息が上がる。ほんの少し階段を上っただけでこれだ。しかし、日頃運動をしていないデメリットとしてこの程度の苦痛を味わうだけなら、それはそれで構わないと思ってしまう。人は実害が起こらないとなかなか改まって行動することがない。後々困るのは自分なのに。
洋服を見ていた。夏からそうだったけれど、今シーズンはラズベリーなどのベリー系の色味のアイテムに惹かれる。考えもなしに上下同じ色味のものを買おうとする。さすがに上下で合わせると派手すぎてキツいかもしれない。何色と合わせるのが正解なんだろうか。黒が無難だけど、無難すぎる感じがしている。カーキは少し勇気がいるけれど、合わないこともないだろう。デニムとは相性が良いように思う。キャメルとも合うだろうか。
「俺ビレバン行っているから」
彼がいう。どうして一緒に見てくれないんだろう。こんなに楽しそうにする私に興味がないのかな。
「一緒に見ようよ」
「ええ…」
嫌そうにする彼に少々落胆するも、すぐに気を取り直す。「これ、私に合うかな?」「今年はこの色ばかりが気になっているの。」「ああ、何か1点買うだけじゃ気が済まないな、買うなら上下買いたい。」独り言のように呟く私を彼は見ていない。どこか違う場所ばかり見ている。
洋服を見る前は、降りたことのない駅を降りてご飯を食べた。無愛想な接客をする女性の酷さとは裏腹に肉汁の溢れる和牛ハンバーグは美味だった。写真ではかなりのレアに見えたけれど、実際目の前にしてみると程よい赤味の差すお肉だった。彼はしきりに全体を見渡し、店員の女性を観察していた。飲食店に勤めているだけあって、見る目が厳しい。何か思うことがあるのだろうなと思いながら、その様子を私は観察していた。店を出てお互いに味や接客の評価をした。やはり彼はいろいろなところを見ていた。「ギャルっぽい人を雇っているのは店主の趣味かもね」と彼が言い、なるほど、と思った。最初に水が運ばれてきたとき、アートを施されたネイルを見て私はぎょっとしたものだった。でも味が良かったので良かったという評価に2人共落ち着いた。
そんな話をしながら次に向かったのは神社だった。何故か参拝したいと彼が言うので、ついていったのだけれど、参拝の作法を良く知らない。今時はスマートフォンでなんでも調べられるのだから、困ることはないのだけれど、この歳までろくに参拝してこなかったことが急に恥ずかしく思えてしまった。合っているか自信なさげに私は恐る恐る参拝し、近くにあったおみくじに興味を示す。恋愛の面が今回は特に気になっていたのだけれど、開けてみると、「中吉」。当たり障りのないことが書いてあった。「縁談 吉、とゝのう」。全く嘘も良いところだと思ったけれど、もしかしたら整うのか。どう整うんだろうか。そして、歌を声に出して詠む。おみくじに歌なんていつもついていたのだろうか。いや、ついていない気がする。春を待つようなそんな歌だった。
参拝を終えた私達はカフェに向かう。自家焙煎を行っているカフェが近くにあるらしい。これは期待できる。美味しいコーヒーが飲めることも嬉しかったのだけれど、期待に胸を膨らませながら歩く彼の姿が非常に愛おしく思えた。やや道に迷ったけれど、彼の方向感覚は素晴らしく良いのですぐに間違いに気づき、目的地に辿りつくことができた。
