2015年04月のバックナンバー : 映画批評的妄想覚え書き/日々是口実
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ポール・マッカートニー武道館ライヴ 2015.04.28

 このブログではたまに映画のなかに登場するビートルズのことを書いたりもしているし、『愛しのフリーダ』というビートルズに関するドキュメンタリーも取り上げたりもした。それでもたまたまこのライヴに行くことができたのは、近くに熱狂的なビートルズファン(というかポール・マッカートニーファン)がいたからで、1966年以来の武道館公演に参加できたことは本当にありがたいこと。
 以下のセットリストはその辺からコピーさせてもらったものだが、意外にも前回の武道館ライヴでやったものは2曲のみ。というか、その時は全体でも11曲しかやらなかったそうだし、そのころはジョンがリーダーシップをとっていた時代ということもあるのだろう。
 ライヴでは世界初公開だという「アナザー・ガール」には驚いたし、ビートルズのアルバムでは「ホワイト・アルバム」が一番好きな者としては、「バースデイ」も嬉しいプレゼントだった。定番だけれど、ギターの弾き語りだけで聴かせる「ブラックバード」もやはり素晴らしかった。
 武道館はドームほど大きい会場ではないから、2階席からでもオペラグラスで見れば、かなりはっきりとポールの姿を拝むことができたし、「007死ぬのは奴らだ(Live And Let Die)」で特大の火柱が上がったときには、瞬時にその熱風までも感じることができた。
 同行者が言うことには、ポールはライヴ中に水を飲むことすらないのだそうだ。1966年の武道館を見ている志村けんもそんなことをどこかで話していた(このときの前座がドリフターズだったのとは別の話とか。ちなみに93年の東京ドームでも志村けんを見かけた)。ポールは今回の武道館でも出ずっぱりなのに一度も水を飲むこともなく歌い続けた。ベジタリアンはやはり違うのかどうかはわからないけれど、まだまだ元気なようで、前回の中止が嘘みたいだった。最後は「See you next time!」と去っていったが、それは嘘ではないような気がする。



 4月28日 日本武道館セットリスト
1. キャント・バイ・ミー・ラヴ(ビートルズ)
2. セイヴ・アス(ソロ / 最新アルバム『NEW』より)
3. オール・マイ・ラヴィング(ビートルズ)
4. ワン・アフター・909(ビートルズ)●
5. レット・ミー・ロール・イット(ウイングス)
6. ペイパーバック・ライター(ビートルズ)★
7. マイ・ヴァレンタイン(ソロ)
8. 1985年(ウイングス)
9. 恋することのもどかしさ(ソロ)
10. 夢の人(ビートルズ)
11. アナザー・デイ(ソロ)
12. ダンス・トゥナイト(ソロ)●
13. 恋を抱きしめよう(ビートルズ)
14. アンド・アイ・ラヴ・ハー(ビートルズ)
15. ブラックバード(ビートルズ)
16. NEW(ソロ / 最新アルバム『NEW』より)
17. レディ・マドンナ(ビートルズ)
18. アナザー・ガール(ビートルズ)●
19. ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ(ビートルズ)●
20. ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト(ビートルズ)
21. オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ(ビートルズ)
22. バック・イン・ザ・U.S.S.R.(ビートルズ)
23. レット・イット・ビー(ビートルズ)
24. 007死ぬのは奴らだ(ウイングス)
25. ヘイ・ジュード(ビートルズ)

アンコール
26. イエスタデイ(ビートルズ)★
27. バースデイ(ビートルズ)●
28. ゴールデン・スランバー~キャリー・ザット・ウェイト~ジ・エンド(ビートルズ)

● 今回の来日公演では初披露となった曲
★ 1966年のザ・ビートルズの日本武道館公演でも披露された曲


ポール・マッカトニー 武道館ライヴ カメラが貧弱でこんなのしか撮れなかった。

ポール・マッカートニーのCDなど
Date: 2015.04.30 Category: ライヴ Comments (0) Trackbacks (0)

『Mommy/マミー』 息子を守るための防御壁

 グザヴィエ・ドランの最新作(第5作)。カンヌではゴダールと共に審査員特別賞を受賞した。
 出演はアンヌ・ドルバル、スザンヌ・クレマン、アントワン=オリビエ・ピロンなど。息子役のアントワン=オリビエ・ピロンはどことなくマコーレー・カルキンみたいな風貌で、『ホーム・アローン』のパロディみたいなシーンもあって、ちょっとドランの茶目っ気も感じられる。

