第87回アカデミー賞において作品賞・監督賞(
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ)・脚本賞・撮影賞(
エマニュエル・ルベツキ)を獲得した作品。
主演には惜しくもアカデミー賞は逃したものの、久しぶりに存在感を示した
マイケル・キートン。
音楽を担当したのはジャズドラマーの
アントニオ・サンチェス。
20年も前に『バードマン』シリーズのヒーロー役で一世を風靡したリーガン・トムソン(マイケル・キートン)だが、今では落ちぶれていた。リーガンは復活を賭けてブロードウェイの舞台に挑戦しようとしていた。しかし稽古中に役者のひとりが倒れ、代役となったマイク(
エドワード・ノートン)もトラブルメーカーで、舞台の成功は雲行きがあやしくなってくる……。
◆作品の背景
マイケル・キートンは
ティム・バートン版
『バットマン』『バットマン・リターンズ』で大スターになった人物であり、『バードマン』の主人公リーガンと似たような境遇にあるとも言える。(*1)最近ではあまり見かけることもなかったが、2014年の
『ロボコップ』のリメイク版では、ヒーローを殺そうとする悪役を演じていて、かつてヒーローものを演じた影響下にあることをうかがわせた。
そんなわけで
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』はリーガンとマイケル・キートンを同一視させるようなつくりになっている。たとえばリーガンが飛行機のトラブルで事故死したとしても、
ジョージ・クルーニーが同じ飛行機に乗っていたら、次の日の新聞を賑わせるのはクルーニーの死だけだとリーガンは嘆く。ジョージ・クルーニーは現実に今でもトップ・スターというだけでなく、『バットマン & ロビン Mr.フリーズの逆襲』でマイケル・キートンと同じように“バットマン”を演じていたわけで、この映画では「リーガン(バードマン)」≒「マイケル・キートン(バットマン)」という方程式をうまく使って観客をくすぐってくるのだ。
また、脇役ではあるが曲者のマイクを演じたエドワード・ノートンは舞台出身だが、『インクレディブル・ハルク』では主役を務めていた。しかも同作では『バードマン』の役柄と同じように脚本にも口を出していたらしい。リーガンの娘サムを演じた
エマ・ストーンは『アメイジング・スパイダーマン』シリーズのヒロインである。わざわざそうしたハリウッド的なキャストを使って、ブロードウェイの舞台を演じさせているのも、映画業界と演劇業界の関係をくすぐっているのかもしれない(演劇評論家の女性はハリウッドから来たリーガンを貶しているし)。
こんなふうに業界の内幕話という現実を、映画という虚構に絡めた物語となっているところに鑑みると、
ナオミ・ワッツがほとんど意味もなく唐突に
アンドレア・ライズボローとレズっぽいシーンを演じているのは、ナオミ・ワッツの出世作『マルホランド・ドライブ』を意識しているのだろう。そうした諸事情に精通していれば、そのくすぐり方がよくわかるのだろうし、もしかするとアカデミー会員たちもそれをおもしろがってこの作品を作品賞に推したのかもしれない。
◆手法について
イニャリトゥ監督の
『アモーレス・ペロス』『21グラム』『バベル』は群像劇で、「時間と空間の断片化」が特徴的だった(この時期の脚本家ギジェルモ・アリアガの影響か?)。この手法は時間も空間もバラバラの断片的なシーンが、最終的に結びついて物語を構成していくというものだった。今回の『バードマン』それとはまったく異なるアプローチをしている。
とにかく『バードマン』がすごかったのは、2時間の映画のほとんどがワンカットのように撮影されているというところだろう。撮影監督のエマニュエル・ルベツキは
『ゼロ・グラビティ』(アルフォンソ・キュアロン監督)の冒頭でも長回しで観客を驚かせた人物だ。このルベツキとキュアロンのメキシコ人コンビは(ちなみにイニャリトゥもメキシコ人)、その前の作品
『トゥモロー・ワールド』でも、長い戦闘シーンをワンカットでリアルに撮影したように見せかける超絶技巧を試していた。『バードマン』はそうした技巧をフルに展開して、2時間をワンカットで撮ってしまおうという意欲的な作品なのだ。
ただ、その手法は主題に要請されたものというよりも、「誰もやってないから挑戦してみた」という印象でもある。たとえば長回しで有名な
ヒッチコックの
『ロープ』では、カメラは殺人犯からほとんど離れることはないし、映画内の時間と現実の時間が一致しているからこそ長回しが効果的だったはず。
