1911年(明44)金正堂刊。袖珍講談文庫。
作者名の滴翠軒(てきすいけん)とは京都東本願寺に付属する庭園渉成園にある茶亭と同名であり、版元の都合で便宜的に使われた筆名ではないかと思われる。この本は、大阪の二つの版元(金正堂と文祥堂)が共同で刊行した袖珍講談文庫の一冊で、奥付の著作者名には講談文庫編輯部としか記されていない。
この頃には講談速記本から「書き講談」へと変化して行ったようで、口語体での書き言葉の使用も安定してきた。日清・日露の戦争での勝利を経験した日本人が国力への自信をつけ、「国家精神の涵養」を意図した偉人・賢人・豪傑・名将の事績をこのような講話本を通して学ぶ意義が高まったようだ。
江戸中期の名奉行として知られた大岡越前守の事績は「大岡裁き」として広く知られており、ここでも全編を通してその人物を称賛する筆致が目立つ。蜜柑の挿話では拷問次第で白を黒と自供させる弊害を戒め、縛られ地蔵では頓智を利かせて事件を解決する。また鶴のお吸い物事件では将軍吉宗との心を通わせる見事な裁定など、やや説教じみた口調ではあるが、納得性のある結末に満足感があった。法律の改正にあたっては、罰金刑の制定など、江戸城内での評定の様子など活写したように描いているのも興味深かった。☆☆
国会図書館デジタル・コレクション所載。
https://dl.ndl.go.jp/pid/889588/1/9
《弊堂(へいどう)此(ここ)に感ずるところありて、今回袖珍講談文庫を発行せり、而(しか)して其の収むるところは、古今の英雄豪傑が国家に盡(つく)せる美談徳行にあらざれば、忠臣義士が主家に致したる至誠義挙ならざるはなし、是れ識(しら)ず知らずの間に、大国民の徳性を涵養(かんよう)し、人格を崇高ならしむるの資料に供せんとするなり。》(袖珍講談文庫発行の趣旨)
《其の裁判が正確にして、毫(ごう)も偏頗(へんぱ)の処置なく、是非善悪の別を明らかにさるることの、厳正なりしを云ふか、此等の事は素より名奉行たる資格の基礎なるに相違なきも、越前をして其の名を揚げしめたる骨子は、蓋(けだ)し仁徳と忠節とに在り、能く仁政を敷き、萬民を救ふことに寝食を忘れたるも。忠節を竭(つく)すに汲々たりしとに因る。》(はしがき)