グザヴィエ・ドラン最新作 『Mommy/マミー』 画面のアスペクト比は1:1である。


 舞台は架空のカナダ。この世界では「S-14法案」というものが可決されている。これは「発達障がい児の親が、経済的困窮や、身体的、精神的な危機に陥った場合は、法的手続きを経ずに養育を放棄し、施設に入院させる権利を保障」するというもの。
 ダイアン・デュプレ(アンヌ・ドルバル)の息子スティーヴ(アントワン=オリビエ・ピロン)はADHD注意欠陥・多動性障害で問題を起こしがち。施設でも暴力を振るい追い出されてしまい、ふたりは新しい家を見つけることになる。たまたま隣に住んでいた教師のカイラは精神的な問題で休暇中で、彼女の助けも借りて母と子の新たな生活が始まる。

 特徴的なのは画面のアスペクト比が1:1であること。画面の縦と横の比率が一緒だから、正方形の画面になる。ビスタとかシネスコの横長の画面と比べるといかにも狭苦しい。ドランの処女作『マイ・マザー』では人物を横にふたり並べるという構図があったが、『Mommy/マミー』ではそうした構図はほとんどない。1:1の画面では、バストショットを撮るとそれだけで画面がいっぱいになり、ほかのものがほとんど入ってこないのだ。
 そんなこともあってかこの作品には息苦しいところがある。夫を病気で亡くした女が、問題児を抱えて新たな生活をスタートさせるという物語も息苦しい。しかもダイアンは仕事をクビになって職探しをしているし、スティーヴは暴れ出すと手の付けようがない。ダイアンはスティーヴを守るために近所の弁護士と仲良くしてみたりと必死だが、どう考えてもバラ色の未来にはほど遠い。しかし隣人のカイラ(スザンヌ・クレマン)が登場するとちょっとだけ事態はマシになる。
 『マイ・マザー』でも、ドラン演じる主人公の母親役をアンヌ・ドルバルが演じ、良き相談相手となる女教師をスザンヌ・クレマンが演じていた。この『Mommy/マミー』でも似たような関係があり、母親ダイアンは息子に似てガサツな感じで、カイラは母親とは違うあり方でスティーヴを見守っている。
 そんな3人の関係がうまく回りだすと、突然、画面のアスペクト比が変化する。(*1)このシーンはオアシス「WONDERWALL」という曲が流れるが、スティーヴが画面を狭苦しくしている両側の壁を押しやるように手を広げると画面サイズは横長に変化する。それまでの息苦しさがあるからこそ、この部分はやけに爽快な感じがする。しかしそれは長くは続かない。
 さらにもう一度繰り返されることになる画面サイズの変化は、今度はスティーヴの幸せな未来を母親ダイアンが妄想するシーンだ。

(*1) この手法は『トム・アット・ザ・ファーム』でも使っていたが、今回のほうがより効果的な使い方になっている。

『マイ・マザー』のときの画面はこんな感じ。

『Mommy/マミー』の画面はいかにも狭苦しい。

 ※ 以下、ネタバレもあり(ラストに触れていますのでご注意を)。

 母と息子の関係を扱った『マイ・マザー』(原題「I KILLED MY MOTHER」)では、精神的に母親を殺した息子が、両親によって寄宿学校に入れられるが、そこから逃げ出した息子が母親と再会したところで終わる。
 一方で『Mommy/マミー』の最後はより苦いものがある。ダイアンはスティーヴの未来を見据えたあと、「S-14法案」に頼りスティーヴを施設に入れることを決意する。ダイアンの見た未来があまりに現実とはほど遠い絵空事と感じられたからだろうか。あるいは、可愛い息子が自らの手を離れることが耐えられなかったからだろうか。
 しかも、ダイアンはその後のカイラとの会話で、なぜか「希望」という言葉を口にしている。『Mommy/マミー』のラストは、施設に入れられたスティーヴが隙を突いて逃げ出そうという場面で終わっているけれど、『マイ・マザー』の寄宿学校とは違うのだから逃げ出すことは到底無理と思え、どこに「希望」があるのかは私にはよくわからなかった。もしかするとスティーヴを守るための防御壁として、母親という壁だけではもう無理だからということだろうか。政府という巨大な壁のなかにスティーヴを委ねることこそが最善策ということだとすると、なかなか現実的で悲しい話ではある。

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Date: 2015.04.29 Category: 外国映画 Comments (2) Trackbacks (3)

『ザ・トライブ』 聾唖者というトライブ

 カンヌ国際映画祭で批評家週間グランプリなどに輝いたウクライナ映画。
 監督・脚本のミロスラヴ・スラボシュピツキーの初の長編作品。出演者したヤナ・ノヴィコヴァグリゴリー・フェセンコなどは、すべて本当の聾唖者たち。

