2017年06月のバックナンバー : 映画批評的妄想覚え書き/日々是口実
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『ありがとう、トニ・エルドマン』 何事にも時間は必要

 監督・脚本は『恋愛社会学のススメ』などのマーレン・アデ
 この作品は長編第3作目で、アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた。
 ちなみに引退を表明していたジャック・ニコルソンは、リメイク版で“トニ・エルドマン”というタイトルロールを演じるとのこと。引退を撤回するほどこの役柄が気に入ったらしい。

マーレン・アデ 『ありがとう、トニ・エルドマン』 最後に登場する謎の生物?

 この作品のキモとなっているのは父親のキャラクターだ。異国で働く娘イネス(ザンドラ・ヒュラー)が心配なあまりカツラと入れ歯をつけて“トニ・エルドマン”という別人のフリをして娘につきまとう。娘には当然バレバレなのだけれど、それを意に介する様子もなく冗談を言ってばかりいる。
 この父親=トニ・エルドマン(ペーター・ジモニシェック)は作品の冒頭から意味不明な行動で人を混乱させる。宅配便がやってくるとわざわざ一度引っ込んで別の服にまで着替えて双子の弟という役柄を演じてみせる。そうした行動は彼が「冗談だ」と明かすまでまったく意図がわからないため迷惑この上ないのだ。
 町山智浩によれば「オヤジギャグ」という言葉は世界共通で、どの国でも似たような言葉があるとのこと。トニ・エルドマンの「オヤジギャグ」もほとんど笑えない代物で、場の空気を微妙なものにし、周囲の人々を苦笑いさせることになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『ありがとう、トニ・エルドマン』 イネス(ザンドラ・ヒュラー)とトニ・エルドマン(ペーター・ジモニシェック)。娘がクスリをやっているのを見て冗談で逮捕するものの……。

 マーレン・アデの前作『恋愛社会学のススメ』では、風変わりな女と将来性はあるけれど嫌な男というふたりの関係を描いている。男女の繊細な部分を描いていくのだけど、男と女だけにその関係性は「好きか嫌いか」「くっ付くか離れるか」というあたりに収束していくことになる。
 それに対して『ありがとう、トニ・エルドマン』は親子の関係だけにもっと微妙な関係性を見ていくことになる。イネスは大事な仕事を抱えていて父親の相手ばかりもしていられないし、一方の父親としては仕事に忙殺されて人間性を失いつつある娘のことが心配で堪らない。とはいえトニ・エルドマンはイネスのことを言葉で説得したりするわけではなく、ただ笑えない冗談を連発しながらつきまとい続ける。しかもこの作品はそれが162分という長い時間続くことになる。

 映画の終盤、自らの誕生パーティーの場面でイネスに変化が訪れる。ケータリングで食事や飲み物も用意し、すべての準備が整ったところで、イネスは着飾っていた服を脱ぎ始めて勝手に「全裸パーティー」という設定にしてしまう。それまで真面目一辺倒だったイネスが唐突に脱ぎ始めるのには飛躍があるようにも感じられるのだけれど、ここまですでに2時間以上もトニ・エルドマンの冗談に付き合ってきた観客としては、何となくわかるような気もしないでもない。
 実はその前にはイネスがホイットニー・ヒューストン「Greatest Love Of All」を熱唱する場面がある。これはトニ・エルドマンがイネスに無理に歌わせたものなのだけれど、その歌詞はイネスに対するメッセージともなっていて感動的なエピソードともなっている。しかしイネスはその段階ではそれを素直に受け取ることができずに逃げ出してしまう。多分、そのためには時間が必要だということなのだ。

 トニ・エルドマンの冗談は日常に裂け目を生じさせるほどのインパクトはないけれど、イネスが働く企業社会の張り詰めた空気を一瞬緩ませる程度の影響力はあったということかもしれない。懲りもせずにイネスにつきまとい、企業の論理とは別の何かを見せられているうちに、イネスの心のなかにも次第にトニ・エルドマンのようにユーモアを忘れない生き方が浸透していき、それが一気にパーティーの場面に表れたということなのだろう。
 トニ・エルドマンが結局イネスに何をしてくれたのかはよくわからないのだけれど、常にそばにいてくれるというそのことだけで半ばはウザいと思いながらも、イネスは失いかけていたものと取り戻すことになったのだ。162分という時間は、イネスの心にトニ・エルドマン的な何かが染みこんでいくために必要な時間だったのだろう。
 絶妙な間のとり方がこの作品のテンポを生み出していて、意外にも上映時間の長さはそれほど感じなかった。終盤の予想のつかない展開は笑わせるし、説教臭くもならずにちょっと感動的な部分もある。それでも観客に媚びて泣かせにかかったりしないというのも潔くていい。

