『ウインド・リバー』 暑い夏にお薦めの1本
脚本・監督はテイラー・シェリダン。
この人は『ボーダーライン』の脚本を書いた人で、今回が初監督作品ながら、カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で監督賞を受賞した。
“ウインド・リバー”とは先住民保留区(Indian reservation)の名前。「先住民のために取っておいた土地」と言うといい響きにも聞こえるけれど、実際には先住民であるネイティブ・アメリカンを豊かな土地から追い払い、不毛な土地に移住させたということだ。
実際“ウインド・リバー”には何もない。何もないから地下核施設なんかが作られたりもしているらしい。さらにこの作品の冒頭に描かれるように、この土地はとんでもなく寒い場所らしい。氷点下30度までに下がった夜に外で走ったりすると、肺胞が凍ってしまって血を吐いて死ぬことになる。それほど人が住むには適さない場所ということだろう。
“ウインド・リバー”の広さは鹿児島県くらいとのこと。ちなみに鹿児島県の警察官の人数を調べてみると約3000人くらいらしいのだが、“ウインド・リバー”の警察官の人数はたったの6人。たった6人で真っ当な仕事ができるのかといえばそれは無理な話で、事件などが起きてもうやむやになってしまう場合が多く、ある意味では無法地帯となっているのだ。
人里離れた雪原の上で先住民の少女が死体となって発見される。その少女は雪原の上を裸足で何キロも走ってきたあげく、そこで息絶えたのだ。発見したハンターのコリー(ジェレミー・レナー)はその少女を知っていた。彼女はコリーの娘の親友だったのだ。
事件のために派遣されたFBIはまだ新米の女性ジェーン(エリザベス・オルセン)だった。ジェーンは亡くなった少女ナタリー(ケルシー・アスビル)がレイプされているのを知り、殺人事件として処理しようとするのだが、実際の死因が肺胞の凍結による窒息死であることからそれもできない。結局FBIから応援要員は来ることもなく、ジェーンはその土地をよく知るコリーに援助を頼み、自分たちだけで犯人を見つけようとする。
テイラー・シェリダンの脚本は犯人を捜すミステリーでありながら、先住民保留区の現実を描き、そこに生きる先住民が抱える問題を浮かび上がらせる。不毛な土地に囲い込まれた先住民は何もない場所で鬱屈して生きていくほかなく、ドラッグに逃避する人も多いようだ。
さらに女性たちの置かれた状況もひどいものがある。女性はほかの地域よりも何倍もレイプされる率が高く、先住民の女性が非先住民の人間にレイプされても起訴されないことも多いのだという。
主人公のコリーも半分は先住民の血が混じった娘を、ナタリーと似たような状況で亡くしている。しかし遺体はコヨーテによって食べられてしまったために事件として処理することもできなかったらしい。そんなことがあったからこそ、コリーはナタリーの事件に対して復讐心を燃やすことになる。
テイラー・シェリダンは自分が脚本を書いた3作品を“フロンティア3部作”と位置づけている。これらの作品を観るとこれらフロンティアはある種の無法地帯で、自分の身は自分で守らなければならないという厳しい掟が支配している。
だから『ボーダーライン』で法の遵守と正義の問題で悩んでいたケイトは、何も知らない観客の案内役の役割に留まるほかなかった(ちなみに『ボーダーライン』の続編ではケイトは登場しないようだ)。『ボーダーライン』の真の主人公は殺し屋であるアレハンドロで、彼は妻と娘の仇を討つために行動しているのだ。
『最後の追跡』(劇場未公開だがネットフリックスにて配信中)では、銀行に土地を奪われそうになった兄弟が、それを奪い返すために銀行強盗という手段に出る。ここでのフロンティアとは経済の領域で、たとえば『ドリーム ホーム 99%を操る男たち』のようにリーマン・ショック後に銀行が貧乏人から土地を奪い取っていくという事態が背景にある。
『ウインド・リバー』の世界もそうした無法地帯である。そんな世界で生きていくことは難しい。「死んだ鹿は、弱い鹿」であって、この世界に「偶然はない」というコリーの言葉には厳しいものがある。しかし、コリーには自分の娘を救うことができなかった点で弱者に対する理解がある(コリー自身はハンターとして強者だとしても)。
思えば『ボーダーライン』においてメキシコでの麻薬取引に関わっている警察官のエピソードが意外にも丁寧に描かれているのは、麻薬によって家族を失うことになるごく普通の家族の悲劇を強調するためだろう。そして『最後の追跡』において同情的に描かれるのも銀行に騙される貧乏人だった。テイラー・シェリダンの描くフロンティアは厳しい掟が支配する。そして、それを逞しく生き抜くヒロイックな主人公が居たとしても、テイラー・シェリダンの視線は弱者のほうに向いている。
だから『ウインド・リバー』のコリーは、雪原を何キロも逃亡したナタリーの“強さ”を賞賛するし、FBIのジェーンも壮絶な銃撃戦を生き残ったこと自体が“強さ”なのだとコリーに諭されもする。さらにコリーはドラッグに逃避しているナタリーの兄に対してこんな説教をしていた。「社会は変えられない。だから俺は感情のほうを変える」と。これは先住民が“ウインド・リバー”で生きていくための処世術だけれど、多分、テイラー・シェリダンは「社会を変える」ほうを望んでいるし、この作品を世に送り出すことでそうなることを願っているのだ。
加えて言っておけば、社会問題を声高に訴えるだけではなく、ハラハラドキドキが最後まで続くエンターテインメントとしてもよく出来ていた。ナタリーの死の真相が明らかになる部分の演出も見事だったし、そのあとの壮絶な銃撃戦も見応えがあった。あまり粒揃いとは言えないこの夏の劇場公開作品のなかでは断然お薦めの作品だと思う。
