追記(2023/10/09):後半を書きました。
はじめに
結論を先に書いておくと、この本を出発点にして日本語の消滅をはじめとした危機言語の問題について論じることはおすすめしません。
危機言語の問題について感心がある方には、代わりにこの後言及する琉球諸語研究の専門家で(も)ある下地理則氏の下記の記事をおすすめしておきます。以前もwebでけっこう話題になったので読んだことがある人もいるのではないでしょうか。
また、山口氏の本には危機言語以外にもいろいろな話題が出てきますが、この本だけから言語学や日本語に関する基本的な知識・情報を得ようとするのもまたおすすめしません(これは後半に書く予定)。この本から適切な情報を切り出すにはある程度の専門的な知識や文献を探して読む力が必要だと思います。私も調べないと分からなくて保留にしている内容もあります。
さいきんは良い本の紹介を優先していたのですが、せっかく通して読んだので、簡単なメモくらいは書いておくことにします。
正直Twitter (現X) で言及したことはちょっと後悔しています。なぜなら私の経験上、こういう非専門家向けの書籍(今回は新書)の問題点について書くというのは手間や労力もかかりますし書き方も難しい上に読んで好意的な印象を持った人からの反発を招くこともあって疲れることが多いからです。
さらに、丁寧な非専門家向けの説明を入れるととても時間がかかりますので、今回はあくまで私の読書メモという感じにしています。読書案内も基本的には付けませんが、私がむかし書いた関連記事に読書案内が含まれているものはあります。
また、この記事で言及するもの以外にも問題がありそうなところはいろいろ見つかります。kindleで気になるところにハイライトを付けながら読んでいたら蛍光ペンを使いすぎてどこが重要か分からなくなった教科書のようになってしまいましたので、すべて列挙するのは諦めます。私が言及した箇所以外の内容は信頼できるとは思わない方が良いです。
もちろん私の方が不正確である可能性もあると思いますので、できれば各トピックについてさらに詳しい方から解説等あると嬉しいです。
全体の印象
参照している文献は基本的なものが多く、議論の出発点になっている引用箇所などはそんなに変に感じることはありません。しかし、そこから展開される議論と導かれる主張・結論に違和感があることが多いです。特に根拠が示されることなく追加される筆者の見解や論理展開に問題があるケースが多いように見えます。
また、研究・調査が進んでいるトピックであるにもかかわらず参照されている文献が古いものだけとか、下で触れる個別のケースでも言及するように文献の参照の仕方に問題がある(都合の良いところだけに言及している)というようなこともあります。
ところで、脚注でWikipediaがかなり参照先として挙げられているのも気になりました。Wikipediaを参照すること自体がダメというわけではなく、専門家によってWikipediaにあるこの内容は信頼できるという明言があるとありがたいとも思うのですが、実際にWikipediaの該当ページを見てみてもその記事のどのような情報を参照したのかよく分からない挙げ方が多いです。
この下から具体的なメモに入ります。なお、kindleの電子書籍版しか手元にありませんので、引用箇所は「章タイトル:小見出し」という組み合わせ方でおおよその場所を示します。
言語と方言の関係、琉球諸語の取り扱い
問題の整理
長くなってしまうが先に問題だと思われる箇所を引用する。まずは「言語」と「方言」の関係に触れながら日本における言語にはどのようなものがあるかというのを整理しているところ。
『エスノローグ─世界の言語─』(Ethnologue-Languages of the World、第24版、二〇二一年)のデータベースには、現在、世界に存在する言語として七一三九種類が登録されています。けれども、大まかに六〇〇〇種類から七〇〇〇種類と考えておくのが妥当な気がします。というのは、言語を数えるのは、ものすごく難しい。一つの「言語」とみなすのか、それとも「方言」とみなして言語数にはカウントしないのか、といった問題が起こることが多いからです。
たとえば、『エスノローグ』の日本の項を見ます。すると、「日本語族」として、次の一二種類の言語が数え上げられています。
日本語、①北奄美語、②南奄美語、③喜界語、④徳之島語、⑤国頭語、⑥沖永良部語、⑦中央沖縄語、⑧与論語、⑨宮古語、⑩八重山語、⑪与那国語。
(中略).
私たち日本人は、これら①から⑪の言語を、日本語とは違った別の「言語」と考えていますか?いませんよね。日本語の中の「方言(琉球方言)」ととらえています。でも、『エスノローグ』では、別の言語としてカウントしています。ですから、『エスノローグ』のデータベースにある七一三九種類という数は、「方言」も「言語」数にカウントされている可能性が高く、割引して考えておくほうが無難だと思えます。
(第一章 おしよせる言語消滅の波:世界にある言語の総数は)
ここまででも長いが、次の部分も合わせた方がより問題点がはっきりする。
ユネスコの調査では、日本で消滅の危機にある言語は「八つ」と指摘されています。「えっ」と驚く方もいらっしゃるでしょう。そこに記されている言語とは、次のものです。
アイヌ語、奄美語、八丈語、国頭語、宮古語、沖縄語、八重山語、与那国語。
奄美語、国頭語、宮古語、沖縄語、八重山語、与那国語は、すでにお話ししたように、日本語の中の「琉球方言」と考えるのが普通です。また、八丈語も、日本語の中の「八丈島方言」です。「方言」だとしても、消滅の危機を迎えていることは間違いありません。
(中略).
