承前
夏ごろから始まった 庭は夏の日ざかりさんの
ストラヴィンスキーマラソンがよいよ12/22を達成し峠を越えよいよ後半へ向かおうとしてる次第であり、地道に無理のないレヴューと的確な音楽感慨は、この多くの音楽ライターに玄人向けと言わしめている当全集の真の姿を伝えつつある次第にて候。
大袈裟だが、多くの人々がこの全集を聞かんとするときの 道しるべとなるのは確かであり、施是非とも、ストラヴィンスキーの一過言ある方々の、支援も要請していみたい今日この頃にてでもあり候。
さて円海山的今回はその12枚目の中から
当曲エボニーは、1945年に、グットマンとならぶ、アメリカビッグバンド界の巨匠にしてクラリネットプレーヤーのウディ・ハーマンから、彼の楽団へのレパートリーの依頼として成立した契機がありなん。
この頃は戦前のガーシュイン周辺のホワイトマンと彼の楽団による、シンフォニックジャズから一歩進んで、ジャスに中にさらに、近代音楽的語法的を平滑に取り込む、試みとして「プログレッシヴ・ジャズ」の運動が生じており、それらの流れを受けて、その開拓者の、ウディ・ハーマン1945年夏に依頼された次第でありなん。
初演数年後には。依頼者による録音もなされ、さらに再録音はステレオにてエベレストが録音して、数年前に前者はアンダンテの旧自作自演および初期録音集に収録され、後者はエベレスト復刻によりCD化もされ、さらに10年前ぐらいにはフィリップスーにて国内盤でグーゼンスのストラヴィンスキー曲録音とのカップリングで発売もされている次第。
さて 今回の録音(1963/4/25)で、ストラヴィンスキーが自作自演参加させしクラリネット奏者は、ベニー・グットマンであり、いわずと知れた、ジャスの人種を超えた次元でのアメリカでの大衆普及に多大な功績をのこし、その択一な表現能力で「スウイング王」としてここで語るまでのない人物にて候。
そしてこの人物とクラッシック音楽の関連も深く、スイング王としてジャズでの成功の後、イギリスにてクラシックの名手に習い、その後多くのクラシックのクラリネットの曲目を演奏し、その録音も残している次第であり。
その範囲は古典派モーツアルトやロマン派のウェーバーに近代でのニールセン ドビュッシーそして、同時代のコープランド ヒンデミッドに協奏曲そして、バルトークにコントラスツを書かせいる次第でもある。
このクラ音楽への接近も、ハーマンのプログレッシヴより先行なれども、なにかしら、一つのジャンルの発展において潮流として符合し対をなすかのような感慨もあり、それはジャズの方々にお任せするとしてこの辺で、エボニー協奏曲に話を戻すと。
曲は多少スイングするリズムと野蛮な器楽のオスティナートリズム応酬にクラリネットが踊る第一楽章に始まるが、この奔放なセッションにような音楽がストラヴィンスキーが起こした譜面によることを考えると、いかに作曲家がジャスの即興性に着目していたかを思わせ、戦前にエルネスト・アンセルメからのアメリカ土産としてもらった。ラグタイムの譜面を斜め読みしたあたりから始まった「ピアノ・ラグミュージック」そして、小編成のラグタイムに兵士の物語を経て、三楽章交響曲での第一楽章で作曲者自ら語る「ルンバのリズ」などの、各種ジャズ周辺の、通俗音楽の派生要素への適応への試行が、此処に結実している成果たりえるとも思える。(*)
敢えて12-13枚目がこれらを体系的含有しているのはストラヴィンスキーとジャズ周辺の格闘を浮き彫りにするような、小展示のような気の効きようとも愚考セル次第にて候。
そして、モーダルアプローチに和声にブルーノートと前述の即興への感心は、第二楽章の短いブルースにさらに極められ。
さらに変奏曲においての律を定めて、ジャズのおける発展できそうな諸相をスケッチしたかのような、フィナーレの第三楽章は、そのトロンボーンの下品なフィルダウンや、フィルアップするトランペットなどのビックバンドジャズの常套句や、スリーステップの伴奏、そしてストラヴィンスキーの自身語法のオルターネィトバスやリズムがそこに自然発生的に存在していることなど、自らの語法の親和性を示していて、このジャンルがいずれ現代音楽に肉迫する可能性を強く示唆もしている箇所すら所見さるる。
事実その四年後にハーマンはバーンスタインにプレリュードとフーガとリフを書かせるが、あまりに現代語法との親和もあり、彼によってこれは初演されなかった。
国内盤ではこの曲も一緒にカップシングされているがこれは話がそれるのでこの辺で。
*懸命な方々は此処に「ロシア風スケルツオ¥も含まれるのでは思う次第であるが、むしろジャズバンドの音響体としての興味が作曲家にはあり、語法的な試行は一切見受けられないのではという円海山的な見地ゆえご容赦されたし
なお12枚目にあるコンチェルティーノあたりは、ストラヴィンスキーのユニット的裁断的論理による即興的様相可逆をフルに行われており、ジャズの枠にてそれらの論理を抑制する口実に作品成立ハードルを下げているところも伺え、その辺では包み隠すことなく、ピエールブーレーズがグラムフォンとエラートに行った生誕100記念の室内楽録音集にて、斯様に両曲とも録音されている。