ミロスラヴ・スラボシュピツキー 『ザ・トライブ』 セルゲイはアナに入れ込んでいき……


 ろうあ者の寄宿学校に入学したセルゲイ。
 そこでは犯罪や売春などを行う悪の組織=族(トライブ)によるヒエラルキーが形成されており、入学早々彼らの洗礼を受ける。何回かの犯罪に関わりながら、組織の中で徐々に頭角を現していったセルゲイは、リーダーの愛人で、イタリア行きのために売春でお金を貯めているアナを好きになってしまう。(オフィシャル・サイトより)

 『音のない世界で』(1992)というドキュメンタリー映画では、聾唖者は健聴者とともに生活していた。その学校では、先生は健聴者で手話によって聾唖者とコミュニケーションもできるし、彼らに話すことを学ばせようともしていた。
 一方で『ザ・トライブ』においては、寄宿学校に一歩入るとそこには言葉を話す者はおらず、音のない静かな世界がある。もちろんそこで暮らす学生たちは手話で意思を通わせているわけだが、ごく普通の健聴者からすると不思議な世界を体験している気持ちになる(長回しが連続し、彼らの生活を追い続けているような感覚も)。
 オフィシャル・サイトの説明だと、聾唖学校の悪いグループを“トライブ”と呼んでいる。学校にはほかにもまともの人もいるのだろうし、聴覚以外にも障害を抱えている人もいたようだ(彼は悪いグループからいじめられている)。
 一般的な“トライブ”という言葉の使い方はよくわからないけれど、園子温『TOKYO TRIBE』あたりを観ると、様々なグループがそれぞれの場所で住み分けているようなイメージを持つ。『ザ・トライブ』における住み分けとは、オフィシャル・サイトの言うような悪いグループとその他聾唖者たちの住み分けを指しているのではなく、健聴者という大きな“トライブ”と、聾唖者というもう一つの“トライブ”の住み分けのことを指しているのだろう。

 妙に気になったのは、「この映画の言語は手話である。字幕も吹き替えも存在しない。」という設定だ。聾唖者の立場に寄り添って、聾唖者の世界を描くフリしながらも、実はそうではないのだと思う。手話という言語が飛び交っているのにも関わらず、それは無視されているからだ。手話が言語であるならば、聾唖者の世界はこの映画で描かれるような世界ではないはずだ。彼らが交わす手話の内容も含めたものが、聾唖者の世界であるわけだから。
 『音のない世界で』では、聾唖者がインタビューに答える場面などでは、その手話に字幕を付けて、彼らの手話の内容がわれわれが話す言葉と変わらない豊かな内容を持っていることを伝えている。その意味では『ザ・トライブ』は聾唖者の世界を描いているというよりも、健聴者の観客が聾唖者たちの姿を覗き見しているようなものなのだ。

 ※ 以下、ネタバレもあり。

『ザ・トライブ』 ウクライナのトイレはこんな感じ。アナはここで妊娠検査薬を試す。

 この作品を観ると、映画において音がいかに大切な要素であるかがよくわかる。たとえば最初に驚かされたのは、夜の駐車場で聾唖者の男がバックしてきたトラックにひき殺されてしまう場面。バックするトラックは警告音を出しているから、健聴者ならそれを回避することができるわけだが、聾唖者の場合には聞こえないからそれができない。“音のない世界”というのは、健聴者にはなかなか想像しにくい世界だが、聾唖者にとって世界はそんなふうであって、それは生きていく上で大きなハンデともなるのであろう。
 そしてこのシーンでは、トラックに巻き込まれる男は、叫び声を上げることもなく静かに死んでいく。だから衝撃的な場面ではあるけれど、ひどく素っ気ない感じもする。サイレント作品などほとんど観たことがなく、今の映画の音響効果とかに慣れすぎている観客としては、あまりのあっけなさに驚くのだ。
 逆に、ラストの衝撃的な場面では、印象的に効果音が使われている。ここでは聾唖者は音が聞こえないがために、隣で殺されている人がいるにも関わらず、それに気がつかず危機を回避することができない。この場面が衝撃的なのは、その音だ。この映画では聾唖者のハンデを、クライマックスを構成する要素としてうまく利用しているわけだ。
 ラストの衝撃はその音にあるわけで、もしも聾唖者がこの映画を観た場合、どのように感じるのだろうか(振動は伝わると反論するだろうか)。“音のない世界”でもそれは衝撃として受け止められるのだろうか。そんなことが気になった。つまり健聴者が観た場合と聾唖者が観た場合、この作品は同じものではないような気がするのだ。
 そんな意味では健聴者の監督は、聾唖者を被写体としてあざとく利用しているようにも感じられた(聾唖者があまりに暴力的で反社会的な行動ばかりしていることも含めて)。聾唖者の世界を描いたように装いつつも、ふたつの“トライブ”の大きな違いが強調されすぎているのだ。ふたつの“トライブ”は住み分けるしかないと感じさせるのが意図ではないと思うのだが……。

