反則金とは何か、払わないとどうなるか、そこが私のルーツといえる。徹底的に深掘りして1990年、初めての単行本『交通取締りに「NO」と言える本』(恒友出版)を上梓。すぐにテレビから声がかかった。深夜の生放送で司会は蓮舫さんだった。懐かしい。
2000年から警察が情報公開条例・法の対象になり始めた。私は警視庁、警察庁へひんぱんに通い、マニアな警察文書をさまざまゲット。反則金とは何か、何度も何度も書いてきた。今回、そもそもの話から改めてちらっと書いてみたい。
■交通戦争 vs 交通取り締まり戦後の高度経済成長期、自動車が激増した。死亡事故も激増、「交通戦争」と呼ばれた。警察は交通違反を徹底的に取り締まった。警察庁のデータによれば取り締まり件数は、1950年は約50万件。1958年には200万件を超え、1962年には300万件を超えた。
当時、交通違反はすべて「窃盗」や「強制わいせつ」などと同じく刑事手続き(刑事訴訟法による手続き)で処理されていた。「違反は事実か」「事実として処罰すべきか」「すべきとしてどれぐらいの刑罰が相当か」を、取り締まった警察官以外の者、すなわち検察官と裁判官が判断する手続きだ。検察官が不起訴とすることも、裁判官が無罪とすることもある。
だが、交通違反は大量だ。いちいち面倒なことをやっていられない。1954年には「三者即日処理方式」を導入。警察官、検察官、裁判官が1カ所に集まり、違反者を出頭させてさくさく罰金刑とした。即日納付もさせた。1963年には「迅速処理のための共用書式」=違反切符も導入した。それでも死亡事故は増えるばかり。1965年に取り締まり件数は500万件を超えた。このままじゃ検察も裁判所もパンクする!
■反則金制度の誕生そこで1968年7月1日、「第八章」までだった道路交通法に「第九章 反則行為に関する処理手続の特例」を加えた。「交通反則通告制度」が誕生したのである。要するにこういう制度だ。
1、交通違反のうち軽微で定型的なものを「反則行為」とし、その違反者を「反則者」とする。
2、刑事手続きで科される罰金額より若干低額の金銭ペナルティ「反則金」を創設。
3、反則者は、反則金を払えば刑事手続きへ進まずにすむ。違反処理は終了する。
免罪符って聞いたことあるでしょ。「このお札(ふだ)を買えば地獄へ墜ちずにすむぞよ」とかいうやつだ。反則金は「これを払えば刑事手続きへ進まずにすむぞよ」である。免罪符に似ている。反則金を払わず、つまり免罪符を買わず、刑事手続きへ進んで不起訴や無罪になる道も残された。しかし…。
「運悪く捕まっちゃったらしょーがない。金を払えばいいんだろ。払うからとっとと終わらせてくれ。忙しいんだ」
そういう人たちにとっては、反則金は非常にありがたい免罪符だったろう。やがて「反則金の納付は義務だ。納得いかなくても払わねば」と思い込む人が多くなった。反則金の納付率は95%を下回ったことが1度もない。2019年は98.3%だ。
反則金制度が登場する前は「警告件数」のデータがあった。1967年は約610万件。取り締まり件数より多かった。が、1968年に反則金の制度が誕生して取り締まりが爆増。警告件数のデータは姿を消した。
■莫大な反則金収入と事故死者の激減罰金は国庫に入って一般財源の一部となる。反則金は、いったん国庫に入ってから「交通安全対策特別交付金」として都道府県等に交付される。信号機、標識、歩道、歩道橋、ガードレールなど交通安全施設の整備にあてられる。
反則金の納付額は、1968年は約71億円。「これで信号機などは飛躍的に整備される」という趣旨の興奮の報道が当時あった。1969年は約122億円。1971年に200億円を超え、1974年に400億円を超えた。信号機などの整備が飛躍的に進んだ。その影響が大きかったのだろう、事故死者数は1970年の1万6765人をピークにどんどん減った。1979年には8466人へと半減した。
反則金納付額のピークは1987年、前年の約613億円から約1037億円へどかんと増えた。反則金を全体に約1.5倍に値上げし、取り締まり件数を減らさなかったせいだ。その後しばらく800~900億円前後で推移したが、やがて減少カーブを描く。2019年は約502億円だ。
事故死者数は、いわゆるバブル経済の時期に再び増加に転じ、1万人を超えた。「第2次交通戦争」といわれた。が、その後はもう減少の一途。2022年はなんと2610人! それでも2610人もの人が命を絶たれたことは重い。後遺障害を負った人はもっとおいでだろう。けれどもしかし昔と比べれば、2610人にまで減少したのはすごい。
以上を踏まえて、反則金を払わないとどうなるのか、である。免罪符を買わなければ地獄へ墜ちるのか。
次回「
慌てずにすむ反則金の払い方、「青切符」以外に「ピンク切符」も!?」へ続く
文=今井亮一
肩書きは交通ジャーナリスト。1980年代から交通違反・取り締まりを取材研究し続け、著書多数。2000年以降、情報公開条例・法を利用し大量の警察文書を入手し続けてきた。2003年から交通事件以外の裁判傍聴にも熱中。交通違反マニア、開示請求マニア、裁判傍聴マニアを自称。