大河ドラマ「光る君へ」-特別解説編6

~一条天皇の譲位と三条天皇の確執~
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享保二年(1000年)に彰子が中宮となった時、すでに一条天皇と皇后・定子の間には、敦康親王(あつやす)が誕生していたが、同年の末、定子を産んだ後に亡くなってしまう。
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一方の彰子は寛引五年(1008年)に至り、道長にとって待望の皇子・敦康親王を出産する。寛引八年には病であった一条天皇の体調が悪化すると、道長は譲位を提案する。次に即位するのは皇太子・居貞親王であるが、道長の関心はその次の天皇にあった。譲位後に次の皇太子と得るのは、敦康親王と敦成親王であるが、すでに生母も有力な外戚もない敦康親王の分が悪いのは明白であった。
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寛引八年6月、一条天皇は居貞親王に譲位する。
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三条天皇である。そして、藤原妍子(きよこ)と 藤原娍子(すけこ)の関係は…
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天皇の配偶には皇太子時代より=やす子、藤原娍子(すけこ)、原子、藤原妍子(きよこ)があり。藤原娍子(すけこ)との間には敦明親王、敦儀(あつのり)親王、敦平親王、師明(もろあき)親王を含む6人の皇女子を儲けていた。
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しかし藤原妍子(きよこ)との間には、まだ皇女子はなかった。こうした状況で長和元年(1010年)2月、妍子は立后して中宮となった。道長にとって妍子が皇子を産み、その皇子が皇位継承候補となる可能性も十分にあった。
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有力な後見人の無い藤原娍子(すけこ)立后は異例であり、これをよく思わない道長はあえて藤原娍子(すけこ)の立后と同時に 藤原妍子(きよこ)の内裏参入の行事を行った。他にも三条天皇と道長の間では政策方針に関わる溝が生じていたが、長和三年頃より、道長は三条天皇の眼病を理由に何度も譲位を勧めるに及んだ。
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道長の思惑が孫・敦成親王の即位にあったのは言うまでもない。さらに、同4年に内裏が焼失そうすると、ついに天皇は次の皇太子に敦明親王を立てることを条件に譲位の意向を固めた。】と大河ドラマ・歴史ハンドブックにありました。

参考)特別解説編‐5 ➡ https://digitaleye-edo.seesaa.net/article/505310553.html

記:2024年10月29日

江戸探偵人
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