ちょっと前に『裁かれるは善人のみ』を取り上げた
アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の過去作品。
日本では去年の年末に2作品同時に公開されたもので、今月になってDVDがリリースされた。『ヴェラの祈り』(2007年)はズビャギンツェフの監督2作目で、『エレナの惑い』(2011年)は3作目。
『ヴェラの祈り』 赤ちゃんができたの、でもあなたの子供ではないの。そんな言葉を妻から投げかけられれば夫が混乱するのは当然だが、この作品のヴェラ(
マリア・ボネヴィー)の夫アレックス(
コンスタンチン・ラヴロネンコ)は妻と真っ直ぐ向き合おうとはしない。一度はヴェラをひどく殴りつけるし、殺してしまいそうだと兄に相談したりもする。ヴェラ自身も積極的にアレックスと話し合うつもりもないようで、そこにそれまでのふたりの関係が感じられなくもないわけで、ふたりの間にできた溝はどんどん広がっていく。なぜヴェラがほかの男の子供を身ごもることになったのか。この作品は謎を秘めたまま進んでいく。
最新作の
『裁かれるは善人のみ』のときも書いたことだが、
アンドレイ・ズビャギンツェフの映画は重苦しいけれど惹きつけるものがある。この
『ヴェラの祈り』も157分を一気に見せてしまう魅力がある。
ただ気になるところもあった。それは描かれる物語に対して手法が乖離しているようにも感じられたところだ。ズビャギンツェフの作品にはアート志向の部分と、エンターテインメント志向とは言わないまでも観客の興味を惹きつけようとする部分があるようだ。
たとえば処女作の
『父、帰る』では12年ぶりに戻ってきた父が子供たちにとって得体の知れない謎として機能していたし、4作目
『裁かれるは善人のみ』では主人公を襲う不幸の連続が観客の興味を惹きつけていた。そうした反面でその描き方はとてもアート志向だった(ロシアの監督ということもあってタルコフスキーと比較されることも多いようだ)。
この
『ヴェラの祈り』は夫婦の不和という卑近な題材に対して、描き方があまりにアート志向で澄ましているのだ。題材としてはもっと男女のドロドロした争いがありそうだが、妙に高尚なのだ。アレックスの実家が雨に打たれる場面を
タルコフスキーみたいな長回しで捉えるのはとても印象に残るのだが、それが夫婦の不和と何の関係があるのかは皆目わからなかった。それから途中で唐突に死んでしまうアレックスの兄のキャラも、この作品のアート志向の手法と齟齬を来たしているように思えた。
アレックスはヴェラの前では終始弱みを見せることがない。ズビャギンツェフが影響を受けている監督だという
ベルイマンならば、もっと夫婦に対話をさせ、けんかをさせて、ふたりをボロボロにさせそうな気もする。もしかすると、ロシアの家父長制の強さがアレックスの態度に表れているのかもしれないのだけれど……。
追記:
『ラブレス』を観たあとになって観直してみた。以前は「夫婦の不和」を描いたものと思えたのだけれど、それ以上にもっとややこしい問題を扱っているように感じられた。
ヴェラは
「私たちの子は私たちだけの子じゃない」と説明する。しかし、そうした難しい議論をうまく夫に伝えられるかは大いに疑問がある。だからこそヴェラは嘘をついてまで夫を試したということになる。ヴェラ自身も説明しかねているのだが、これは実存の不安とでも言うべきテーマだったのかもしれないと思い直した次第。(2018/4/14)
『エレナの惑い』 次の
『エレナの惑い』のほうが『ヴェラの祈り』よりもズビャギンツェフ監督の手法にマッチしている作品に思えた(本当は物語に合わせて手法を選ぶものだが)。
冒頭のエレナが暮らす家の描写がとても素晴らしい。(*1)都会的で洗練され掃除の行き届いた生活感の乏しい家。誰もいないリビングやキッチンだけを映した静かなシーンが続く。エレナ(
ナジェジダ・マルキナ)が目覚まし時計が鳴るのを待ち構えたように起き出すまでにかなりの時間が経過するが、その後もゆっくりとしたリズムで映画は進む。別の部屋で寝ている夫ウラジミール(
アンドレイ・スミルノフ)を起こして朝食を食べ始めるまで会話はまったくないのだが、それだけでふたりの関係の多くを表現しているように感じられた。
エレナはウラジミールの後妻だ。看護師として患者だったウラジミールと知り合い結婚したらしい。エレナの目下の関心事は孫のサーシャの将来のことだ。仕事をしてない息子とその家族たちはエレナからの援助に頼っている。そんなときウラジミールが倒れ、遺言を書くと言い出す。それはエレナには不利なものだった……。
エレナの息子たちの家族はちょっと怠け者だ。誰も真っ当に働かず、たまたま金持ちの後添えとなった母親を当てにしている。そんな怠け者でもエレナにとっては大切な家族であり捨てることはできない。一方のウラジミールは資産家となるだけあって克己心がある。ただ自分が頑張っている分、頑張っていない人には厳しい。エレナの孫サーシャの窮状にも関係ないという態度を崩さない。ウラジミールには娘がいて、自分と似て社交性に欠けた娘を愛しているから、エレナの家族には何も渡したくないのだ(ここでも父親という存在は大きな権力としてあるようだ)。
ウラジミールの娘役では『裁かれるは善人のみ』で憂鬱そうにリリアを演じていた
エレナ・リャドワが顔を出している。エレナにはひどく冷たい顔しか見せないが、父親には意外にも柔和な表情を見せる。ひねくれ者同士は気が合うらしい。そんな娘が
「もうすぐ世界は終わるんだから」などと言っていると、後半ではサーシャも似たようなことを口走る。若者の目にはロシアは未来がないものとして映っているのかもしれない。
『裁かれるは善人のみ』ではロシア正教が世俗的なものとして描かれていると書いたのだが、『エレナの惑い』の教会シーンも同様だった。エレナは教会に夫ウラジミールの快復を祈りにいくが、その作法については何も知らないし、聖ニコライの姿を知らなかったようだ。そんな意味では教会での祈りも苦しいときの神頼みに過ぎないわけで、信仰心に基づいたものではない。
このシーンに関してはDVD特典でズビャギンツェフ監督が説明を加えている。ドストエフスキー
『カラマーゾフの兄弟』のイワンとサタンとの会話からヒントを得たということで、そこには
「俗物的な思想」が表れていると評している。ここでも宗教の役割は低く見積もられているようだ。(*2)
(*1) ファーストカットの朝陽のシーンはどのように撮影したのかと疑問だったのだが、DVD特典のインタビューによれば、あの家自体がセットであり、陽の光は照明だったようだ。
(*2) 『ヴェラの祈り』では「処女懐胎」の絵画が登場したり、聖書が朗読されたりもするが、主人公のヴェラやアレックスとは別の家庭でのエピソードだった。