芸術と認知のはなし
少し前に出ていたとある論文のことを思い出したので噛み砕いて話す。おそらくその人は認知(直訳では神経美学と出た)に関する研究をしている人だったと思う。「思う」というのは、フリーではアブストラクトを確認することしかできなかったのと、英文だったので重要な箇所しか私が抜き出していないからである。以下意訳。
「芸術の普遍性は科学的に見れば、我々の神経系システムが人種や時代関係なく共通することに起因するものであると考えられるが、一方で、芸術の多様性は(芸術作品が多様であるという意味合いも含むが、一つの作品から多くの解釈がなされるということについての多様性もあるかなと読み取った)これらの(おそらく知覚を含む認知機能に関する)神経系が柔軟で、一時的な文脈や目的に調和し、生涯の経験を通して変化し続けることによって生じるものであると考えられる。」
知覚のメカニズムを学んだことがある人にはピンと来る話だが、我々が物を見たり、音を聞いたりするときのメカニズム自体は人間であるからおそらく共通するが、例えば色の見え方というものは人によって差があるし、音高の知覚ではなく、音楽の認知まで広げてみると、それは人間の生得的な感覚と、後天的に経験の中で獲得してきた感覚とが融合してある認知のされ方になっているということが確認されている。単に音高を知覚するよりも、音楽を認知する場合はより高度なことをしており、鑑賞するよりも作曲することはより高度に認知活動を行っているとされていることからも分かるように、芸術鑑賞や創作は認知心理学的には非常に高度な認知活動であるといえるのだ。私には、我々の神経系が「不完全」であるからではなく(そもそも神経系の完全とは一体何を指すのか私には分からない)、非常に柔軟であり、「生涯にわたって変化し続けるものである」からということが非常に重要であるように思える。
録音技術をはじめとする音響関係の技術が発達し、我々が通常指し示す音楽は、多くの場合繰り返し聴ける劣化しない再生可能音楽を指すようになった。その音楽を聴くとき、感じ方が人によって違うのはもちろんだが、時と場合によっても変わるということに注目した人は少なくないだろう。その理由の一つとして今回の認知機能の話を挙げることができる。音楽に特化して話したが、それは絵画を鑑賞する際もそうだろう。我々が芸術を飽きることなく鑑賞できるのは、神経系が柔軟に変化し続けているからだろう。私たちの感性は変わらない部分もあるが、経験によって変わり続ける部分も大いにある。
芸術は心を豊かにするだけでなく、変わり続ける豊かな心があるから鑑賞できるのだ。芸術作品は、我々の心の反映を微細に示す鏡でもある。
参考
Neuroaesthetics and art's diversity and universality
Marcos Nadal , Anjan Chatterjee