週刊文章

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ゴシップはありません。わたくしの日常を綴ります。

人生をマイペースに歩む

今週のお題「自分の好きなところ発表会」

 

私の好きなところ。

それは、マイペースなところだ。

ぼんやり過ごす時間がこの上もなく好きで、そのために何度電車を乗り過ごしてきだろう。

一方で体中に張り巡らされている神経の伝達速度が他人とくらべて遅いんじゃないかと思うほど何をするにも時間がかかる。そのため、周りとの温度差を感じたり、相手をイラ立たせてしまったりといった失敗を犯すこともある。

そして、そういう事態に直面した時には奈落の底に転落していくように激しく落ち込む。そんな凹んだ日は決まってウジウジと悩み続け、「もうどうしようもない」という絶望感に打ちひしがれる。まるで砂漠の荒野をフラフラと彷徨い続ける漂流者のように。

だが、そんな日も悩んで悩んでどうしようもなく眠れない・・ということはない。

ふて寝に近いような眠り方をしてしまうのだが、けっこう睡眠時間も取れている。

そして朝目覚めると、あれほど凹んだ昨日が嘘だったようにスッキリとしている。砂漠の荒野をさまよっていたと思っていた自分がいつのまにかオアシスでゴクゴクと水を飲んでいる。

普段、メリハリのない私にとってそのオンオフの切り替えぶりは驚くほどである。

そんな私だから日常でストレスを抱え続けるようなことはない。

そういえば、最近読んだ本の中で”ストレスは耐えるものではなく、受け流すものである”ということを知った。

なるほど。マイペースな自分は知らず知らずのうちにストレスコーピングできていたのだな。

『マイペース』こそ私のパーソナリティーを支えるものであり、私の処世術そのものなのだ。

40歳を過ぎて今の生活に不満を感じたり、これからの人生に不安を感じたりすることもある。しかし、そんな日々もマイペースに暮らすのが私らしさだと思った。

これからもマイペースで自分らしく人生を謳歌してゆきたい。

ひらがなの可愛いさ

今週のお題「最近見つけたかわいいもの」

 

最近見つけたかわいいもの。

それは、「ひらがな」だ。

正確に言えば、最近になって”発見”したかわいいものなのだが。

最近、『日本語界隈』(ふかわりょう氏と川添愛氏の共著)という本を読んでから日本語の面白さ、奥深さに興味・関心を抱くようになった。

なかでも、ひらがなの独特な効用については興味を惹かれた。

その流れで、ひらがなの"かわいさ"に気づいたというわけだ。

私たちが普段、文章を書くときに用いる言語は漢字、カタカナ、ひらがな、ときどき英語といったところだろう。

これらの言語にはそれぞれ印象の違いがある。ちなみに以下の考察はあくまで私見だ。

カタカナにはなんだかカクカクとしたイメージを持つ。それは鋭く尖って切れ味鋭いナイフや流線型の乗り物を想起させる。漢字は、そこはかとなく硬いイメージだ。それらに対して、ひらがなは丸みを帯びてやさしい感じ。

並べてみると、ひらがなが1番かわいく見えるのだから不思議だ。

では、実験をしてみよう。文章にしてみるとその印象の違いは一目瞭然である。

例文①「今日、料亭に鰻を食べに行った。」

これをカタカナで表記してみると、「キョウ、リョウテイニウナギヲタベニイッタ。」

・・なんか硬い・・。

では、ひらがなで表記してみよう。「きょう、りょうていにうなぎをたべにいった。」

やはり全体的にまるくて穏やかな印象を持つ。料亭、鰻というワードからは洗練された大人といった感じ、敷居が高い印象を持ってしまう。しかし、ひらがなで表記してみると身近で親しみを持ってしまうから不思議だ。