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Date: 2015.04.26 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (4)

『セッション』 男同士の戦いの到達点を体感せよ

 第87回のアカデミー賞において助演男優賞(J・K・シモンズ)・編集賞・録音賞の3部門を受賞した作品。
 監督・脚本は『グランドピアノ 狙われた黒鍵』の脚本を担当していたデイミアン・チャゼル。原題は「Whiplash」。これは劇中に使用されるジャズの曲名で、「むち先のしなやかな部分」のことを指す。

デイミアン・チャゼル 『セッション』 J・K・シモンズ演じるフレッチャーはニーマンに檄を飛ばす。


 全米屈指の音楽院に入学したアンドリュー・ニーマン(マイルズ・テラー)は、ある日、フレッチャー教授(J・K・シモンズ)の目に留まり彼のスタジオ・バンドに誘われる。最初は褒めるような言葉ももらしていたフレッチャーだが、練習に入るとニーマンのドラムにダメ出しを連発し、ニーマンを追い込んでいく。

 冒頭、ニーマンでフレッチャーとの出会いが描かれるが、ここでは向かい合ったふたりを真正面からの切り返しショットで捉えている。次のエピソードでニーマンが父親と鑑賞する映画が『男の争い』(ジュールス・ダッシン)であることからも、この作品は麗しい師弟関係など描くつもりなどなく、男同士の戦いがテーマであることを示している。
 とにかくJ・K・シモンズ演じるフレッチャーが登場すると場面が締まる。足音からして正確なリズムと刻んでいるようでもあり、手の動きだけでバンドの動きを操り、時計の音が聞こえるほどの静寂までを演出する。そしてメンバーを罵倒するときの圧倒的なテンション! J・K・シモンズはサム・ライミ版『スパイダーマン』の編集長役で知られるが、この作品ではまさにはまり役で助演というよりは主演と言ってもいいくらいだ。

 その一方でフレッチャーが登場しない場面、たとえばニーマンが女の子を誘ってデートするところなどは間延びした感がある。ニーマンは女の子との楽しい時に惹かれもしたものの、幾分退屈もし、ジャズの世界(=フレッチャーとの戦い)へのめり込んでいく。
 ニーマンは音楽的才能があるけれど、彼の家族でそれを理解する人はいない。家族たちは食事となごやかな会話を楽しみ、平穏無事で長生きするという普通の生活が大事なのだ。フレッチャーからはそんな家族は「負け犬」呼ばわりされる。偉大なジャズマンになりたいニーマンにとっても、そんな家族は歯がゆいものであり、ニーマンは「偉大さ」と「平穏さ」を秤にかけて、「偉大さ」を選ぶ。だからデートにまでこぎつけた彼女もあっさりと捨ててしまう。
 一般的にジャズの世界は選民意識が強いとされるようだ。劇中でも「無能なやつはロックへ行け」という言葉が掲げられている。そんなわけで本作は選ばれた人を称揚し、市井の人々の幸せなどコケにするという、なかなか毒のある作品なのだ。

『セッション』 不敵な笑みを浮かべるフレッチャー。

 フレッチャーの指導が音楽的に正しいのかどうかは素人目にはわからないけれど、劇中の生徒たちでさえも何が正解であるのかをわかっていないようにも見える。ニーマンはドラムのテンポの違いで延々と責められる。フレッチャーの難癖のつけ方は音楽的に正しいかどうかよりも、相手を追い込むことに主眼がある。奏者の限界を越えてさらなる高みへ導くことがフレッチャーの意図だ。
 失敗に対し「Good Job(上出来だ)」などとお茶を濁してしまったらそれで終わってしまう。フレッチャーが語るチャーリー・パーカーのエピソードのように、失敗にシンバルを投げつけられたとしても、本物ならめげることはない。必ず這い上がってくる。そんな信念みたいなものに基づいている。
 スタジオ内のフレッチャーは生徒にとっては神のような存在なのだ。“選民”とは神から選ばれたということであり、この作品ではフレッチャーが選ぶ側の役割を果たしている(ちなみにニーマンはユダヤ人)。神の御心が人間ごときには測りかねるように、フレッチャーの指導も何が正しいことなのかは測りかねる。それでも自らが選ばれた人だと思うならば、神のように振舞うフレッチャーに喰らいついていくしかない。
 ただラストへの展開で明かされるフレッチャーの本性を見ると、神と言っても狂った神であり、単なる人格破綻者だったとも思えるのだが、それは措くとしてもラストの対決はやはり圧倒的だったと思う。