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Date: 2017.06.28 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (7)

『ドッグ・イート・ドッグ』 ボギー!俺も男だ

 『タクシー・ドライバー』の脚本などで知られるポール・シュレイダーの監督作品。
 タイトルは同業者同士の潰し合い(共食い)のことだとか。

ポール・シュレイダー 『ドッグ・イート・ドッグ』 トロイ(ニコラス・ケイジ)とマッド・ドッグ(ウィレム・デフォー)のふたり。

 出所したトロイ(ニコラス・ケイジ)は刑務所内で知り合ったマッド・ドッグ(ウィレム・デフォー)とディーゼル(クリストファー・マシュー・クック)というふたりと再会する。3人は長らく刑務所にいたらしく、どうにも娑婆の空気とはズレている。マトモに生きる術を持っているわけもなく、3人で裏家業の仕事に手を出すことになる。
 最初にやった仕事でたまたま金を稼いだものの、それぞれ女と楽しもうと意気込んでみたものの何だかんだでうまくいかない。そうこうしているうちに金もなくなり新しい仕事に手をつけることになるのだが、この仕事は赤ん坊の誘拐で最初から嫌な予感がしているようにロクでもない展開になっていく。

 ※以下、ネタバレもあり!

『ドッグ・イート・ドッグ』 冒頭のシーン。ピンク色のファンシーな部屋にウィレム・デフォーという違和感。今回も脇役だけれどインパクトあり!

 タイトルからするとニコラス・ケイジとウィレム・デフォーが潰し合うのかと思っていたのだが、刑務所仲間の3人の男たちが自滅していくという話だった。といっても3人がカッコよく散るわけもなく、ブラックコメディの味わいの作品だった。
 冒頭、ピンクの部屋のなかにラリっているマッド・ドッグが登場してくるという「違和感あり」のシーンからして、生きる時代と場所を間違えてしまったかのようにも感じられる。おかしいのは3人が自分のことを悪党だとはまったく思っていないこと。マッド・ドッグは何人も殺しているくせに未だにやり直せると考えていて、仲間のディーゼルに泣きついてみたりもする。マッド・ドッグは本気なんだろうと思うのだけれど、傍から見ている者にとっては悪い冗談にしか思えない。悪党には報いがあるはずで、彼らは坂を転がるように堕ちていくほかない。
 ニコラス・ケイジ扮するトロイは映画ファンでハンフリー・ボガート好きという設定。この作品内でもトロイはボガートっぽくカッコつけて見せることになるわけで、『ドッグ・イート・ドッグ』の3人はボガートが悪役を演じた『必死の逃亡者』のキャラとどこか似ていなくもない。ボガートを真似てもやっぱり悪役になってしまうところがトロイという男の哀しいところだろうか。ラストで闇のなかに浮かぶダイナーからのエピソードはデヴィッド・リンチの映画を思わせた。

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Date: 2017.06.25 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (5)

『セールスマン』 もやもや感がクセになる?

 『別離』『ある過去の行方』などのアスガー・ファルハディの最新作。
 アカデミー賞では『別離』に続いて二度目の外国語映画賞を受賞した。

アスガー・ファルハディ 『セールスマン』 『彼女が消えた浜辺』でも共演しているタラネ・アリドゥスティとシャハブ・ホセイニが主演。

 夫婦が新しく引っ越した家で、ある事件が起きる。妻のラナ(タラネ・アリドゥスティ)は夫のエマッドが帰宅したと勘違いをし、玄関の鍵を開けてしまうのだが、実は訪ねてきていたのは別の男で、ラナは頭部にケガを負うことになる。
 その事件によって夫婦の関係もぎくしゃくしてくる。夫のエマッド(シャハブ・ホセイニ)は事件を警察に届け出ることを望むが、ラナはそれを承知しない。警察が入れば事件について詳細を語らなければならないことになるし、イラン社会では女性が性犯罪に巻き込まれると被害者である女性自身にも落ち度があったとされる傾向があるからだ。事件後のラナはひとりでいることを怖がるようになり、襲われた浴室を使うことも拒否するようになる。エマッドはそんなラナの姿を見て独自に犯人を捜すことになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり! 結末についても触れているので要注意!!