ボードには新入荷したという豆の名前が踊っていた。店内が良く見える店構えは私に好印象を与え、何の抵抗もなく扉を開け、店内に入ることができた。この辺に住んでいるであろうマダムたちがお茶の時間を楽しんでいた。人は多くないが、ガラガラというほどでもない。丁度良い感じだった。照明も良い塩梅。招かれて席に着くと、厚いメニュー表が配られた。ひとつひとつ丁寧に説明の入った親切なメニューだったが、種類の豊富さに驚きもした。さすがに多すぎて比較ができない。おそらくハンドドリップだろうブレンドコーヒーやストレートコーヒーに興味を示しつつ、エスプレッソがあったので、久しく飲んでないなと思った私はカプチーノを頼んだ。彼が楽しそうにしているのを私も楽しそうに眺める。心のどこかではこういうことももう最後かもしれないと思いながら。それがあったからか、何故かこのお店の豆を購入したいという思いが芽生えたので、彼に「豆が欲しい」とねだった。微妙な気持ちの変化は見えないのだろう、彼が何食わぬ顔で「ああうん」と返事をし、豆のコーナーを一緒に見る。種類が多すぎて自分ではどれが合っているのか分からない。結局彼が「ケニアにしようか」と決めたものにした。購入したのはたった100gだけれど、十分なように思えた。家に帰ったらすぐに淹れて飲みたい、それがやりたくてたまらない。となぜか強く思った。
そうするうちにコーヒーが運ばれてきた。思っていたよりカップが大きい。これで540円は妥当だな、という感じ。ハートのアートが目に入ったけれど、彼が描くハートの方が可愛いなと思ってしまったことをおかしく感じてニヤニヤしてしまう。「何?」と訊く彼に「いや、あんまり上手くはないなと思って」というと「普通だけどね」と答える。そうなんだ、これが普通なんだ。
飲んでみると、始めは味が分からなかった。いや、コーヒーであることは分かるのだけど、嫌な苦味や酸味がなくてすーっと体に染み渡るような感じがした。熱すぎて分からなかったのかもしれない。よく分からなかったけど、嫌な味がしなかったのでこれは美味しいコーヒーだと思った。
「美味しい」
「ほんと?」
「うん、甘みは感じないけれど」
嘘はついてない。そして彼が飲むところをじっと見つめる。見つめていると
「美味い!」
あ、本当に美味しいときの反応だ、と思いやっぱり美味しいんだなと安堵する自分が少しいた。本当に美味しそうに飲むなあと感心しながら私も再び口をつける。…ん?美味しい。さっきよりずっと味がする。甘みも感じられる。
「あれ、さっきより味がする」
「冷えた方が味出てくるからね。飲ませて。…ん、美味いね。甘い。これ、そのまま飲んだら多分相当酸っぱいね」
「確かに甘くなった」
よく分からないがそういうものなのか、となんとなく納得する。「酸味のあるコーヒーはミルクと相性が良い、ミルクと混ざると甘さが出てくる」という知識も彼から受け継いだものだった。コーヒーの話を延々と続けて、カフェを出た。
―私を見ていない彼は一体何を見ているのだろう。洋服屋さんを出て、食品売り場に向かう私は考えていた。振り返ると、私は彼を見ているのに、彼は私を見ていないんじゃないかと不安になる。嘘をついた。不安になれるほど何か期待を彼にできているなら、まだ安心だ。よそ見をする彼に私は諦めのようなものを感じている。思いが伝わらないことを、もう何度だって経験していた。苦しいと言えないことを何度も「どうして」と思った。お刺身を見ながら嬉々とする彼に微笑み、綺麗に並べられた宝石箱のようなお刺身の盛り合わせを彼と一緒に眺めている。今日はお刺身が晩御飯だ。欲しいものや必要なものを選んだ結果5800円にもなった食費も「もうこんなに買うことはないかもしれない」と思うとどうでも良かった。予定よりやっぱり重くなってしまった荷物を抱えて、同じくらいの歩調で帰宅する。今日はまだ合うみたい。
今日は朝食から夕食まで一緒に食べた。一緒に何かしていることが多かった。もしもいつもこうだったら……なんてことも考えたけれど、考えても仕方ないよねとすぐさま思考を正す。そしてやっぱりズレるのだ。映画を一緒に観ていたけれど、私は寝ているあの人がもうすぐ起きる頃だ、とそわそわし始めLINEの画面を頻繁に開くようになる。やっぱりズレてしまっている。映画のエンドロールまで観ることはなかった。そして、私は今この記事を打ち込んでいて、彼はベッドで寝息を立てている。