STI(スバルテクニカインターナショナル)のチーム総監督として、ニュルブルクリンク24時間レースに参戦し続けていた辰己英治氏が、2024年をもって引退を発表した。辰己氏といえば、初代レガシィのシャシー性能開発を率いた人としても知られ、まさに長きにわたってスバルの走りを支えてきた。引退に際して、辰己氏は何を思うのか。東京・三鷹の「STIギャラリー」で話を聞いた。
初出/driver 2024年9月号(2024年7月20日発売)
Eiji Tatsumi1951年4月23日、北海道富良野市生まれ。70年に富士重工業に入社、実験部に配属後、スバル特約店セールス出向を3年間経験。88年には初代レガシィの操縦安定性、乗り心地性能を担当。その後、多くのスバル車の開発に携わった。2003年、スバル技術本部 技術開発部にてスバルの走り先行開発を担当。06年にSTIへ出向、車両実験部長に就任。07年、役職定年により富士重工業を退職し、STIへ転籍。11年、モータースポーツプロジェクト室長に就任、13年にはモータースポーツ統括部プロジェクト室 室長となる。以後、スーパーGTとNBRチャレンジチームでSTI総監督を務め、17年シリーズからはNBRチャレンジに専念してきた。2024年シーズンで総監督を引退。
辰己の“ラストニュル”は見事クラス優勝
6月1日の午後4時(現地時間)から始まった、ニュル24時間レース。SUBARU/STIチームの88号車「SUBARU WRX NBR CHALLENGE 2024」(カルロ・ヴァンダム/ティム・シュリック/佐々木孝太/久保凛太郎)は昨年同様SP4Tクラスに参戦した。が、今年のニュル24時間は不安定な天候に翻弄されっぱなし。濃霧により決勝レースは長時間の中断を余儀なくされ、史上最短となる7時間超で終了となった。
それでも88号車はスタートから4時間後には30台以上を抜き去り、総合で51位、SP4Tクラス優勝。辰己総監督はレースを終えて、「重量も重くハイパワーでもないクルマですが、GT4と肩を並べるくらい速くなったなと感慨深い。STIの技術を使ったパーツがいい仕事をしてくれたのだと思う。耐久性にも自信があったので、できれば24時間走らせてみたかったのですが……。とはいえ悔やむこと、思い残すことはないです」と語った。
何となくスバルだった辰己さんに富士重工(現スバル)入社の経緯を聞いたことはなかったが、辰己さんほどのレジェンドともなればちょっと検索するだけで過去のインタビュー記事などがいくつも出てくる。意外だったのは、特に自動車メーカーを希望していたわけではなかったとか。
「そうですね。何となく入ってしまった感じです。今、例えばニュルにはデメカ(ディーラーメカニック)を連れていくんですよ。彼らは大志を持っている。『私はニュルに行きたくてスバルに入った、ディーラーに勤めてどうしてもニュルに行きたかった。その夢が叶(かな)って最高です』みたいなことを言ってくれます。私は当時、何がしたいとか何も考えていなかったですね」
スバルを選んだのは高校の先生に求人を紹介されたからとか。
「まったくそのとおり。何でスバルだったのかもわかんない(笑)。ただ、先生たちが意外とスバルに乗っていたんですよ。学校にけっこうスバル車がありました。スバル1000とかR-2かな。360もありましたね。学校の先生から『スバルっていいんだぜ』みたいなことを言われたのは、ちょっと覚えています」
出身は北海道の富良野。スバルといえばもちろん4WDだが、レオーネ4WDエステートバンの発売は1972年だ。富士重工入社は70年だから、スバルに4WDの市販車はまだなかったはずである。
「よく覚えていないですけど、高校を卒業して頭がいいわけでもないし、そんなに立派な会社に勤められるとも思ってないし。群馬で試験があったんで行って、受かったぞという話で。じゃ行くかみたいな。
ただ、北海道の富良野で田舎だから、親父もクルマに乗っていたし、家にはバイクやスクーターもあって。だから、まぁクルマ関係がおもしろそうかなという感じで思っていたんでしょうね」
入社して最初の仕事は、いきなり“テストドライバー”だったという。