『セールスマン』 劇中劇の『セールスマンの死』での扮装。ふたりが演じるのは演劇内でも夫婦。

 上記では“性犯罪”としているのだけれど、作品内ではその部分の描写はないために詳細は不明だ。実際に作品内で語られているのは、ラナがシャワーを浴びている最中に侵入してきた男によってケガを負わされたということだけだ。映画評論家の文章なんかにもこの事件を“レイプ”とまで書いているものもあるのでちょっと驚いたのだけれど、私にはそうとは思えなかった。
 というのは、事件の犯人である男は病気持ちの老人だからだ。しかもエマッドが犯人と相対したときにこだわっていたのは、「浴室に入ったのか否か」という部分だ。エマッドが気にしているのは「妻の裸を犯人の男が見ていたか否か」ということなのではないか(ケガを負わされたという恨みもあるが)。エマッドがレイプすら疑っていたのだとしたら、「浴室に入ったか否か」など問題にならないことだからだ。
 イランのようなイスラム社会では、女性は顔と手以外を隠すことになっている。そんな社会では裸に対する禁忌の念も大きいのではないだろうか。かといってイスラム社会の人たちだって性的欲求はあるわけで、実際に犯人の男が売春婦との長年の付き合いがあったことが伏線ともなっている。

 イスラム社会の禁忌には日本とか欧米諸国からすると厳格すぎるようにも感じられるところもある。作品内で同時進行する演劇『セールスマンの死』では、裸の女性を実際に裸では登場させることができない滑稽さが描かれている。イスラム社会でそんなことをすれば、舞台自体が上映できなくなってしまうのだろう。そのためにその裸役の女性はなぜか真っ赤なトレンチコートを着ることになる。
 『セールスマンの死』はアメリカ演劇の代表的な傑作とされている作品だ。当然イランにおいてもそうした評判は届いているけれど、イランでそれをやろうとすると様々な制約があるということになるだろう。
 ちなみに『セールスマンの死』では、かつては父親ウイリーを慕っていたビフがある出来事がきっかけとなり、父親のことをインチキ呼ばわりすることになる。その出来事というのが、ウイリーが出張先のホテルで女と会っていたところへビフが訪ねて行ってしまったという場面。映画『セールスマン』のなかで真っ赤なトレンチコートの女が登場してくる場面だ。ビフはそれまで崇めていた父親ウイリーに幻滅することになるのだ。
 このウイリーの姿と重なってくるのは舞台でそれを演じるエマッドでもあるけれど、同時に事件の犯人である老人でもある。老人は娘の結婚を間近に控えた家庭人であり、35年も妻と仲睦まじく暮らしてきた男だ。しかしそれは表の顔であり、こっそり売春婦とも会っていたという隠された一面もあるわけだ。
 ウイリーがビフに浮気を知られ父子の関係がぎくしゃくしてしまったように、犯人の老人もそんなことがバレたら身の破滅であることは間違いない。エマッドは老人のすべてを家族に晒そうとするが、ラナは老人の不憫な姿を見てそんなことはさせられないと思うのだが……。

 アスガー・ファルハディの作品は謎によって観客の興味を惹きつける。この作品でも一応は犯人捜しによって物語を引っ張っていくわけだけれど、犯人が見つかったからといってすっきりと物事が解決するわけでもない。
 この作品で浮き彫りとなってくるのはイラン社会の矛盾のようなものなのだろうと思う。エマッドたちは欧米の演劇作品に取り組みながらも、表現の自由があるとは言えない状況がある。それでいて『セールスマンの死』の舞台がイランでも受け入れられるというのは、ウイリーのような男のことがイランの人たちにも理解できるからだろう。誰もが清廉潔白であるわけではないからだ。しかしイスラム社会では『別離』でも描かれたように、シャリーアという法体系が道徳的規範ともなっている。その厳しい規範においては「誰もが清廉潔白であれ」と求められているのかもしれないのだけれど、現実にはそうもいかないのが当然なわけで……。何とも説明が難しいのだけれど、あれかこれかという葛藤へと登場人物を導く脚本がいつもながらうまいし、やはり見応えがある作品となっていたと思う。