方言は、国家という概念ができると、減少する傾向があります。ゆっくりと国家の標準的な言語形態に向かって方言が変化し、消滅していってしまうからです。
方言の消滅に続くのは、より高いレベルの国家語です。つまり「日本語」の消滅です。「日本語」の消滅の恐れさえ、抱かなくてはならない状況になってきたのです。消滅の波は、「方言」から国家レベルの「日本語」にまで、ひたひたひたと音もなく、おしよせてきています。
(第一章 おしよせる言語消滅の波:日本の消滅危機言語)
問題は以下に示すように複数あって整理するのは意外とややこしいように思う。
- 琉球諸語および八丈語を「方言」として取り扱っていること
- その根拠や自分の立場をはっきりとは述べず、読者の感覚などに委ねていること
- 国家(標準語)による方言への抑圧に言及はしていて、琉球諸語や八丈語を「方言」として取り扱っているのに方言に関する具体的な言及がほとんどない
琉球諸語および八丈語を「方言」として取り扱っていることとその根拠(1と2の問題)
「琉球方言」なのか「琉球語」なのかというのは日本語の研究ではよく知られている問題で、山口氏が本書でもしばしば引用している『言語学大辞典』の術語編(1996年刊行)「言語と方言」という項目でも具体的に取り上げられている。そこではどちらかというと方言とする立場が述べられているが、その後日本語からいつ分岐したのかということなどをはじめ研究が進み、現在は「琉球諸語」として取り扱い「日本語」「八丈語」と合わせて「日琉語族」とする考え方が標準的になってきているのではないか。
なお、エスノローグの分類は言語学的な研究でなされるものよりはかなり細かくなっている。琉球諸語の研究内でもいくつかの立場あるようだが、下記の記事でその分類の1つや日本語と琉球諸語の「距離」についても紹介しているので興味のある方は見てみてほしい。重要な箇所は記事内に引用してある。
現在日本語の研究者として琉球諸語を方言とする立場を取るなら、琉球諸語に関する最近の研究(概説書でも良い)を1つでもいいから挙げて「でも自分は方言と考える」と宣言するのがフェアではないだろうか(その是非は別としても)。しかも新書なので想定される主な読者は上述のような研究の状況をまったく知らない非専門家ではないのか。
なお、本書では危機言語に関する文献は複数参照され、2010年代の文献も時折参照されているにもかかわらず、最近の琉球諸語に関する文献はまったくと言って良いほど参照されていない。
個人的には琉球諸語を「方言」と判断することの根拠や自身の立場をはっきりと示さず、読者の捉え方に委ねたり「普通はそうだ」としか述べていないところがより大きな問題ではないかと思う。「日本語の研究では長く方言として扱われてきたので自分もそれを踏襲する」というくらいのことすら宣言していない。
確かに言語(と呼ぶ)か方言(と呼ぶ)かという線引きは難しく、また言語そのものの特徴だけでなく政治的な要因などが関わるということは、言語学概論のような授業の最初の方で出てくるような基本的な話だ。しかしそれは言語の専門家が根拠も示さずに好きなように呼び方や分類を決めて良いということではないだろう。
方言に関する具体的な言及がほとんどない(3の問題)
理由は良く分からないが、本書では日本の「方言」についての言及がものすごく少ない。言語の危機と消滅が主題の本であり、言語と方言の区別の難しさにも「方言」の消滅にも一応言及があるにもかかわらずここまで「方言」を取り上げないのは不自然にさえ感じる。
琉球諸語を「方言」扱いにすることで、「日本の危機言語はアイヌ語だけ」というような結論を出してしまったりもしている。
一九九七年には、「アイヌ文化振興法」が制定され、それをきっかけに、アイヌ語の保護育成活動が起こっていますが、残念ながら消滅危機言語から抜けきってはいません。というわけで、日本での消滅危機言語は、アイヌ語だけと考えていいでしょう。
(第一章 おしよせる言語消滅の波:日本の消滅危機言語)
アイヌ語についてはこの箇所のほかにも弾圧・抑圧の話が具体的に紹介されている一方、「方言」に対する弾圧・抑圧の話はまったく出てこない。なお、沖縄・琉球だけに言及がないというわけではなくそのほかの地域の「方言」にも言及がないのでやはり「方言」への言及を避けているのでないかとしか思えない。
「方言」の話をするのは大変なので便宜的に避けたのかという可能性も考えたのだが、次のような箇所を見るとそうでもなさそうである。
日本人の多くが日本語を「母語」とし、「母国語」とするというのは、極めて恵まれた状態であることを、まずは心にとめておいてください。一国一言語に近い状態にある国は、韓国、北朝鮮、モナコ、バチカンくらいしかないのですから。
(第五章 母語の力を意識する:母語とはなにか)
また、たとえ「便宜的に」というような理由で「方言」への言及を避けていたとしたらそれはそれでひどいというか、言語の危機と消滅を扱う本としては本末転倒ではないかという気がする。
言語の危機と消滅を扱っている本であるにもかかわらず言語の保存・保持・復興に関する活動や言語政策には具体的な言及が少ないのも特徴的である。弾圧・抑圧の方では一応上記のアイヌ語の話のほか、第二次世界大戦時の日本の植民地に対する日本語教育の話や、ほかの国・地域の話などにも言及がある。
下記のように警告している前の部分にマオリ語とハワイ語の言語政策・言語復興について言及があったりはするのだが、
日本人が日本語を守らなければ、日本語は消滅するのです!