 ニーマンを潰しにかかるフレッチャーに対し、ニーマンは一度は父親の元へ逃げ帰るものの、結局は対決を挑む。そしてフレッチャーの指揮を無視して、バンド自体を乗っ取ってしまう。それからのニーマンのドラムソロの高揚感は凄まじいものがあった。「衝撃のラスト9分19秒!」というキャッチコピーもあながち大げさでもない。
 フレッチャーも最初はニーマンの反乱に怒り狂うが、それでも音楽に興がノッてくると話は別だ。途中、カメラがふたりの間を素早いパンで何度か往復するところがあるが、ここではそれまでのふたりの対決姿勢が、その時だけは共犯関係に変わったことを示しているのだろう。ニーマンはそれまでの限界を越え、フレッチャーを心から頷かせることに成功するのだ。フレッチャーにしても「第二のチャーリー・パーカーを育てたい」という言葉だけは真実だったと見え、最後の瞬間、ふたりの表情はひとつの到達点にある充実感に溢れていた。

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Date: 2015.04.21 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (14)

『マジック・イン・ムーンライト』 マジシャンがはまった“恋のマジック”

 監督・脚本ウディ・アレンの最新作。今回の舞台は1920年代の南フランス。

ウディ・アレン最新作 『マジック・イン・ムーンライト』 ソフィ(エマ・ストーン)が何かの波動を受け取るのを胡散臭く見守るスタンリー(コリン・ファース)


 有名なマジシャンであるスタンリー(コリン・ファース)は、数少ない友人に頼まれ、美人占い師のトリックを見破る約束をする。しかし、その占い師ソフィ(エマ・ストーン)はスタンリーのマジシャンという正体を見破り、彼の叔母の秘密まで言い当てることになり……。

 前作『ブルー・ジャスミン』ケイト・ブランシェットにアカデミー賞をもたらしたものの物語としてはなかなか苦々しい後味だったが、本作『マジック・イン・ムーンライト』はウディ・アレンらしい軽いロマンチック・コメディとなっていて、肩ひじを張らずに楽しめる作品だと思う。
 いつも旬な俳優と組んで、毎年のように作品を送り出しているのは、ウディ・アレン作品ならば俳優の誰もが出演したいと思われているからで、この作品もコリン・ファースとエマ・ストーンという旬な役者が揃っている。
 コリン・ファースは『アナザー・カントリー』(1984年)でも注目されてはいたが、他の面々(ルパート・エヴェレットやダニエル・デイ=ルイス)と比べると地味な印象だったわけだが、『英国王のスピーチ』(2010年)でアカデミー賞を受賞している。エマ・ストーンは『アメイジング・スパイダーマン』シリーズのヒロインで、このブログでも前回取り上げた『バードマン』にも登場している。
 エマ・ストーンは『バードマン』では不自然なくらいの目の大きさが目立ったが、それはやはり彼女のナチュラルなものだったようだ(CGで修正を加えているのかとも疑ったけれど)。『マジック・イン・ムーンライト』でも、エマが演じるソフィを形容するのに“ビッグ・アイズ”という言葉が選ばれていた。ただ『バードマン』の役柄は元麻薬中毒者であり、父親にも素っ気なくて険がある印象だったわけだが、『マジック・イン・ムーンライト』ではだいぶ柔和な印象になっている。