続いては、怖い印象の文章をひらがなで表記するとどう変化するのかみていこう。

例文②「今夜、憎ったらしいあの野郎を殴りに行く。」

「憎」、「殴」は一文字だけ取り上げても恐ろしく感じられることがわかる。

では、カタカナで表記してみる。

「コンヤ、ニクッタラシイアノヤロウヲナグリニイク。」

なんだか脅迫文みたいでこれはこれで怖い・・。それにロボットや宇宙人のような人間ではない何かが喋っているみたいだ。冷酷な殺し屋に狙われる恐怖も連想してしまう。

ひらがなで表記してみると、

「こんや、にくったらしいあのやろうをなぐりにいく。」

内容が内容なだけに怖いのは怖い。だが、全体的にやわらかなフォルムを持った文字の羅列なので、漢字、カタカナとくらべるとその怖さが半減するような気もする。

最後は、ほっこりとした場面を例文として用いてみたい。

例文③「子犬のペロが私の膝の上に横たわり、スヤスヤと寝息を立てている。」

カタカナ「コイヌノペロガワタシノヒザノウエニヨコタワリ、スヤスヤトネイキヲタテイル。」

ひらがな「こいぬのぺろがわたしのひざのうえによこたわり、すやすやとねいきをたている。」

漢字とひらがなを組み合わせた文章は情景が思い浮かびやすく、表現としてはもっとも適格である。カタカナはなんだか読みにくい。ひらがなも読みにくさはあるがほんわかした印象を持つ。言葉や文字を覚えたてのあどけない幼児が書き手となっているようなイメージと相まって、ほんわかとした雰囲気を醸しだしている。


どうだろう。

ひらがなが1番かわいくて見えるのだが、それは私の偏見だろうか。

この考察を通してわたしはひらがなを、そして日本語を大好きになった。

やっぱり本が好き

今週のお題「10年前の自分」

10年前の私は隣の市中心部に住んでいた。

自転車で行ける範囲にTSUTAYAがあり、カフェがあり、ニトリがあり、古着屋があった。当時、ネットで買い物をすることに懐疑的だった原始人の私にとってはとても便利だった。

家から歩いて行ける場所に図書館があるのも便利な環境だった。

この頃から自分の人生における読書ブームが始まり、それは現在に至るまで続いている。読書メーターという本の感想文を投稿するサイトと出会い、投稿を始めたのも同じくらいの時期だった。今思えば、ネットでの買い物は苦手なのに投稿サイトには何の警戒心も持っていなかった自分がなんとも可笑しい。「本を愛する人に悪い人はいない。」と信じきっていたのだろう。

近所にある図書館のおかげであの頃はほんとうに多くの本と出会った。純文学からエンタメまで多く読み漁り、科学系の読み物や政治・経済関連の書籍にも興味を持った。その図書館には赤旗やちょっとマイナーな新聞まで幅広く揃っていてそれらの新聞をナナメ読みできたのも良い体験だった。情報収集するのにインターネットを頼らず、アナログな方法で行っていたところが当時の自分らしい。

娘ともよく一緒に図書館へ通った。当時、娘は2歳。家で読み聞かせるための絵本を借りていた。ぐりとぐらアンパンマンシリーズ、せなけいこかこさとし作品などは子どものお気に入りだった。膝の上に子どもを座らせて絵本を

読み聞かせる時間はとても幸せだった。

今住んでいる場所から図書館までは車で10分ほどの距離になってしまった。だが、週に1回のペースで足繁く通っている。本を読む習慣が続いているのは10年前のあの頃に置かれていた環境のおかげだとつくづく思う。小学生となった娘もすっかり本の虫である。

さらに10年後、自分はどんな本を読んでいるだろう。子どもはどんな本にときめいているだろう。想像するだけでワクワクしてくる。

昼寝の魔力

今週のお題「睡眠」

 