この人は『ボーダーライン』の脚本を書いた人で、今回が初監督作品ながら、カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で監督賞を受賞した。
“ウインド・リバー”とは先住民保留区(Indian reservation)の名前。「先住民のために取っておいた土地」と言うといい響きにも聞こえるけれど、実際には先住民であるネイティブ・アメリカンを豊かな土地から追い払い、不毛な土地に移住させたということだ。
実際“ウインド・リバー”には何もない。何もないから地下核施設なんかが作られたりもしているらしい。さらにこの作品の冒頭に描かれるように、この土地はとんでもなく寒い場所らしい。氷点下30度までに下がった夜に外で走ったりすると、肺胞が凍ってしまって血を吐いて死ぬことになる。それほど人が住むには適さない場所ということだろう。
“ウインド・リバー”の広さは鹿児島県くらいとのこと。ちなみに鹿児島県の警察官の人数を調べてみると約3000人くらいらしいのだが、“ウインド・リバー”の警察官の人数はたったの6人。たった6人で真っ当な仕事ができるのかといえばそれは無理な話で、事件などが起きてもうやむやになってしまう場合が多く、ある意味では無法地帯となっているのだ。
人里離れた雪原の上で先住民の少女が死体となって発見される。その少女は雪原の上を裸足で何キロも走ってきたあげく、そこで息絶えたのだ。発見したハンターのコリー(ジェレミー・レナー)はその少女を知っていた。彼女はコリーの娘の親友だったのだ。
事件のために派遣されたFBIはまだ新米の女性ジェーン(エリザベス・オルセン)だった。ジェーンは亡くなった少女ナタリー(ケルシー・アスビル)がレイプされているのを知り、殺人事件として処理しようとするのだが、実際の死因が肺胞の凍結による窒息死であることからそれもできない。結局FBIから応援要員は来ることもなく、ジェーンはその土地をよく知るコリーに援助を頼み、自分たちだけで犯人を見つけようとする。
テイラー・シェリダンの脚本は犯人を捜すミステリーでありながら、先住民保留区の現実を描き、そこに生きる先住民が抱える問題を浮かび上がらせる。不毛な土地に囲い込まれた先住民は何もない場所で鬱屈して生きていくほかなく、ドラッグに逃避する人も多いようだ。
さらに女性たちの置かれた状況もひどいものがある。女性はほかの地域よりも何倍もレイプされる率が高く、先住民の女性が非先住民の人間にレイプされても起訴されないことも多いのだという。
主人公のコリーも半分は先住民の血が混じった娘を、ナタリーと似たような状況で亡くしている。しかし遺体はコヨーテによって食べられてしまったために事件として処理することもできなかったらしい。そんなことがあったからこそ、コリーはナタリーの事件に対して復讐心を燃やすことになる。
テイラー・シェリダンは自分が脚本を書いた3作品を“フロンティア3部作”と位置づけている。これらの作品を観るとこれらフロンティアはある種の無法地帯で、自分の身は自分で守らなければならないという厳しい掟が支配している。
だから『ボーダーライン』で法の遵守と正義の問題で悩んでいたケイトは、何も知らない観客の案内役の役割に留まるほかなかった(ちなみに『ボーダーライン』の続編ではケイトは登場しないようだ)。『ボーダーライン』の真の主人公は殺し屋であるアレハンドロで、彼は妻と娘の仇を討つために行動しているのだ。
『最後の追跡』(劇場未公開だがネットフリックスにて配信中)では、銀行に土地を奪われそうになった兄弟が、それを奪い返すために銀行強盗という手段に出る。ここでのフロンティアとは経済の領域で、たとえば『ドリーム ホーム 99%を操る男たち』のようにリーマン・ショック後に銀行が貧乏人から土地を奪い取っていくという事態が背景にある。
『ウインド・リバー』の世界もそうした無法地帯である。そんな世界で生きていくことは難しい。「死んだ鹿は、弱い鹿」であって、この世界に「偶然はない」というコリーの言葉には厳しいものがある。しかし、コリーには自分の娘を救うことができなかった点で弱者に対する理解がある(コリー自身はハンターとして強者だとしても)。
思えば『ボーダーライン』においてメキシコでの麻薬取引に関わっている警察官のエピソードが意外にも丁寧に描かれているのは、麻薬によって家族を失うことになるごく普通の家族の悲劇を強調するためだろう。そして『最後の追跡』において同情的に描かれるのも銀行に騙される貧乏人だった。テイラー・シェリダンの描くフロンティアは厳しい掟が支配する。そして、それを逞しく生き抜くヒロイックな主人公が居たとしても、テイラー・シェリダンの視線は弱者のほうに向いている。
だから『ウインド・リバー』のコリーは、雪原を何キロも逃亡したナタリーの“強さ”を賞賛するし、FBIのジェーンも壮絶な銃撃戦を生き残ったこと自体が“強さ”なのだとコリーに諭されもする。さらにコリーはドラッグに逃避しているナタリーの兄に対してこんな説教をしていた。「社会は変えられない。だから俺は感情のほうを変える」と。これは先住民が“ウインド・リバー”で生きていくための処世術だけれど、多分、テイラー・シェリダンは「社会を変える」ほうを望んでいるし、この作品を世に送り出すことでそうなることを願っているのだ。
加えて言っておけば、社会問題を声高に訴えるだけではなく、ハラハラドキドキが最後まで続くエンターテインメントとしてもよく出来ていた。ナタリーの死の真相が明らかになる部分の演出も見事だったし、そのあとの壮絶な銃撃戦も見応えがあった。あまり粒揃いとは言えないこの夏の劇場公開作品のなかでは断然お薦めの作品だと思う。