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Date: 2017.06.18 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (5)

『武曲 MUKOKU』 命懸けの剣の道

 『海炭市叙景』『私の男』などの熊切和嘉監督の最新作。
 原作は藤沢周『武曲』

熊切和嘉 『武曲 MUKOKU』 矢田部研吾(綾野剛)と羽田融(村上虹郎)。ふたりの対決の物語。

 父親から仕込まれた剣の腕前でその父親を植物状態へと追いやった矢田部研吾(綾野剛)と、荒削りだが天賦の才を見せる羽田融(村上虹郎)。そんなふたりの対決の物語。
 研吾の父親・将造(小林薫)は剣道を精神的な修練やスポーツの類いとは考えておらず、斬るか斬られるかという命のやり取りとして考えている。武士でもないのにそんなことを考えるのは、将造が「剣の道を極め国家に尽くしたい」と励んできたにも関わらず、現実社会では報われていないという屈折した思いがあるからで、息子に剣を仕込んで本当の殺し合いをしたいと願っているかのように見える。一方の羽田融はラップにはまっている高校生なのだが、ひょんなことから剣道を始めることになり、次第に研吾との対決を望むようになっていく。

 ※ 以下、ネタバレもあり!


『武曲 MUKOKU』 クライマックスは雨のなかでの剣での闘い。『私の男』みたいにまた血(泥)のような雨も降ってきた。

 私は一応剣道の経験者なのだけれど真剣にはさわったこともないし、剣道は実際の真剣勝負とはまったく違うものだとも聞く。だから剣道は武道ではなくスポーツだとも揶揄されたりもするらしい。真剣では刃を引かなければ斬れないものらしいのだが、剣道では竹刀を当てることがポイントになるというもので、剣道の鍛錬が真剣勝負の練習となるのか否かはよくわからない。そんなわけで剣道をやる人が常に命のやり取りをしているわけもなく、剣道部は極めて健全な場所だったように記憶しているので、『武曲 MUKOKU』の研吾や融が防具もなしに木刀で打ち合ったりするのは狂気の為せる業ということになるだろう。
 どちらかと言えば研吾の狂気はわかりやすい。研吾に関しては将造との対決も描かれるし、その後の酒浸りの日々や剣道部での大暴れなども丹念に追われるからだ。一方でラップから剣道へと鞍替えすることになる融のほうはわかりづらい気もする。
 融を剣の道に導くことになる光邑師範(柄本明)はお坊さんという設定で、禅の用語がいくつも登場する。「不立文字」「直指人心」「『心』以前の心」といった用語は、どれも言葉では伝えられない何かを含んでいる。そのあたりがラップで韻を踏むリリックを書くことを趣味としていた融とつながるのだろうとは思うのだけれど、作品内では融の内面までに踏み込んでいかないのではっきりとはしない。ただ融は洪水の被害で一度死に掛けたというトラウマがあり、一度は死に近づいた融がタナトスに魅入られたようにして研吾との対決を望んでいくことになる。
 そんな意味ではふたりの関係はアンバランスにも思えるのだけれど、この作品は最後のふたりの対決という一点に向かって強引に展開していく。言ってみればふたりを対決させるためにこの作品はあり、設定の強引さなんてどうでもいいのだろう。
 実際に豪雨のなかでの対決シーンは、役者ふたりの心技体のすべてにおいて頂点となっていたんじゃないだろうか。闘い方もカンフー映画の剣術めいたものにはなっておらず、決定打が“突き”だというのも剣道らしくてよかったと思う。

 対決に向けてすべてが収束していったわけだけれど、物語にはその先がある。命懸けの対決をしたふたりは憑き物が落ちたように真っ当な剣道部員としての稽古を開始することになるからだ。つまりは狂気からの快復、あるいはトラウマの克服といった物語になっているのだ。
 原作小説は読んではいないのだけれど、「武道系部活小説」とか評している人もいるようで、映画版の狂気とはちょっと違う味わいになっているのかもしれない。原作小説では続編すら書かれているらしいのだけれど、健全すぎる剣道部映画なんてあまり興味を惹くとは思えないし、このアレンジでよかったんじゃないかとも思う。