「まぁテストだからテストドライバーというのかもしれないけど、耐久テストとかね。悪路を走って壊れるとか壊れないとか。あとは排気ガステストとか。昔の排気ガステストは距離を実走していたんですよ。アメリカ向けだったら何万マイルとか実走するんです、テストコースをグルグル。それを認証試験に持っていく。昔はそういう試験をやっていた。今はベンチ、台上試験でやっていると思うんですけど。昔は走る試験がけっこう多かった。とにかく徹夜でひたすら走ったんです。だから走る人がたくさん必要でした。長距離のトラックドライバーみたいなもんで。それもテストコースですからね、グルグルグルグル」
レオーネ、からのレガシィ
辰己さんのその後に道が大きく開けたのは、80年代に入ってから。操縦安定性の研究・実験を担当する部署へ転籍になったのだ。
「自分でモータースポーツをやっていて、ダートラで全日本まで出られました。田島伸博さんとか大井義浩さんとかと一緒にやっていて。成績もまあまあ取っていたからなのか、とにかくお前こっちこいって転籍になったんです。33、4歳くらいだったと思います。当時、レオーネの走りがよくない。それは自分でも体感しているわけです。曲がらないなとか、もっと曲がるようにしたいなとか。自分なりにやっていましたが、それをたまたま仕事でやれるようになったという感じですね」
レオーネは水平対向エンジン、量産車世界初の乗用型4WD、ツーリングワゴンといった独創性で異彩を放っていた。が、84年登場の3代目でも、プラットフォームやエンジンは66年発売のスバル1000がベースのままだった。
「当時、ウチには群馬に1.6kmの小さいテストコースしかなくて。そこじゃ危ないって谷田部(当時の日本自動車研究所テストコース)に行くんですけど、直線が1km以上ある高速周回路を走ったら、(最高速は)実測で130とか140km/hしか出ない。こんな所に来なくていいじゃん、くらいな(笑)。オートマなんか125km/hくらい。そんな時代だったんですよね。レオーネは雪道に強かったけど、世間では乗用車として認められている感じがしなかった」
レオーネを造ることにみんな満足していたわけではないが、お金がない会社だったと辰己さん。だが、旧態依然としたスバル車からの脱却を希求するエネルギーは、社内でマグマのようにたまっていた。
「次のフルモデルチェンジで起死回生、すごいクルマを造ろうという動きが(会社)全体にあって。80年代の真ん中くらいですね。それで操安性の研究・実験部署でも初代レガシィの基礎研究を始めました」
初代レガシィは89年1月、平成時代の幕開けとともに発表された。プラットフォーム、パワーユニット、シャシーなどすべてが完全新設計され、いきなりパワー競争のクラストップに躍り出た。レオーネからの激変ぶりはクルマ好きの度肝(どぎも)を抜いた。
「筑波(サーキット)にレオーネを持っていっても恥ずかしいくらいのタイムしか出なかったのが、(レガシィRSで)12秒台までいって。そんなクルマが当時はまだなかったんですね。ブルーバードが175馬力くらいでデビューして、ギャランが205馬力とか。ウチは最初(性能目標が)200馬力くらいだった。でも、ほかがどんどん出てくるんで、ダメだ、もっと出せと。で、いきなり目標が220馬力になったんです。
そんななかで、サスももっと頑張っていいのを造ろうと。それは先行開発でもいろいろやっていて、クルマが曲がらない原因も少しずつわかってきていました。それを全部織り込んだのが初代レガシィだった。(発表直前に)アリゾナのテストコースで10万km(世界速度記録挑戦)もやって。平均速度220何km/hかな(223.345km/hで当時の世界記録)、みんながウワッ! すごいと。それを成功させてレガシィが89年にデビューしたんですね」
1989年1月にレオーネの後継モデルとして誕生した初代レガシィ。5ナンバーサイズの4ドアセダンとツーリングワゴンに、2Lと1.8Lの水平対向エンジンを搭載したのが始まり。駆動方式はもちろん4WDだ。RSグレードに搭載されたEJ20ターボは220馬力をたたき出し、これは当時クラス最強の出力を誇った。写真は89年9月に追加されたGTグレード。