夏休みの宿題で、子供を苦しめる二大巨頭が「読書感想文」と「自由研究」だ。
漢字/計算ドリルなどは退屈な反復学習かつ大量であるために辛いが、解決方法そのものは明確なので単に「手を動かせば終わる」。しかし読書感想文と自由研究は、やるべきことがはっきり定められておらず「自分でやり方を考える必要がある」ため、悩むばかりで一向に進まない課題となってしまう。
読書感想文の問題点
単に読書の感想を書け、と言われて子供が書く文章というのはおおよそ次のようなものだろう:
「○○を読みました。面白かったです」
もうちょっと工夫するとして、せいぜい「どの場面が」「どんな風に感じられて」面白かったか、ぐらいのものだ。読書の感想としては正しい。
しかし実際に学校が期待する読書感想文の構成は、たとえば以下の教材を見るとよくわかる。
うちの小3生が持っていた読書感想文のテンプレ。今日の昼間に採点していた一般教養の授業の答案(文学部の学生はほとんどいない)の中に、このテンプレで書いたような文章はかなり多かったような気がする。「読書感想文」の呪縛恐るべし。。 pic.twitter.com/LKrOmYKOic
— yujiohara (@yujiohr) 2015, 8月 11
このテンプレートは計算ドリルなどの学習教材を販売する「新学社」のものであるようだ。これを見ると、実際に求めているのが本の感想などではなく「本を引き合いに出して自分の体験を語る」ことであり、「この本から何を学んだか」「どのように意識が変わったか」「今後どのように生きるか」を書かせたいのだ、ということが伺える。
これは完全に「自己啓発」だ。小学生にそんなものを求めるのもどうかと思うが、そもそも「読書の感想」でないのだから正しくそれが理解される名称で呼ぶべきだろう。意図を伝達する方法を学ぶべき国語の課題が最も誤解を招くという自己矛盾について、国語教育は大いに反省が必要だと思う。
こういったテンプレートは、「書けない子供の助けにはなるので一概に否定できない」という向きもある。
しかし、そもそも「何故書けないか」を考えると、「感想文なのに感想を書くだけでは認められない」「思ってもいないことを『思う』ように求められる」ことに問題があると考えられる。
また、テンプレートの利用も含め「こういう内容の作文が良い作文である」と指導してしまうことによって似たような内容の画一的な作文だけが量産されることになるのでは、という危惧もある。
これはあながち考え過ぎということもなさそうで、上に挙げたTweetにも「一般教養の授業の答案の中に、このテンプレで書いたような文章はかなり多かったような気がする」とあるし(個人の感想レベルではあるにせよ)、また作文ではないが絵画指導では「酒井式」という「パーツの描き方や書く順番を指定する」テンプレート式指導があり、画像検索してみると似たような絵ばかりが並んでいるのがわかると思う。本来ならば「書けない子供が書きやすいように」という目的で導入されたであろうテンプレートが、「これに従うのが最良」という認識を(子供にも教師にも)植え付けてしまい、本来なら自由であるべき創造性を削いでいる感がある。
一体、読書感想文の目的とは何なんだろうか。少なくともこの課題が読書と作文を嫌わせる方向にしか作用していないことは明白であり、国語教育としては利点よりも欠点の方が多いのではないかという気がするのだが、たとえば好きな本を紹介する「レビュー」を書かせる、とかでは駄目なんだろうか。面白い本の「どこが面白いのか」を、ネタバレせず、しかし魅力的に伝える、というのは感想文よりも遥かに有意義な作文になりそうな気がするのだが。
自由研究の問題点
自由研究の問題は、読書感想文とは全く逆のものだ:「何のテンプレートもないのでどうすればいいかわからない」。
研究せよ、とは言うが「研究とはどのようなものか」を学ぶ機会は理科教育の中にない。「AするとBになります」ということを先に説明し、実際にそうなるということを確認させるために「実験」を行なう、そこには「仮説を立て、検証の手法を考え、実施する」といった研究の必須要素はどこにもなく、科学がそういうことを積み重ねてきたのだという科学史の紹介すら少ない。
そんな状態で「自由に」研究しろと言われたって、何も思い付かないのは道理だ。
だから昔からの定番は「観察」、見たものを記録するだけで仮説も結論も要らないものになるわけだが、それも(都市部などでは)周囲から自生環境の失われた昨今では難しく、また最近では学校から観察のみの研究を禁じられもするらしい。
必然的に、自由研究の参考書などを見ると実験系の研究が並ぶのだが、いずれもスタート地点としての「経験から生じた疑問」から「仮説と検証手段の考案」をすっ飛ばしていきなり実験を開始しており、(発展的な実験例やレポートの書き方事例などは参考になるものの)研究としてはまったく話にならない。それらは「自由研究を堅実に終わらせるための参考書」であって「研究を学ぶための参考書」ではないのだ。
科学とは「仮説と検証の繰り返し」、そして「そうやって蓄積された検証済み知識」だ。詰め込み型の教育ではどうしても後者のみを、検証の道筋をすっ飛ばして暗記させる傾向があり、実際に理科を暗記科目と認識している人はかなり多い。
考察の前提となる「知識」はもちろん必要だが、それだけに終わってしまっては科学たり得ない。まずは「仮説を立てさせる」ことと「それを検証する方法を考えさせる」ことを理科教育はもっと重視した方がいい。それができて初めて、自由研究は意味のある宿題になる。