昼間ってなんであんなに眠くなるのだろう。

眠くて眠くてどうしようもなく、まぶたを持ち上げる力が重力に負けてしまう。理性が白旗を上げてしまう、あの瞬間。

背もたれ付きの椅子に腰掛けたり、ソファに寝そべったりしているともう最後だ。

その誘惑にはどうしても抗えない。

だが、かつて抵抗を挑んでみたことはある。

受験生時代には頭に血流を行き届かせるためにはちまきを巻いてみたり、逆立ちをしてみたり、部屋中をグルグルと回ってみたりした。

締め切り間近の仕事を抱えている時にはブラックコーヒーを飲んだり、ガムを噛んだりして眠気を誤魔化そうとした。

だが、そんな小細工はやつには通用しない。

やつは必ずやってくる。

背丈ほどある巨大な鎌を肩にかけ、黒々とした羽を悠々と羽ばたかせながら、睡眠の悪魔は私のもとへ舞い降りてくるのだ。

昼寝とはまさに悪魔との契約。

なぜか後ろめたい気持ちを抱えながらもその誘惑には抗えない。

そして、夜中に眠れなくなるという不良債権を背負わされることになる。

昼間あくびが出たら要注意だ。

その瞬間、確実にやつは背後からヒタヒタと迫ってきている。

そんな時、無駄な抵抗はやめた方がいい。

どうやってもやつには勝てないのだから。

 

「書く」という勉強法

今週のお題「勉強していること、勉強したいこと」

 

大人になっても一応、勉強はし続けている。

そして、今は学生時代と違って自分にとって関心のあること、興味のあることを学ぶ楽しさに気づいた。

わたしは普段、本を読むこと、教養系の番組やyoutubeを観ることが大好きだ。それはそれで自分の興味・関心ある分野について知ることができて有益なのだが、「本を読む」、「動画を見る」だけで終わってしまうともったいない。

そこで、アウトプットを重視している。

アウトプットするというのはインプットによって得た知識を活用することだ。

たとえば、自宅でできるトレーニング方法を学び毎日体を鍛えるとか交渉術について学び営業の仕事で活かす、などがそれに当たる。

アウトプットの方法は多種多様である。

そして、わたしは『書く』ということにフォーカスを当ててアウトプットによる学びを深めるということを意識している。

さて、それでは『書く』ことによって得られる学びとはどういうものだろう。

以下に列挙してみる。

・考える力が身に着く

・コミュニケーション能力が向上する

・インプットした知識が定着する

・ビジネスチャンスにつながる

・紙とペンがあればできるのでコスパがいい


『書く』という行為によって私は成長したい。

 

「90歳。何がめでたい」で有名な作家の佐藤愛子さんは、枕元に紙とペンを置いて寝る習慣があったという。それは、その時に思いついたことやアイデアをいつでも書き留められるようにするためだったそうだ。本当に『書く』ことが好きでないとそこまでのことはできないだろう。また、このエピソードは『書く』という行為がいかに身近な学びであるかということを物語っている。

 

わたしも『書く』ことを楽しみながら勉強し、深みのある人間になってゆきたい。

 

苦味の変化

今週のお題「大人だから」

 

今、振り返れば"子供"と"大人"の境界線ってどこにあったんだろう。20歳という年齢?成人式?・・答えはまだない。

だが、昨年40歳を迎えたこのわたくし。どう考えても、明らかに大人だろう。

 

さて、大人になるにつれて変わるものは多くある。わたしの経験上とくに感じたのは味覚の変化だ。たとえば、小さい頃に苦手だった食べ物が年を重ねるにつれ食べられるようなる。また、逆に小さい頃によく好んだあんこがあまったるすぎ感じられ、食べられなくなった。

わたしが本格的に「大人になったな」と感じたのは、苦味の魅力に気づいた時である。

それはビールしかりブラックコーヒーしかりゴーヤもまたしかりである。小さい頃はただ苦いだけで何の良さも感じられなかった(お酒はハタチからですが・・)。しかし、人付き合いやその場のノリで苦いモノを食す機会が増えるにつれ、だんだんと慣れてゆく。それどころかその苦味の中にあるうま味に気づくようになってゆく。そして、苦味にもさまざまな種類があることを知る。ビールでは苦味に混じり合う泡と香りと炭酸のあの喉越し。ブラックコーヒーでは苦味の中にほのかな甘味や酸味が混じり、深い香りに包まれるとなんだか心がホッとする。安心感や集中力といったオマケがついてくる。ゴーヤは流石に生では食べられない。でも、ゴーヤチャンプルのようにしょうゆの香ばしさと絡み合うと苦味が良いアクセントに感じられる。