 主役の綾野剛『日本で一番悪い奴ら』では堕ちていく男の悲哀を感じさせたが、今回の作品でも酒に溺れて涎まみれの酷い姿を晒しつつ、最後にはそこから復活して精悍な姿を見せ付ける。復活後の上半身の筋肉のつき方が尋常ではなく、カメラもそれをなめ回すように撮っている。ゲイ役だった『怒り』でも裸になっていたけれどあのときは特段目立つものではなかったわけで、いつの間にあんな身体を作り上げたのだろうかと感心。
 近藤龍人の撮影は将造の幼い研吾に対するしごきの場面などの枯れた色合いは味があったし、薄暗い日本家屋の奥から捉えた庭の緑の鮮やかさも素晴らしかったと思う。
 男同士の対決に女は邪魔とでもいうのか、女優陣に対する扱いが結構雑で、前田敦子も顔出し程度のほとんど意味のない役だったりもするのだけれど、個人的には片岡礼子がチョイ役でも登場していたのは嬉しかったところ。橋口亮輔作品にいつも顔を出していた片岡礼子だけれど、『恋人たち』には出ていなかったようなので……。

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Date: 2017.06.12 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『20センチュリー・ウーマン』 “ジャズの時代”と“パンクの時代”のすき間

 『人生はビギナーズ』『サムサッカー』マイク・ミルズ監督の最新作。
 原題は「20th Century Women」

マイク・ミルズ 『20センチュリー・ウーマン』 劇中のアビーの写真論から生み出されたポスターだろうか? とってもシャレている。

 マイク・ミルズの前作『人生はビギナーズ』は父親のことがモデルで、今回の『20センチュリー・ウーマン』では母親のことをモデルにしている。一応の主人公はジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)という15歳の少年なのだが、タイトルにもあるように“20世紀の女性たち”の姿が描かれていくことになる。
 そのひとりはジェイミーの母親ドロシー(アネット・ベニング)で、もうひとりは間借り人のアビー(グレタ・ガーウィグ)で、加えて近くに住むジェイミーの幼なじみジュリー(エル・ファニング)もいる。舞台は1979年のサンタバーバラで、ジェイミーは3人の女たちに様々なことを学んでいくことになる。

 母親のドロシーは60年代半ばに40歳でジェイミーを産んだ。その年齢差はきっちり40年であり、音楽の流行りから言うと“ジャズの時代”と“パンクの時代”ほどの差があることになる。パンク世代の若者にはジャズがかったるく感じられ、ジャズ世代のくたびれた大人にはパンクはうるさくてヘタなだけにしか感じられない。その差は結構大きいのだ。だからドロシーはジェイミーのことを理解できないかもしれないと心配し、ジェイミーの人生の指南役にアビーとジュリーを指名することになるのだが……。

 ※ 以下、ちょっとネタバレもあり!

『20センチュリー・ウーマン』 アビー(グレタ・ガーウィグ)とジュリー(エル・ファニング)。

 前作の『人生はビギナーズ』にしても、本作にしても起承転結のはっきりとした物語があるわけではない。マイク・ミルズは語るべきテーマから物語を構築していくスタイルではなく、近しい人をモデルとしたキャラクターの造形のほうが優先されるようだ。
 ドロシーはマイク・ミルズの母親がモデルとなっているし、アビーとジュリーのキャラはふたりの姉がモデルとなっているようだ。エル・ファニングの演じたかわいらしい等身大の女の子ジュリーも、グレタ・ガーウィグが演じたがんを恐れるパンキッシュな赤い髪の女アビーも、どの人物も類型的なキャラに収まっていないように思えた。
 そうして生まれたキャラクターが、それと分かちがたい時代背景と一緒になって作品を構築していく。『人生はビギナーズ』では年老いた父親がゲイであるとカミング・アウトするという設定のため同性愛界隈の動きが背景になってもいたし、『20センチュリー・ウーマン』では主人公を取り巻くのが女たちということもあってフェミニズムの動きなんかも背景となってくる。

