産科医不足が叫ばれて久しい。当直の多さや訴訟リスクの高さから敬遠され、都心に医師が集中する偏在の問題も深刻さに拍車をかけている。当然の流れとして、地方では分娩の取り扱いを停止する医療機関が相次いで現れている。そんな中、地方でも安心して生み育てられる環境を守ろうと、新しい挑戦が始まっている。その中心となっているのが、公益社団法人地域医療振興協会が2017年に開設した「総合診療産婦人科養成センター」のセンター長、伊藤雄二さんだ。離島や山間へき地で30年以上地域医療を担ってきた産婦人科専門医で、現在は岐阜県恵那市の市立恵那病院産婦人科部長も務めている。妊産婦ケアや分娩にも関わることのできる総合診療医を育て、それを専門医がバックアップするという体制作りを目指し、「地方の産声」を守るために力を注いでいる。
産科医だけに頼り切るのではなく、
総合診療医との連携や助産師のスキルアップを図りながら、
「チームで分娩を担う体制の構築」を目指そうと考えました
◆11年ぶりの産声
JR名古屋駅から在来線で約1時間15分。岐阜県恵那市は、中央アルプス最南端の雄大な恵那山を望む、美しい田園風景の広がる街だ。2017年11月16日、市立恵那病院で一人の赤ちゃんが誕生した。体重2790グラムの元気な女の子。恵那市に11年ぶりに響く産声だった。
人口約5万人の恵那市は、日本各地の地方都市と同様、若者の流出や住民の高齢化、医師不足に悩んでいた。
2007年5月、市内唯一の産科医院が後継者不在のために閉院し、妊婦は隣の中津川市や瑞浪市の産科にかからなければならなくなった。市には当時、産科医院の存続を求め、1万840人分の署名が届けられたという。市はその後、産科開設に向けて努力を続けた。しかし、恵那市のような地方都市で、新たに医師を集めて産科を開設することは、当然のことながら容易ではなかった。
◆合言葉は「チーム恵那」
市立恵那病院は元は国立の療養所で、2003年に恵那市に移譲され、地域医療振興協会が指定管理者として運営に当たってきた。市は協会に産科開設を依頼し続け、そこで白羽の矢が立ったのが、離島やへき地の産科医療に30年以上携わってきた産婦人科専門医の伊藤雄二さんだった。
当時、伊藤さんは地域医療振興協会職員で、群馬県長野原町で協会が運営する西吾妻福祉病院の院長を務めていた。協会から依頼を受けた伊藤さんは病院勤務の傍ら、すぐに準備に取りかかった。
伊藤さんの頭の中には新しい形の産科医療の実現があった。「合言葉は、『チーム恵那』。産科医一人一人に頼り切るのではなく、総合診療医との連携や助産師のスキルアップ、他科との連携を図りながら、『チームで正常妊婦の健診や分娩を担う体制の構築』を目指そうと考えました」
◆地方で深刻さ増す産科医不足
産科医の不足や偏在は、日本各地で起きている。背景には、昼夜を問わない過重労働や、訴訟リスクの高さがあるとされる。
日本産婦人科医会が10年以上前から実施している就労環境に関するアンケート調査(18年度)によると、産婦人科医の1カ月の推定在院時間は288時間。近年の社会問題化により10年前より29時間減少したものの、依然として過労死基準(月80時間の残業)を遥かに超えている。月の当直回数は平均5.6回で、他科に比べて多い。
他の診療科では科を超えた連携で医師一人一人の負担を軽減する動きもあるが、分娩は医師の間にも「特別な世界」という認識があり、専門医の負担が大きくなっているという。
◆「総合診療産婦人科養成センター」発足
こうした状況を改善し、地方での分娩を継続させるために、伊藤さんは2015年、地域医療振興協会の中に自らがセンター長を務める「総合診療産婦人科養成センター」を発足させる。「産婦人科診療ができる総合診療医」を養成する取り組みだ。
そして、その最初の一歩が、総合診療医が産婦人科医療を実践的に学ぶ場を恵那病院に作る「恵那プロジェクト」。総合診療医の専攻医を恵那病院で受け入れ、人材を育てると同時に、実際に恵那市の分娩を支えるチームの一員になってもらうというものだ。
◆リスクに応じた役割分担と連携
「センターの発足は私にとって10年越しの夢でした。『総合診療医によるお産』という発想は日本ではなじみがないため、『専門家じゃなくて大丈夫なの?』と不安に感じる方も多いかもしれません。しかし、妊婦のリスク評価の割合を知れば納得できるはずです。総合診療医が担当するのは、助産師だけでも管理できるリスクの低い妊婦なのです」
伊藤さんによると、妊婦のリスク評価は約75%がローリスク、約22%がミドルリスク、約3%がハイリスクとされる。「ローリスクの妊婦の健診や分娩介助を総合診療医が担えば、産婦人科医はそのバックアップや手術、比較的リスクの高い分娩に専念することができます」
ただ、ローリスクと思われた妊娠の分娩がハイリスクになってしまうことも、もちろんある。伊藤さんは「そうした難しさのためにお産自体が『リスク』だと捉えられ、知識や技術があってもお産から手を引く医師が多いのも事実です」と話す。そうした問題を解消するため、センターでは、単に分娩の知識や技術を持った総合診療医を育てるだけではなく、さまざまなケースのシミュレーションを繰り返しながら、総合診療医と産婦人科医、助産師、他科の医師らが緊密に連携する「チーム体制」を整えることを目指している。
◆目標は年間300例
恵那病院は現在、伊藤さんを含めた産婦人科の専門医2人と、総合診療医を目指す専攻医や他科の医師らが連携し、分娩を支えている。2017年11月の分娩開始から最初の1年間で181例の分娩があり、丸2年が経過する2019年11月末で累計400例を超えた。
恵那病院で扱っている分娩は「ローリスクからミドルリスクくらいまで」という。「例えば合併症があったり、ちょっと血圧が高かったり、赤ちゃんが少し小さかったり。開業医では少し難しいけれど、大きな病院に行くほどでもないという分娩ですね。一方で、それを超えるリスクがあるものは、県立病院などに移送します」
恵那病院では最初の1年間で4人の総合診療医の専攻医を受け入れた。研修期間は数カ月~半年と人によってさまざまだ。伊藤さんによると、産婦人科医療に初めて関わる専攻医でも、2~3カ月後には妊婦を直接診察してリスク評価を行うことができるようになるという。そうなると、伊藤さんら専門医と一緒にディスカッションをし、診療方針を決めていく。
「半年研修すればできることはさらに増えるし、1年も研修すれば、正常なお産には関われるようになります。もちろん、どんな場合でも急変などのリスクに備えなければいけません。それには専門医による十分なバックアップが必要で、そこを私のような専門医が担います」
恵那市の年間出生数は約300人。「現在の体制で、年間300例の赤ちゃんを恵那病院で取り上げることを目標にしています。開設以来、順調に増えてきており、需要の大きさを実感しています」