 ※ 以下、ネタバレもあり。

 スタンリーはシニカルで口が悪く、会う人のほとんどから嫌われている。マジックは見る者を驚かせるが、それには必ずトリックがある。その種明かしをすれば誰にでもできるかもしれないし、驚きは納得に変わる。スタンリーはマジシャンとしてそれを知っているからこそ、占いや霊媒師の類いのまやかしを信じることができない。
 理に適っていないソフィのインチキを見抜けなかったのは、スタンリーがどこかでソフィに惹かれていたからなのかもしれない。しかも彼は霊能力を認め、新しい世界が開けたことに喜びを感じる。もしかするとそうした高揚感は恋の悦びだったのかもしれないのだが、スタンリーは鈍感なのかそちらには気がつかない。
 途中で当然のようにソフィのインチキはバレることになる(その黒幕については伏せておくとして)。新しい世界の展開という洗脳はあっさりと解け、それを見抜けなかったスタンリーは恥をさらすことにもなるが、もうひとつの洗脳は解けない。それが“恋のマジック”なのだが、スタンリーは天邪鬼なのかそれをすぐには認めようとはしない。
 スタンリーの叔母はそうした彼の性格を知り尽くし、彼との掛け合いのなかで、彼が自分の恋心に気づき、ソフィと結ばれる方向へと導いていくところがおもしろい。最後はなかなかベタな展開だが、わかっていてもそれなりに楽しい。ウディ・アレンはもう80歳に手が届くというのに、ヌケヌケと“恋のマジック”みたいなことを言ってのけるだから……。

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Date: 2015.04.18 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』 バードマンが与えてくれるもの

 第87回アカデミー賞において作品賞・監督賞(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ)・脚本賞・撮影賞(エマニュエル・ルベツキ)を獲得した作品。
 主演には惜しくもアカデミー賞は逃したものの、久しぶりに存在感を示したマイケル・キートン
 音楽を担当したのはジャズドラマーのアントニオ・サンチェス

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』 主役のマイケル・キートンとバードマン


 20年も前に『バードマン』シリーズのヒーロー役で一世を風靡したリーガン・トムソン(マイケル・キートン)だが、今では落ちぶれていた。リーガンは復活を賭けてブロードウェイの舞台に挑戦しようとしていた。しかし稽古中に役者のひとりが倒れ、代役となったマイク(エドワード・ノートン)もトラブルメーカーで、舞台の成功は雲行きがあやしくなってくる……。

◆作品の背景
 マイケル・キートンはティム・バートン『バットマン』『バットマン・リターンズ』で大スターになった人物であり、『バードマン』の主人公リーガンと似たような境遇にあるとも言える。(*1)最近ではあまり見かけることもなかったが、2014年の『ロボコップ』のリメイク版では、ヒーローを殺そうとする悪役を演じていて、かつてヒーローものを演じた影響下にあることをうかがわせた。
 そんなわけで『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』はリーガンとマイケル・キートンを同一視させるようなつくりになっている。たとえばリーガンが飛行機のトラブルで事故死したとしても、ジョージ・クルーニーが同じ飛行機に乗っていたら、次の日の新聞を賑わせるのはクルーニーの死だけだとリーガンは嘆く。ジョージ・クルーニーは現実に今でもトップ・スターというだけでなく、『バットマン & ロビン Mr.フリーズの逆襲』でマイケル・キートンと同じように“バットマン”を演じていたわけで、この映画では「リーガン(バードマン)」≒「マイケル・キートン(バットマン)」という方程式をうまく使って観客をくすぐってくるのだ。
 また、脇役ではあるが曲者のマイクを演じたエドワード・ノートンは舞台出身だが、『インクレディブル・ハルク』では主役を務めていた。しかも同作では『バードマン』の役柄と同じように脚本にも口を出していたらしい。リーガンの娘サムを演じたエマ・ストーンは『アメイジング・スパイダーマン』シリーズのヒロインである。わざわざそうしたハリウッド的なキャストを使って、ブロードウェイの舞台を演じさせているのも、映画業界と演劇業界の関係をくすぐっているのかもしれない(演劇評論家の女性はハリウッドから来たリーガンを貶しているし)。
 こんなふうに業界の内幕話という現実を、映画という虚構に絡めた物語となっているところに鑑みると、ナオミ・ワッツがほとんど意味もなく唐突にアンドレア・ライズボローとレズっぽいシーンを演じているのは、ナオミ・ワッツの出世作『マルホランド・ドライブ』を意識しているのだろう。そうした諸事情に精通していれば、そのくすぐり方がよくわかるのだろうし、もしかするとアカデミー会員たちもそれをおもしろがってこの作品を作品賞に推したのかもしれない。

