感じたり、生き方を教わったり、といったことは多くの人が体験するところである。特に1950年代に少年・少女期を迎えたキャラメル世代は、きわめて幸せだったといえる。それは、こころがいちばん柔軟な時期に、映画の全盛期にめぐり会えたからである。

 
戦後どっとなだれ込んできたアメリカ文化の先鞭を切ったものがハリウッド映画だったが、間もなくフランス、イタリア映画も目白押し。その多くは「風と共に去りぬ」「戦争と平和」「居酒屋」「女の一生」「自鯨」「武器よさらば」といった世界名作の映画化であり、「聖衣」「十戒」「ベン・ハー」といった、聖書や世界史にテーマを得た壮大なスペクタクルだった。観客は居ながらにして歴史の現場の真っただ中に身をさらし、ヒーローやヒロインの冒険やロマンスを目の当たりにすることができた。

 
映画は総合芸術であり、綿密な時代考証のもとに、たくさんの専門家の英知を集めて製作される。だから、娯楽でありながら十分に知識・教養の糧になり得た。と同時に人生をも垣間見させてくれたのである。

 
例えば、「大いなる西部」では、決闘に臨んでひきょうな振る舞いをした実の息子を射殺する父親が登場する。この状況は、仲間を売った息子を射殺するコルシカの英雄「マテオ・ファルコーネ」の物語に似ている。けれども前者は公平な裁きとしての決断であり、後者は自分の信じる正義のためだった。当時は両方とも骨太の悲劇として受け止めていたが、後になって息子の命よりも名誉や建前を重んじた頑固な男のエゴイズムとも解釈できることが分かってきた。

 
名誉、正義、義務、責任…。それらは戦争映画が好んだテーマである。海戦ドラマ「眼下の敵」では、死力を尽くして戦った米独両国の艦長同士が、最後に互いの健闘をたたえ合う。まるでスポーツドラマを観ているようだ。反対に舞台劇を映画化した「攻撃」は極めてシリアスだ。激戦下、部下を見捨てた中隊長の責任を下士官が命を懸けて迫及する。
 
日本映画では「人間の条件」の主人公・梶の生き方に心引かれた。戦争という非人間的な時代の中で人間らしさを貫き通そうとして自滅していく梶。ここでは名誉や正義はすべて国のために一元化される。映画の主人公たちはいつもこうした極限状況に放り込まれて逡巡し、葛藤する。

 それにしても、正義とは一体何だろう。これが社会に出て最初に突き当たった問題だった。学生時代、正義は揺るぎないものだった。その正義が世間で通用しない。正しいと思うことを通そうとすれば、壁はそれだけ厚くなる。つらい。そう思うと、もう一人の自分が頭の片隅で歌いながら茶化しているのに気がついた。
「ケ・セラ・セラ、なるようになるさ…」。
 当時一世を風靡したヒチコックの「知りすぎていた男」のテーマ曲である。「物事はなるようにしかならない。先のことを思い煩うなんて愚の骨頂さ」。開き直りとは違う明るい感じがすがすがしい。そう言われて初めて、正義は人それぞれの立場によって違うものだと見る余裕が生れてきた。

 
映画から学んだこうした知恵はいつの間にか心の深層に定着していたらしく、それは社会に出てからずいぶんと気持ちの支えになった。何があっても落ち込まず、気にしない。でも「なるようになる」と、ただ指をくわえているのも気に食わない。「なるようにしていく」ってことも大事じゃないかな、と考えてみる。このスピリツトは今も変っていない。映画は時にそうした勇気やヒントを与えてくれる。生涯学習の中でも映画の果たす役割は極めて大きいのである。 

●このエッセーは1998年1月9日付け「新潟日報」家庭欄に掲載されたものです。
●「キャラメルエッセー」の全体テーマは「生涯学習」。10年後の復刻として全14回を随時掲載させていただいております。なお、ここでは「生涯学習」を、文字通り「生涯が学びの場」と広くとらえています。
●記事は当時のままです。場合によって現在の認識とズレがあるところが出てきても、そのまま掲載しております。

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