一方で『バードマン』はもっとデタラメなところがあり、リーガン復活劇であるからには彼の姿を延々と追い続けるのかと思っていると、意外にもカメラは別のキャラに浮気をしてリーガンのことを忘れてしまうこともある。さらに映画内の時間はリアルタイムではないために、扉を開けたら時間が経過しているとか、振り向くと別の日になっているなど強引な部分がある。
つまり長回しとはいっても、それがリアルな現象を捉えたものでないことは明らかで、そんなのも含めてすべてワンカットで撮影したように見せかけているのだ。結局、この手法はイニャリトゥ監督たちが「やりたくてやってみた」ということに尽きるのだと思うのだが、そんな挑戦を個人的には楽しむことができた。
※ 以下、ネタバレもあり。◆物語について
物語を合理的に解釈すれば、次のようになるのだろう。落ちぶれた役者リーガンが過去の幻影にすがり、最終的には舞台上で自らの頭を銃でぶち抜いてしまう。ここでそれまで延々と続いていた見せかけの長回しが終わる。その後の病院の場面は、リーガンがそれまで自らを超能力者かヒーローだと思いたがっていたように、妄想の類いである。人間は空中浮遊したり、物を自在に動かしたり、指先をパチンと鳴らすだけで敵を粉砕したりはできないのだから。
リーガンはプロデューサーが現れると超能力での破壊をやめるし、空中を飛び回って劇場に現れたときには、彼のあとから無賃乗車を叫ぶタクシー・ドライバーが追いかけてくる。それまでにも散々リーガンの超能力があやしいものであることは示されていたのだ。それでもリーガンはかつての“バードマン”というヒーロー像から逃れたくても逃れることのできない運命にある。
キネマ旬報のインタビューではイニャリトゥ監督はこんなことを語っている。
時には自分ほどの天才はいないと思うのに、20分後には、いいや自分はダメだ、お終まいだと落ち込む。何とも厄介だよね。でもこの両極端な思いを支配している“エゴ”を映画にしたら、面白いんじゃないかと思ったんだ。
“バードマン”の存在はリーガンを心のなかで励ます役割もあり、同時に全能感を肥大化させるような部分もある。リーガンは自らを神のような存在と勘違いすることもあるが、次の瞬間には家族内の問題に悩まされ自殺を図ったりもするという不安定な存在なのだ。
リーガンはブロードウェイでの成功が自分にとっての復活だと考えるわけだけれど、それは娘のサムにとってはどうでもいいこと。サムが見る父リーガンの姿は、ブログとかSNSなんかで自らの存在をアピールしたいという一般人と変らないのだ(アクシデントによりパンツ一丁でブロードウェイを走り抜けることになり、世間の話題にもなってしまう)。
たしかにスターだからといって、われわれ一般人と何か人間性が根本的に異なるわけではないわけで、落ちぶれたリーガンがもがく姿はそれなりに共感できる部分があるし、最後の希望に満ちたサムの笑顔は、それを単なる妄想だとして切り捨てるには惜しいものがある。
合理的な解釈では悲劇的な結末にしかならないわけだけれど、その結末はあくまで現実の枠内に物語を収めるためのものでしかないとも言える。イニャリトゥが描きたかったのは、有頂天になってみたりもするし、落ち込んでみたりもするという、人間のあり方そのものだろう。人間は誰しもそんなことを繰り返して生きているわけで、誰にとっても“バードマン”みたいな何かが必要なのかもしれない。誰でも自己を正当化したくなるものだし、それに嫌気がさしたりもするものだから……。最後のサムの笑顔にはそんなことを考えさせられた。(*2)
(*1) マイケル・キートンはティム・バートンの『ビートルジュース』が出世作で、白塗りのハイテンション・キャラを演じられるコメディアンでもある。関係ないが、『ビートルジュース』をかつて地元の劇場に観に行ったら、自分以外誰もいなかったという経験がある。ちょっとびっくりだった。
(*2) と、ここまで書いてきて気がついたのだが、最後のサム(エマ・ストーン)の表情は不自然なくらい目が大きいのが印象的。どこかで観たことがあると思ったら、これはティム・バートンの『ビッグ・アイズ』のそれによく似ている。最後の最後でもティム・バートンをパロっているとしたらなかなか秀逸な遊び心のような気がするが、単にエマ・ストーンの目がデカイだけかもしれない。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの作品マイケル・キートンの作品