◆手法について
 イニャリトゥ監督の『アモーレス・ペロス』『21グラム』『バベル』は群像劇で、「時間と空間の断片化」が特徴的だった(この時期の脚本家ギジェルモ・アリアガの影響か?)。この手法は時間も空間もバラバラの断片的なシーンが、最終的に結びついて物語を構成していくというものだった。今回の『バードマン』それとはまったく異なるアプローチをしている。
 とにかく『バードマン』がすごかったのは、2時間の映画のほとんどがワンカットのように撮影されているというところだろう。撮影監督のエマニュエル・ルベツキは『ゼロ・グラビティ』(アルフォンソ・キュアロン監督)の冒頭でも長回しで観客を驚かせた人物だ。このルベツキとキュアロンのメキシコ人コンビは(ちなみにイニャリトゥもメキシコ人)、その前の作品『トゥモロー・ワールド』でも、長い戦闘シーンをワンカットでリアルに撮影したように見せかける超絶技巧を試していた。『バードマン』はそうした技巧をフルに展開して、2時間をワンカットで撮ってしまおうという意欲的な作品なのだ。
 ただ、その手法は主題に要請されたものというよりも、「誰もやってないから挑戦してみた」という印象でもある。たとえば長回しで有名なヒッチコック『ロープ』では、カメラは殺人犯からほとんど離れることはないし、映画内の時間と現実の時間が一致しているからこそ長回しが効果的だったはず。
 一方で『バードマン』はもっとデタラメなところがあり、リーガン復活劇であるからには彼の姿を延々と追い続けるのかと思っていると、意外にもカメラは別のキャラに浮気をしてリーガンのことを忘れてしまうこともある。さらに映画内の時間はリアルタイムではないために、扉を開けたら時間が経過しているとか、振り向くと別の日になっているなど強引な部分がある。
 つまり長回しとはいっても、それがリアルな現象を捉えたものでないことは明らかで、そんなのも含めてすべてワンカットで撮影したように見せかけているのだ。結局、この手法はイニャリトゥ監督たちが「やりたくてやってみた」ということに尽きるのだと思うのだが、そんな挑戦を個人的には楽しむことができた。

『バードマン』 映画ラストのサム(エマ・ストーン)の表情。


 ※ 以下、ネタバレもあり。

◆物語について 
 物語を合理的に解釈すれば、次のようになるのだろう。落ちぶれた役者リーガンが過去の幻影にすがり、最終的には舞台上で自らの頭を銃でぶち抜いてしまう。ここでそれまで延々と続いていた見せかけの長回しが終わる。その後の病院の場面は、リーガンがそれまで自らを超能力者かヒーローだと思いたがっていたように、妄想の類いである。人間は空中浮遊したり、物を自在に動かしたり、指先をパチンと鳴らすだけで敵を粉砕したりはできないのだから。
 リーガンはプロデューサーが現れると超能力での破壊をやめるし、空中を飛び回って劇場に現れたときには、彼のあとから無賃乗車を叫ぶタクシー・ドライバーが追いかけてくる。それまでにも散々リーガンの超能力があやしいものであることは示されていたのだ。それでもリーガンはかつての“バードマン”というヒーロー像から逃れたくても逃れることのできない運命にある。
 キネマ旬報のインタビューではイニャリトゥ監督はこんなことを語っている。

 時には自分ほどの天才はいないと思うのに、20分後には、いいや自分はダメだ、お終まいだと落ち込む。何とも厄介だよね。でもこの両極端な思いを支配している“エゴ”を映画にしたら、面白いんじゃないかと思ったんだ。


 “バードマン”の存在はリーガンを心のなかで励ます役割もあり、同時に全能感を肥大化させるような部分もある。リーガンは自らを神のような存在と勘違いすることもあるが、次の瞬間には家族内の問題に悩まされ自殺を図ったりもするという不安定な存在なのだ。
 リーガンはブロードウェイでの成功が自分にとっての復活だと考えるわけだけれど、それは娘のサムにとってはどうでもいいこと。サムが見る父リーガンの姿は、ブログとかSNSなんかで自らの存在をアピールしたいという一般人と変らないのだ(アクシデントによりパンツ一丁でブロードウェイを走り抜けることになり、世間の話題にもなってしまう)。
 たしかにスターだからといって、われわれ一般人と何か人間性が根本的に異なるわけではないわけで、落ちぶれたリーガンがもがく姿はそれなりに共感できる部分があるし、最後の希望に満ちたサムの笑顔は、それを単なる妄想だとして切り捨てるには惜しいものがある。
 合理的な解釈では悲劇的な結末にしかならないわけだけれど、その結末はあくまで現実の枠内に物語を収めるためのものでしかないとも言える。イニャリトゥが描きたかったのは、有頂天になってみたりもするし、落ち込んでみたりもするという、人間のあり方そのものだろう。人間は誰しもそんなことを繰り返して生きているわけで、誰にとっても“バードマン”みたいな何かが必要なのかもしれない。誰でも自己を正当化したくなるものだし、それに嫌気がさしたりもするものだから……。最後のサムの笑顔にはそんなことを考えさせられた。(*2)

