『グランド・マスター』 ウォン・カーウァイの武闘=舞踏映画
ウォン・カーウァイ監督のカンフー映画。
試写会にて鑑賞。公開は5月31日から。
あのブルース・リーの師匠であるイップ・マンを中心とした、カンフー・マスターたちの物語だ。出演はイップ・マンにトニー・レオン。その他にもチャン・ツィイー、チャン・チェン、マックス・チャン、ソン・ヘギョなど中国、台湾、韓国というアジアのスターが並ぶ。
本編前に日本語版の説明により、中国カンフーの勢力図が描かれる。(*1)詠春拳、形意拳、八卦掌、八極拳、それぞれ個性的な味を持つ拳法であり、それぞれの流派を極めた宗師(グランド・マスター)たちの生き様が中国史の流れとともに描かれていく。
もともと格闘技などの技の攻防は観客を魅了するものがある。勝負の結果以上に、技の応酬こそが観客を沸かせる。中国武術には演舞というものがあるように、その姿は一種の舞としても捉えられるのだろう。ウォン・カーウァイは“カンフーの哲学”を伝えることを意図しているが、その哲学とは「動きの“美”である」とでも言うように、ともかくこの映画のカンフーは美しい。
カンフー映画は様々あるが、その動きをここまで美しく描いたものはなかった。ブルース・リーの映画は本人の強さがずば抜けていたため、相手を一瞬にして蹴散らすという部分が多くなる。その拳は武器以外の何ものでもなく、その姿は神々しくはあるが演舞のようにはならなかった。だが初期のジャッキー・チェンの映画では、ジャッキーは常に若造で、訓練でようやく強い敵に食らいつく。一撃の技はなくても、拳の打ち合いとその防御がダンスのようなアクションとして観客を魅了した。ブルース・リーには乗り遅れたジャッキー世代の人間としては、そんなふうに思う(その後、ジャッキーはもっとハチャメチャな方向へ進むわけだが)。『グランド・マスター』の武術指導を務めるのは、『スネーキーモンキー 蛇拳』『ドランクモンキー 酔拳』などを監督したユエン・ウーピンである。
カーウァイの『楽園の瑕』には武侠アクションがあったが、クリストファー・ドイルの手持ちカメラはブレが大きく何が起きているのかほとんどわからない。しかし『グランド・マスター』はそれぞれの宗師たちの闘いをじっくりと見せてくれる。
宗師それぞれに見せ場が用意され、独自の演舞を見せる。イップ・マンにはブルース・リーが『死亡遊戯』でやったような勝ち抜き戦も少しだけある。しかし、とりわけイップ・マンとルオメイ(チャン・ツィイー)の闘いが見事だった。このシーンの拳のやりとりは、惹かれあうふたりのダンスとして機能している。これは武闘ならぬ舞踏シーンなのだ。こんなラブ・シーンはほかにないだろう。ふたりは初めて拳を交えただけで、お互いを理解したかのように見つめ合って昂ぶるようなのだ。『恋する惑星』では「その時、ふたりの距離は0.1ミリ」とコピーされていたが、『グランド・マスター』でもその距離は恋人たちの距離のようだ。
ただ漆黒の雨のなかの闘いは、『マトリックス レボリューションズ』をイメージさせてしまう。もちろん漫画チックな『マトリックス レボリューションズ』と、実際のカンフー・マスターたちの指導を仰いだ『グランド・マスター』は全然違う。CGIに頼った作品と、フィルムで撮影することにこだわった点でも大きく違う。荒唐無稽なアクションに走るのと、美学を求める点でも違う。けれども武術指導がともにユエン・ウーピンということもあり、良くも悪くも似ている印象を与えてしまう。
またスローモーションの多用としなやかな足の動きや構える指先まで捉えるアップは、カンフーをアクションよりも“美”として読み替えるのに適しているが、それもジョン・ウーのそれを思い起こさせる。服の裾がはためくようなカットなどはいかにもだし、「ダンスのようなアクション」というのは常々ジョン・ウー映画に対する形容だった。そんな点では新味には欠ける印象もある。
かと言ってカーウァイらしさがないわけではない。チャン・チェン演じる八極拳のカミソリは本筋に絡まないが、このあたりはカーウァイらしい。(*2)『欲望の翼』『楽園の瑕』でもそうだが、群像劇こそがカーウァイ映画だったからだ(『恋する惑星』もオムニバス構成)。そうした群像に全体的なまとまりがあるようでないような、ないようであるような。そんなカーウァイ映画の精神みたいなものは感じられた。『グランド・マスター』では、カーウァイ的群像劇を歴史に翻弄される宗師たちに結び付けて、カーウァイ色を生み出している。
(*1) 中国カンフーは北派と南派に大きくその勢力が二分されていたのだとか。漫画『北斗の拳』の北斗と南斗の構図は、このあたりから来ているのかなどと勝手な想像を誘う。
(*2) チャン・チェン演じる八極拳のカミソリは、この作品のなかでは漫画チックな強さを誇る存在だ。カミソリの登場シーンは美しいというよりは、ヒーローものの楽しさがある。
『キネマ旬報(5月下旬号)』には八極拳のマスターの言葉が出ていた。「動いて相手を打つとき、必ず地面で支えなければならない。そこから力を借りるんだ。地面から離れてはいけない。かつて、私より年上の世代の人はみな力をこめて地面を踏みしめ、蹴っていた。地面に穴を開けてやろうというくらいにね」。この言葉通り、カミソリの拳は地面をしかと踏みしめて力強い一撃を見せる。上のポーズなど漫画『ドラゴン・ボール』でそっくりそのまま描かれそうな姿だ。接近戦が得意で手技中心のイップ・マンの詠春拳と、そのスタイルの違いが際立つ。