 そんなドロシーの試みは結局のところ失敗に終わることになる。というのは、ジュリーは夜な夜なジェイミーのベットにもぐり込むほど親しいのだけれど、それ以上は“おあずけ”という拷問でジェイミー翻弄するばかりだし、アビーのフェミニズムの教えはあまりに急進的すぎてドロシーを戸惑わせることになるからだ。人生は一度きりで、誰にとってもビギナーであることに変わりはないという点では前作と同じだ。子育てだってわからないながらも自分なりに試しながらやっていくほかないということなのだろう。
 とりたててカタルシスがあるわけでも、ほろっとさせるというわけでもないのだけれど、そのセンスのよさで見せてしまうといった印象。劇中でもパンクはパンクでもハード・コアなブラック・フラッグとかではなく、トーキング・ヘッズのような「いけすかないアート野郎(Art Fag)」のほうを擁護していたが、それがマイク・ミルズのセンスなのだろう。トーキング・ヘッズほどクセのある感じはしないけれどとてもシャレている。

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   ↑ 先ごろ亡くなったジョナサン・デミ監督のトーキング・ヘッズのライヴ作品。

Date: 2017.06.08 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『光』 映像を言葉にすることの難しさ

 『あん』『2つ目の窓』など河瀨直美の最新作。
 映画の“音声ガイド”という珍しい仕事を取り扱った作品。

河瀨直美 『光』 カンヌ国際映画祭ではエキュメニカル賞を受賞した。


 映画の“音声ガイド”の仕事をしている美佐子(水崎綾女)は、その仕事で弱視のカメラマン・雅哉(永瀬正敏)と出会う。美佐子の仕事に対して遠慮なくズケズケと意見を述べる雅哉に苛立ちつつも、美佐子は雅哉のことが気にかかるようになり……。

 映画の音声ガイドとは、視覚障がい者の人に映像を伝える仕事。音声ガイドは登場人物の動作や舞台となる場所の情景を言葉にして伝えていく。『光』では、音声ガイドの仕事ができあがっていく過程を追っていくことになるのだが、普段あまり触れる機会のないこの仕事に注目したところがよかったと思う。
 映画作品はまず最初に脚本という言葉で書かれたものがあって、それを元に映像化したものが生み出される(言葉⇒映像)。音声ガイドはその逆に、出来上がった映像を再び言葉に直して再構築することになる(映像⇒言葉)。
 そんなわけだからブログで映画の感想をしたためたりしている人にとっては、映像から言葉をつむぐという点では何かしらの共通点を感じるんじゃないかと思う。音声ガイドは映画作品と視覚障がい者をつなぐ役割を果たしているわけだけれど、こうした映画ブログも映画作品をまだ観ていない人とつなぐ役割をしている部分もあるからだ。もちろん映画ブログは宣伝や紹介ばかりではないわけで、好き勝手な解釈を述べ立てるというものもある(このブログはどちらかと言えば後者)。
 しかし音声ガイドはそうした主観が交じってしまってはいけないという点が難しいところ。それでは押し付けがましいものになってしまうからだ。見えている音声ガイドが、見えない視覚障がい者に自分の見方を一方的に押付ける。これでは作品の豊かな世界が音声ガイドによって矮小化されてしまうかもしれないのだ。

河瀨直美 『光』 主人公・美佐子(水崎綾女)は音声ガイドの仕事をしている。クローズアップに勝ち気そうな表情が映える。

◆映像と言葉
 映像と言葉では情報量が違う。そんな意味のことを村上龍だか誰かがどこかで言っていた。これは比喩でも何でもなく、端的に記録媒体に保存するときの容量の話だ。たとえば一番上に貼り付けたこの作品のポスター映像であるJPEGファイルは約45キロバイトの容量だが、このレビューのすべての文字をテキストファイルにしても約5キロバイトにしかならない。
 上の映像を見るのは一瞬でも見た気になれるけれど、この文章をすべて読もうとするとそれなりの時間がかかる。それでも情報量は映像のほうが断然大きいということになる。映像は一瞬でも感じ取れるかもしれないけれど、細かい部分を見ようとすればもっと読み取れるものもあるのだ。
 『光』では美佐子の故郷の村の場面があるが、村を遠くから捉えたワンシーンにも様々に読み取れるものがある。人里離れた山奥の村であるとか、木々の季節感とか、山の向こうの空の様子とか、人によって見るところは様々だ。しかもこのシーンではよく目を凝らすと張り出した木の枝にはセミの抜け殻がぶら下がっていたりもする。たった2、3秒のシーンでもそうした様々な情報が読み取れるわけで、音声ガイドはそのどこかを取捨選択していかなければならない。