(*1) マイケル・キートンはティム・バートンの『ビートルジュース』が出世作で、白塗りのハイテンション・キャラを演じられるコメディアンでもある。関係ないが、『ビートルジュース』をかつて地元の劇場に観に行ったら、自分以外誰もいなかったという経験がある。ちょっとびっくりだった。

(*2) と、ここまで書いてきて気がついたのだが、最後のサム(エマ・ストーン)の表情は不自然なくらい目が大きいのが印象的。どこかで観たことがあると思ったら、これはティム・バートンの『ビッグ・アイズ』のそれによく似ている。最後の最後でもティム・バートンをパロっているとしたらなかなか秀逸な遊び心のような気がするが、単にエマ・ストーンの目がデカイだけかもしれない。


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アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの作品
マイケル・キートンの作品
Date: 2015.04.12 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (19)

『ドライブイン蒲生』 ドライブイン現世?

 原作は芥川賞作家・伊藤たかみの小説。
 監督のたむらまさきは75歳で本作がデビュー作であるが、撮影監督として参加している作品リストを見ると、小川紳介のドキュメンタリーから始まって、相米慎二の『ションベン・ライダー』や青山真治の『EUREKA』など名作が並んでいる。
 出演は染谷将太黒川芽以。ゲストとして『ションベン・ライダー』でデビューした永瀬正敏もヤクザものみたいな父親役で登場する。
 去年の8月に劇場公開され、先月にソフト化された。

『ドライブイン蒲生』 蒲生家の姉と弟を演じた染谷将太と黒川芽以。


 娘を連れて戻ってきた蒲生家の姉サキ(黒川芽以)は、最後にもう一度だけDV夫と話をしたいと言う。アイスピックを鞄にしのばせるサキを心配し、弟トシ(染谷将太)もそれに同行する。休業中の「ドライブイン蒲生」というさびれた店を出て街道沿いを走り、夫のところへ向かう姉弟の間には、亡くなった父親の想い出が去来する。

 この作品が退屈だとしたら、人生が退屈なことの反映であるのだろう。
 ドライブインはどこかへ行く途中だから、おいしいものを出してしまっては客を長居させてしまう。だからまずいものを出さなければならない。これは「ドライブイン蒲生」の稼ぎで育ってきたはずトシの言葉である。
 また、トシは「生まれ変わったら何になりたい?」という心理テストでは“仏”と答えている。この心理テストは「今、なりたいもの」がわかるというふれこみだ。“仏”は「悟った人」ということだが、ごく一般には「死んだ人」という意味もある。トシは現世に飽き飽きして死にたいという諦念を持っているのかもしれない。もちろん彼らのようなヤンキーはそんなことを意識しないだろうが、どこかでそう感じているのかもしれないのだ。
 つまり「ドライブイン」とは現世のことなのだ。現世は誰もがたどり着くあの世までの途中であるから、そこに長居してしまうような楽しさや快楽などは差し障りのあるものになる。だからそんな現世を描くこの映画が楽しくあってはならないわけで、その退屈さは意図されたものなのだ。

 原作の舞台は大阪の淀川あたり。「食らわんか舟」とはそのあたりのものらしい。しかし、映画版では首都圏近郊の某県が選ばれている。予算とか様々な事情によるのだろうが、この潤いに欠けた風景は主題にもマッチしていると個人的には思う。
 そこは私の地元にも近い場所なのだけれど、見るべきものが何もないという意味で退屈きわまりない感じを醸し出している。『こっぱみじん』(舞台は群馬県)でも似たことを書いたけれど、あちらはまだ小高い山があって川が流れていた。一方の『ドライブイン蒲生』では街道があって、そこを車が走るだけでほかにはほとんど何もない(街道を走るシーンではほとんど風景は映されないと言ってもいい)。一応橋もあってその下には川も流れているけれど、それすら印象に残らないし、緑豊かな山すらないという殺風景な場所なのだ。葬式帰りの場面なんかはどこにでもある民家の前で撮られていて、呆れるくらい退屈な風景を見せているのだ。
 それから手法として選ばれている長回しも、主人公たちの倦怠を感じさせる時間を観客に体現させるという意味では効果的だったかもしれない。ただ、「退屈」や「倦怠」が主題とはいえ、相米慎二の長回しと比べると何か物足りないような気もする。どこがどう違うのかはうまく説明できないけれど、そういう部分にこそ映画監督の監督たる役割があるのかもしれないとも思う。

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Date: 2015.04.09 Category: 日本映画 Comments (2) Trackbacks (0)
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