ウォン・カーウァイの作品
試写会にて鑑賞。公開は5月31日から。
あのブルース・リーの師匠であるイップ・マンを中心とした、カンフー・マスターたちの物語だ。出演はイップ・マンにトニー・レオン。その他にもチャン・ツィイー、チャン・チェン、マックス・チャン、ソン・ヘギョなど中国、台湾、韓国というアジアのスターが並ぶ。
本編前に日本語版の説明により、中国カンフーの勢力図が描かれる。(*1)詠春拳、形意拳、八卦掌、八極拳、それぞれ個性的な味を持つ拳法であり、それぞれの流派を極めた宗師(グランド・マスター)たちの生き様が中国史の流れとともに描かれていく。
もともと格闘技などの技の攻防は観客を魅了するものがある。勝負の結果以上に、技の応酬こそが観客を沸かせる。中国武術には演舞というものがあるように、その姿は一種の舞としても捉えられるのだろう。ウォン・カーウァイは“カンフーの哲学”を伝えることを意図しているが、その哲学とは「動きの“美”である」とでも言うように、ともかくこの映画のカンフーは美しい。
カンフー映画は様々あるが、その動きをここまで美しく描いたものはなかった。ブルース・リーの映画は本人の強さがずば抜けていたため、相手を一瞬にして蹴散らすという部分が多くなる。その拳は武器以外の何ものでもなく、その姿は神々しくはあるが演舞のようにはならなかった。だが初期のジャッキー・チェンの映画では、ジャッキーは常に若造で、訓練でようやく強い敵に食らいつく。一撃の技はなくても、拳の打ち合いとその防御がダンスのようなアクションとして観客を魅了した。ブルース・リーには乗り遅れたジャッキー世代の人間としては、そんなふうに思う(その後、ジャッキーはもっとハチャメチャな方向へ進むわけだが)。『グランド・マスター』の武術指導を務めるのは、『スネーキーモンキー 蛇拳』『ドランクモンキー 酔拳』などを監督したユエン・ウーピンである。
カーウァイの『楽園の瑕』には武侠アクションがあったが、クリストファー・ドイルの手持ちカメラはブレが大きく何が起きているのかほとんどわからない。しかし『グランド・マスター』はそれぞれの宗師たちの闘いをじっくりと見せてくれる。
宗師それぞれに見せ場が用意され、独自の演舞を見せる。イップ・マンにはブルース・リーが『死亡遊戯』でやったような勝ち抜き戦も少しだけある。しかし、とりわけイップ・マンとルオメイ(チャン・ツィイー)の闘いが見事だった。このシーンの拳のやりとりは、惹かれあうふたりのダンスとして機能している。これは武闘ならぬ舞踏シーンなのだ。こんなラブ・シーンはほかにないだろう。ふたりは初めて拳を交えただけで、お互いを理解したかのように見つめ合って昂ぶるようなのだ。『恋する惑星』では「その時、ふたりの距離は0.1ミリ」とコピーされていたが、『グランド・マスター』でもその距離は恋人たちの距離のようだ。
ただ漆黒の雨のなかの闘いは、『マトリックス レボリューションズ』をイメージさせてしまう。もちろん漫画チックな『マトリックス レボリューションズ』と、実際のカンフー・マスターたちの指導を仰いだ『グランド・マスター』は全然違う。CGIに頼った作品と、フィルムで撮影することにこだわった点でも大きく違う。荒唐無稽なアクションに走るのと、美学を求める点でも違う。けれども武術指導がともにユエン・ウーピンということもあり、良くも悪くも似ている印象を与えてしまう。
またスローモーションの多用としなやかな足の動きや構える指先まで捉えるアップは、カンフーをアクションよりも“美”として読み替えるのに適しているが、それもジョン・ウーのそれを思い起こさせる。服の裾がはためくようなカットなどはいかにもだし、「ダンスのようなアクション」というのは常々ジョン・ウー映画に対する形容だった。そんな点では新味には欠ける印象もある。
かと言ってカーウァイらしさがないわけではない。チャン・チェン演じる八極拳のカミソリは本筋に絡まないが、このあたりはカーウァイらしい。(*2)『欲望の翼』『楽園の瑕』でもそうだが、群像劇こそがカーウァイ映画だったからだ(『恋する惑星』もオムニバス構成)。そうした群像に全体的なまとまりがあるようでないような、ないようであるような。そんなカーウァイ映画の精神みたいなものは感じられた。『グランド・マスター』では、カーウァイ的群像劇を歴史に翻弄される宗師たちに結び付けて、カーウァイ色を生み出している。
(*1) 中国カンフーは北派と南派に大きくその勢力が二分されていたのだとか。漫画『北斗の拳』の北斗と南斗の構図は、このあたりから来ているのかなどと勝手な想像を誘う。
(*2) チャン・チェン演じる八極拳のカミソリは、この作品のなかでは漫画チックな強さを誇る存在だ。カミソリの登場シーンは美しいというよりは、ヒーローものの楽しさがある。
『キネマ旬報(5月下旬号)』には八極拳のマスターの言葉が出ていた。「動いて相手を打つとき、必ず地面で支えなければならない。そこから力を借りるんだ。地面から離れてはいけない。かつて、私より年上の世代の人はみな力をこめて地面を踏みしめ、蹴っていた。地面に穴を開けてやろうというくらいにね」。この言葉通り、カミソリの拳は地面をしかと踏みしめて力強い一撃を見せる。上のポーズなど漫画『ドラゴン・ボール』でそっくりそのまま描かれそうな姿だ。接近戦が得意で手技中心のイップ・マンの詠春拳と、そのスタイルの違いが際立つ。
ウォン・カーウァイの作品