◆人の表情
 それから人の表情を言葉で説明することも難しい。美佐子はある架空の作品にたずさわっているのだが、その劇中劇は主人公の男(藤竜也)と介護されている認知症らしき女の物語だ。美佐子は主人公の表情を「希望に満ちた」という主観的な表現をして雅哉(永瀬正敏)に批判されることになる。
 実際に主人公がそんな表情をしていたのかはわからない。ただ美佐子の選んだ言葉では、受け取った側はほかにどんな解釈の仕様もないわけで、音声ガイドとしては問題ありということになる。この失敗は美佐子がまだ初心者ということが原因でもあるのだが、それ以上に美佐子のプライベートな部分とも関わっている。美佐子は自分が認知症の母親を抱えているという現実もあって、劇中劇の主人公にも希望を見出そうとしてしまうのだ。
 このブログはごく個人的な感想なり解釈なりを書き散らしているものだけに、様々なバイアスがかかっていることも前提となっているし、見方に偏りがあることも当然なわけだけれど、音声ガイドはそうした主観的なものを排除してできるだけ客観的な言葉を選んでいかなければならないのだ。

 『光』という作品は、そうした映画の見方の色々を考えさせる内容となっているところが魅力だろうと思う。たとえば劇中劇では主人公が寄り添っている女にスカーフをかけてやる場面がある。ここでは寒さを気遣う主人公のやさしさが描かれてもいるのだけれど、それと同時にそのスカーフは女の首を絞めるようにも見える。認知症ですべてを忘れてしまっている女を殺して楽にしてやろうという葛藤が見え隠れしているわけだけれど、それを言葉にしようとするとどうしてももたついてしまう(ブログを書いていても日々実感すること)。映像に合わせてそれを的確な言葉に置き換えていくという音声ガイドの仕事は、とてつもなく難しい仕事のようにも思えた。

河瀨直美 『光』 美佐子(水崎綾女)と雅哉(永瀬正敏)は次第に近づいていき……。

◆ふたりのラブ・ストーリー?
 『光』は極端なクローズアップで美佐子と雅哉のことを映し出していく。これは弱視という設定の雅哉の視点に影響されているということなのだろう。弱視の人は対象に近づかなければそれが見えないし、逆に見られる側の美佐子としても相手の目があまり見えていないという意識があるから接近することにも抵抗感が少なくなるからだ。
 そんなふたりが結びつくという展開に必然性がないといった意見もあるようだけれど、それまで極端なアップでふたりを見ていただけに、後半にふたりが急に近づいていってもそれほど違和感はなかった。近くにいれば親近感は湧くわけだから……。ただ「一番大切なものを捨てなければならないなんてつらすぎる」とつぶやいてしまうあたりの過剰な丁寧さと比べると、追いつけないものを追いかけてしまうというふたりの共通点なんかはわかりづらいのかもしれない。映像として描かれていることと、それを言葉に直して理解していくことの乖離が、こんなところにも表れているのかもしれないとも思う。

 美佐子のキャラはどことなく河瀨直美監督自身を思わせる。父親が失踪してしまったというエピソードは河瀨監督の体験そのものだからだ。そんな美佐子を演じる水崎綾女だが、クローズアップで映される表情はとても勝ち気な印象で、ひよっ子のくせに言い負かされたくないという美佐子の造形には水崎綾女自身のキャラも交じっているのかもしれない。
 さらに今回の作品では永瀬正敏のエピソードでも、永瀬自身のエピソードを混ぜ込んでいるようだ。『キネマ旬報』によれば、永瀬は実際にカメラマンとしても活動しているのだとか。それから大事なカメラを盗まれるというエピソードはカメラマンをやっていた永瀬の祖父の体験から来ているようだ。それだけに永瀬が演じる雅哉の姿は悲痛なものなっていたように思う。

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河瀨直美の作品


キネマ旬報 2017年6月上旬特別号 No.1747


Date: 2017.06.04 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (4)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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