モーリス・ドニを観に行った昨日。夕映えの中のマルトの前で立ち尽くした。彼女は、親密な関係の中で許される疲労と憂いを帯びた表情で佇んでいる。ブラウスの柄や花瓶に生けられた生花、額縁に至るまで、薄い夕焼けを丹念にまとっている。夕焼けに包まれた事物の輪郭がぼかされて、それらを薄緑の絵の具で縁取ったようなその絵は、何かを抱きしめたいような、丹念に撫でたいような、あたたかい布にふれたような気持ちにさせる。
ドニの絵は、世界を洗いざらして、午後の光に透過させて、目を細めたらうっすら見えるくらいに透明にして、それから生きている新しい色をつけたように見える。
一面に咲いたコスモスが軒並み同じ方向を向いて風に揺られていた。弾き語りをする人の声が、高音が上がりきらなくて、中途半端に叫んでいるようで、10年前に聴いていた曲を思い出す。
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5年前に見逃した映画を観た今日。
不完全で秩序が欠落した日本の映画が好きだ。
サッカーを観ている90分間と、映画を観ている90分間はまったく別の時間が流れている。
等々力のスタジアムで、胃液まで全部吐き切った身体が、音と動きに集中するのを感じていた。繋がった鋭いパスや、すんでのところでのクリア、回転がかかったシュートが不思議な軌道を描きながらゴールラインを割る、残り何分かを祈るように見守る、そういった瞬間を、あまりにも大勢が息を詰めて過ごす時間を思い出す。
対して今日は、手足が冷え切るのを感じながら、毛布をかぶって、MacBookの画面をじっと見つめて、梟の顔や得体の知れない着ぐるみ、輪になってフォークダンスを踊る男女の姿がぱっぱと脳裏に焼き付いていく。自己をめぐる問いが提起される。
自分の中で色々な時間が始まって、いずれもまだ見ない場所へ繋がっていくような気がする。
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今までの自分が取ってきたであろう言動を、半ば慣性でとってから、今思っていることとは若干の相違があることに気づく。今ここで思っていることを表現する術がまだない。動揺と思索が始まる。まだしばらくは、今起こり続けていることに身を投じたい。雪が降るまで、もう少しだけ。