「時計仕掛けの昭和館」:SSブログ
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戊辰戦争は、わずか90年前の出来事だった [あんなこと、こんなこと]

P1030925b-3.JPG   あんなことこんなこと―13
高校時代 1956~1958(S31-33)-①
戊辰戦争は、わずか90年前の出来事だった  

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●長岡市郷土資料館(悠久山公園内)

 
高校生になっていちばんうれしかったことは、電車通学に変わることでした。それまで生活していたいなか町から、ちゃんとした町に出て活動できるのです。中学生時代の仲間とは離れ離れになりますが、近隣他市から集まってくる新しい仲間ができます。長岡には映画館も食堂も書店もあります。行動範囲が一挙に広がります。

 中学高学年の頃に三大関心事だったのは、好きな人のこと、将来のこと、家出や死について。その頃は空想の域を出なかったこれらのテーマでしたが、高校生になってからは実際に友だちの裏切りや失恋を経験したり、親友の自死という予想もしなかった現実に遭遇することになりました。

 そうした経験を積むと、友情とは、愛とは、死とは、自由とは、義務とは、責任とは、といった問題から、なぜ自分は生まれてきたのか、生きるとはどういうことか、自分の将来をどう考えればいのか……といやおうなしに考えざるを得なくなります。哲学や宗教観は持ち合わせていないので、考えれば考えるほど疑問が広がるばかり。手探りの中で友だちに相談したり、本を読んだり、映画の主人公の生き方をモデルケースにして話し合ったりしていました。勉強よりも実務を、という目的で大学進学校ではない商業高校に進み、あまり勉強しなかった分、結構まじめに「人生とは」といった問題を考えていたようです。今思うとそれは、「自分探し」に向かう自然な第一歩だったと思います。
 
●自然に芽生えた「郷土・長岡」への愛郷心

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●左/長岡城「正月元旦年賀登城図」(部分)奥中央に三階櫓と本丸御殿
●右/十一代長岡藩主・牧野忠恭


 全国の城下町を歩くと、真っ先にそびえ立つ見事な城郭が目に入り、町並みも特有の威厳やある種の情緒をかもし出しているものですが、長岡にはそれがほとんど感じられません。長岡市と聞いて「ああ、あの司馬遼太郎の小説【峠】の舞台ですね」とか「河井継之助や山本五十六が出たところですね」とか、最近では「【米百表】の小林虎三郎の長岡藩ですね」と即座に思い出してくださる人でも、長岡に城が無いことは意外と気がつきません。それどころか地元でさえ、長岡は城下町だったと言われてピンとくる人はほとんどいないでしょう。

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●左/「正保城絵図」(部分) 幾重にも堀を巡らした美麗な城が想像できます。 
●右/「長岡城の図」(部分)


  越後長岡藩は譜代で誇りは高く、藩風は質実剛健。正道のためには断じて退かず、という真っ正直な藩風だったようです。ご存知の通り幕末の戊辰戦争では、錦の御旗を押し立てた西軍から逆賊の汚名を着せられ、会津藩と共に最後まで抵抗し、滅んだという歴史上の事実があります。城は信濃川東方の平地に築城された平城で、八文字構え浮島ヶ城、別名兜城(かぶとじょう)と呼ばれる堅固な要塞だったと伝えられていますが、戊辰戦役後はすべて取り壊され、石垣の遺構すら残っていないのです。

 
私が高校生になった頃は、国鉄・長岡駅前に小さな公園があり、そこに四角い大きな石がひとつおいてありましたが、それが唯一残されたものだったようです。高校生ともなると自然に自分の周囲への関心が芽生え、長岡城のことが気になっていたのですが、特に史実を調べたりした訳ではありませんでした。けれども、中学生のころ得意になって田植えを手伝っていた、生家からいちばん遠い田んぼのあたりが古戦場だったというのです。

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●上/明治元年(1868)7月25日の長岡城奪還作戦。紫の矢印が長岡軍の動き。
●下/長岡藩家老・軍監 河井継之助  ●長岡市郷土資料館(悠久山公園内)

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●現在の八丁沖から 山すその自宅方面を望む。右の高い山並みのあたりが森立峠

戊辰戦争では長岡方面の局地戦を北越戦争と呼んでいますが、そのクライマックスが長岡城奪還作戦です。長岡城は一度西軍の手によって落城したのですが、まさかと思われる間隙をぬって、長岡兵が夜陰に乗じ、大湿原を押し渡って逆襲。みごと城を取り戻すことに成功するのですが、八丁沖と呼ばれたこの湿原こそ、現代の耕地整理で良田と化した生家の田のあたりなのです。この他にも、小学生の頃から遠足などで馴染んでいた「森立(もったて)峠」も、当時の激戦地だと知り、俄然興味が湧くことになりました。

  また、家には昔から伝わる二振りの刀剣がありました。一振りは長刀でもう一振りは短刀です。私は戦争直後の子供の頃と、就職後帰省した際に見せてもらったことがありますが、手入れをせずに新聞紙でくるんだまま仏壇の脇にしまってあるだけでしたからボロボロにさび付き、長刀は鞘から抜けない状態でした。

 
この刀剣のいわれについてももちろん興味がありました。法事の際に来宅した明治生まれの父の兄の話では、私の家の祖先は戊辰戦争の前までは武士だったらしいとのこと。その先祖は「間もなく武士の時代は終わる」と判断し、武士の資格を証明する「株」を、ぜひにと所望する農家に売って今の田畑を手に入れたのだそうです。つまり侍から百姓に転身したというのです。その頃はまだ武士になりたいという人も多かったのだそうです。それからしばらくして鳥羽伏見の戦いが勃発。祖先から株を買って侍になった人は遠征に参加して戦死。祖先は難を免れた。祖先は先見の明があった、という話でした。

  父の兄の話はいかにもよくできた話に聞こえるので、物語として面白く聞きましたが、我が家の家系図は大正の頃に菩提寺の火災で焼失しているということなので、真相はなぞのままです。そんな訳で私自身の氏素性も明確ではありません。
ところで、戊辰戦争の終結は明治3年(1868)。高校生の頃はそれからまだわずか89年しか経っていないのです。とても昔のこととは思えませんでした。

  そんなこんなでいつの間にやら長岡人の気質が染み込んできたらしく、自分も質実剛健の長岡藩の気風を受け継いでいるのではないかと思うようになりました。それに昭和16年生まれの特性と思われる、何でもありがたがるお人よしの要素が加わると、かなりはっきりした性癖が見えてきます。
 つまり、普段はもの分りが良く、納得のいくことならとことん打ち込む。結果が分かっていればなお更、強い方よりも弱い方の味方。権力や体制にうさんくささを感じ、道理の通らないことは絶対に許容できない。この頑固さと反骨精神。高校生時代はこんな形で自分の人間形成が進んだ気がします。一言で言えば自分にも他人にも真っ正直で融通の利かない人間。それが良かったのか悪かったのか…。
 ご推察の通り、社会に出てからはこの性癖が災いし、自分で「失われた10年間」と位置づけている暗黒時代を経験することになるのですが、それはもう少し先、高卒後の話になります。


P1050465.JPG●長岡市観光パンフレットより

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