そういえば、人生において苦味を感じることもある。社会に出て、いろんな人と出会い、別れ、出会う。思い通りにならないことや歯がゆいこと、しんどいこととも直面する。今まで甘く見ていた理想が苦味を伴った現実に変わってゆく・・・。でも、それは悪いことではないと思う。甘さだけではなく、苦味が加わることでより味わい深くなるのだ。

大人になると味覚が変わる。

わたしは苦味を美味しいものと感じられるようになった。

それは、大人としての深みを増していってるということではないだろうか。

だんだん自分に酔ってきたようなので、この辺りで筆をおくことにする。

 

Web作家になりたい

今週のお題「2024こんな年だった・2025こんな年にしたい」

 

わたしにとって2024年は節目の年だったと言える。

なぜならば、40歳を迎えたからである。

かの世界的ベストセラー『論語』の中で40歳は「不惑」の年とされる。その意味するところは「惑わず」、つまり自分の生きてきた道に自信を持ち、あれこれ迷わなくなるということだ。今の自分はどうだろう。40代に突入した私はあまりのプレッシャーに耐えかね、思わず論語のページを閉じてしまった。

 

さて、少し脱線したが年始の喜び冷めやらぬこのタイミングで2024年の振り返りと2025年の目標を記しておこうと思う。

 

2024年の振り返り

・「書く」をテーマにしてチャレンジと挫折を繰り返した。

・読書は継続中で読書メーターへの投稿数は100/年を超えた。

・一方、ブログの投稿数はわずか3記事のみ。

・Xのはフォロワー数は約200人。投稿は継続できず。

 

2025年の目標:Web作家(自称)としての活動

はてなブログの投稿数50記事/年を目指す。

・Xのフォロワー数500人達成。

ショートショート小説を1作品以上書き、投稿してみる。

 

アウトプットの重要性については日々感じている。そして、「書く」という行為はアウトプットの代表格に位置づけられる。

冒頭にも書いたが、40歳は人生を考え直す大きな転換点となった。特に「書く」ことの重要性は度々実感する。

不惑”だなんてとても言えないような日々を過ごしてきたわたくし。

不惑”の証として少しでも自分の足跡を残したいという心境にあるのだ。

 

そこで、今年は昨年の活動をさらにグレードアップし、文章の書き方について徹底的に学び、SNSを通じて自分の想いを発信していきたい。

主な活動拠点としては、X、はてなブログ読書メーターを考えている。

読書メーターは備忘録のようなものなのだがX、はてなブログに関してはテーマが重要だ。

しかし、まだ掘り下げられるようなテーマは見つかっていない。

自分の色を出すまでには時間を要すことだろう。

まずは何でもいいから自分が伝えたいこと、発信したいことを自由に書き、ゆっくりと自分の色を見つけてゆきたい。

そのやり方がSNSのプロからしたら誤った方法であることは重々承知している。だが、今まで情報をインプットすることに満足し、発信につながらなかった。

 

そんな”変わらない今”を変えたい。

 

何も変わらないのならいっそやり方を変えてみる。どのような形でも良いのでその世界に飛び込み、もがきながらも進むことによって少なくとも全体像は掴めるのではないか。そのような想いで発信してゆきたいのだ。

 

創作にも挑戦してみたい。まず、その入口としてショートショート小説を投稿することから始める。

読書を趣味とするわたしは、今まで多くの小説と出会い、感動をもらった。「今度は自分が感動を与える立場だ。」と気負っているわけでない、しかし、小説の作者を経験することで小説の読み方自体も変わるのではないか。そう思ったのだ。

 

そして、「書く」を続けるためには楽しさを忘れてはならない。

どんなことについてだったら書くことを楽しめるだろうか。書くことで脳内にあるスイッチを片っ端からひねり、新しい自分に出会えたら儲けモンである。

その時の自分は果たして「不惑」にたどり着いているだろうか。日々、新たな扉を開けていきたい。