(第八章 多様性こそ活性化の源:日本語に自信と誇りを持って)
それなら、現在日本で行われている琉球諸語や各地域方言を対象にした保存・保持・復興に関するさまざまな取り組みに少しくらい言及があっても良いのではないか。
なお、日本語以外の言語に関する言及具合もどうもアンバランスな感じで、ヘブライ語の言語復興についてはこんな言及の具合になるかなという印象だが、「アイルランド語」については、危機的状況と英語の脅威のみが強調されすぎではないかと思える。
アイルランド政府は、この事態を重く見て、アイルランド語の保護復興に力を尽くしているのですが、英語を話したほうが経済的・社会的メリットがあるので、アイルランド語は、学校で学ぶだけの言語になっています。
(第二章 文字はどんな力を持つか:文字があっても、消滅する)
後半の方でも言及がある。
アイルランドの人々が自らの意志でアイルランド語を捨てて英語にのりかえているように、日本人も自ら日本語を捨てて英語にのりかえる人が多くなる可能性があります。
(第八章 多様性こそ活性化の源:絶対に心配はいらない?)
アイルランド政府が頑張っているということは一応述べられているが、実際の言語政策は紹介されていない。また、確かに全体としては厳しい状況ながら話者が日常的に使用している地域もあるのではなかったか。
さらにそのほかの問題
ほかにもいろいろ気になるところはあるのだが、その中から2つ紹介しておく。
まず、言語が「役に立つかどうか」とか「ユニークな特徴を持っているかどうか」ということと、消滅させてはいけないという主張・結論をダイレクトに結びつけている点である。
独自性を持った言語ほど、人類の進歩に役に立ちます。日本語は、粗末にしてはいけない価値を持っている言語です。
(第八章 多様性こそ活性化の源:日本語に自信と誇りを持って)
特に危機言語について「役に立つから守らなければならない」というロジックの危うさについては、上でも紹介した下地氏の記事で説明されているので、ぜひ読んでほしい。
公平のために触れておくと、筆者は言語がその話者集団のアイデンティティにとって重要だという話もしているし、役に立たない言語は消滅しても仕方ないというようなことまで言っているわけではない。
もう1つ気になるのは手話の話が(も)まったく出てこないことである。
なぜそこが気になるのかというと「日本の危機言語」としては、上述のエスノローグでも、ユネスコの方でも手話が挙げられているのである。
山口氏は危機言語のリストについてはユネスコの方のリストを参照していて、本書の脚注に挙げられている下記のページでも日本手話と宮窪手話がリストに入っている(ユネスコのサイトでも確認したがそちらでも挙げられていた)。
また、エスノローグの方では、奄美の古仁屋手話が危機言語として挙げられている。
日本の危機言語の話であり、また日本語(日琉語族)と系統関係がないと認めているアイヌ語にも言及があるのだから、手話をわざわざ外す理由がよく分からない。一応、山口氏が参照したときに手話が載っていなかった可能性はなくはないが、閲覧したとされている日付を見るとその可能性も低そうである。
おわりに
思ったより長くなりすぎたので、一番気になった方言の話だけでこの記事はここまでとします。書き始める前から書いているうちに後から問題が出てきそうだという予感はありました。
おそらく、私よりこの辺りのトピックが専門の方が読むともっとほかにも問題が見つかると思います。
こういう問題点の指摘に対して「一般向けの情報提供に完璧を求めるな」とか「分かりやすさを優先すると正確さが犠牲になるのは仕方ない」といった反応が出ることがあります。それは一般論としてはよく分かって、私がこれまで紹介してきた書籍なども別に完璧なものではありません。この辺りは専門家でもポリシーや基準が異なりますが「さすがに最低限この辺りはなんとかしてほしいライン」があるというのが私の感覚です。