想いは果てなく、親愛なるビートルズ |ビートルズのことを考えない日は一日もなかった特別対談VOL.6 島村洋子氏 | Dig-it [ディグ・イット]

想いは果てなく、親愛なるビートルズ |ビートルズのことを考えない日は一日もなかった特別対談VOL.6 島村洋子氏

  • 2024.11.21  2024.09.30

多くの著作をもつ作家・島村洋子さん。そのキャリアのスタートは80年代に若い女性の間で人気を博したコバルトシリーズでした。そこで『オール・マイ・ラヴィング』『抱きしめたい』といったタイトルの作品を発表し、自分のルーツであるビートルズへのオマージュを捧げています。70年代後半にエドウィンのCMでバッドボーイズの歌う「シー・ラブズ・ユー」でビートルズに目覚め、『ハリウッドボウル』で決定的となり、とにかく夢中でビートルズを追いかけた80年代を経て、91年にジョージと遭遇するまでのビートルズ体験を振り返ってもらいました。

私はたんぱく質とアミノ酸とビートルズでできている

LPレコード『イマジン』に封入されたポスター

竹部:島村さんとの出会いは、『昭和40年男』編集部あてに手紙をもらったことから始まったんですよね。執筆させてほしいという旨の。お名前は知っていたので、作家先生から直筆の手紙をいただいたことに驚いて、すぐに連絡して会うことになったんですよ。神保町の喫茶店でお会いしたのが最初でした。

島村:最初は昭和の野球のことを書きたいというお願いじゃなかったでしたっけ。

竹部:ちょうど島村さんが『バブルを抱きしめて』を出した頃で、昭和に関する諸々を書きたいという話でした。話をするうちにぼくが関わった『東京ビートルズ地図』の話になって、ビートルズねたで盛り上がったんです。それで、島村さんが職業・ポール・マッカートニーの永沼忠明さんと知り合いだという話からWISHINGのライブに誘われて、という流れでしたよね。

島村:それからすぐに、ジョンの原稿の依頼が来た。

竹部:『昭和40年男』のジョン・レノン特集! あれは「ダブル・ファンタジー展」に合わせたもので、奥田民生さんのインタビューの次のページが島村さんの原稿でしたよね。

島村:言えば原稿依頼が来るんだと思った(笑)。そこで80年12月のジョンの死んだ日の1日のことを書いたんですよ。「私はたんぱく質とアミノ酸とビートルズでできている」って。

竹部:いい言葉だなと思いました(笑)。ビートルズファンって、いろいろなカテゴリーに分けられると思うんですけど、僕の中には2つあって、66年の来日公演を体験した人としてない人、その次がジョンの死を体験した人としてない人なんじゃないかなって思っていまして。ファンにとってこの2つはすごく大きい気がするんですよ。ぼくら世代は当然来日公演には間に合っていないんだけど、ジョンの死んだ日は体験できた。悲しいことだけど誇らしくもあるといいますか。

島村:『ダブル・ファンタジー』が出てすぐのことでしたからね、ジョンはこれからやる気らしいぞって思ったやさきのことで。もうコンサートが決まっていたんでしたよね。 1980年って1月のポール逮捕から始まって12月のジョンの死で終わるつらい1年でした。どっちも冬で、寒くて暗い時期で……。

竹部:だからか、ビートルズは冬が似合う。

島村:いま思い返してもあのときの報道はめちゃくちゃでしたよ。ジョンが死んだのに「イエスタデイ」をかけていたり。

竹部:その証拠映像のビデオ持っていますよ。

島村:なにもわかっていないやつが作っているなと思った。でも当時はビートルズの解散からまだ10年しか経ってないわけで、テレビ局のディレクターたちも、ビートルズを聞いていた世代じゃないかと思うのに、なんでああいう作り方になったんですかね。

竹部:知らない人が作っていたんじゃないですか。松村雄策さんがよく言っていた「クラスにビートルズファンはいなかった」っていうやつ。ビートルズ世代はウソという話。

島村:事件のすぐあとに加藤和彦と竹内まりやが司会をやっていた『アップルハウス』っていう音楽番組で、ジョンの死が取り上げられていて、竹内まりやがウェットにジョンのことを語っていましたよ。

竹部:そうなんですね。

島村:81年からは『ベストヒットUSA』が始まって、最初の頃は「ウーマン」がランクインしていましたよね。

竹部:最初は変なイメージ映像が流れていたんですよ。

島村:「ウーマン」のビデオはジョンとヨーコがセントラルパークを歩いているやつですよね。

竹部:そうなんですが、『ベストヒットUSA』では流れていなかったんですよ。途中から流れ出したんです。「ウーマン」のビデオで覚えているのは、日本では最初にNHKの『ニュースセンター9時』で流れたんですよ。で、そのときにキャスターは「このビデオは今日1回のみのオンエアです」と言ったんです。本当かと思って、目を皿のようにして見ていました。まだ家にビデオがなかったので。その後各局でオンエアされていくんですけどね。

島村:磯村アナの時代だ。でも当時、まだ15、6年しか生きてないと、ジョンの死が人生の中でどのくらい大きい事件なのか、よくわからないんですよ。今思えば試験を受けないっていう選択もあったな、とか思ってしまう。あの日はちょうど期末テストでしたから。それで、ジョンが死んだことをなんとも思わない人もいるんだなってことがわかった。その少し前に大平正芳が内閣総理大臣の現職のまま死んだじゃないですが。それでも別にどうってことなく電車は動くんだなって思って、でもジョンが死んだらさすがにと思ったら、やっぱり電車は動いていた。

竹部:それってまるでRCの「ヒッピーに捧ぐ」じゃないですか。「ヒッピーに捧ぐ」の清志郎のシャウトと「マザー」のジョンのシャウトが重なるんですよ。でも、クラスでジョンの死を悲しんでいる人っていなかったですよね。

島村:いなかった。あまり口をきいたことのない男子が寄ってきて、その人もビートルズファンってことを知ったみたいなことはあった。

竹部:ビートルズファンは少数派でしたよ。

島村:その2、3年前かな、大阪にベイ・シティ・ローラーズが来たんですよ。コンサートに行く人は当日病欠の申請を出さなきゃいけなかったんです。私は先生にもロックファンだと知られていたから、絶対病欠するだろうって思われていたんです。でもロックファンはベイ・シティ・ローラーズには興味ないじゃないですか。ベイ・シティ・ローラーズって歌謡曲ですよね。なんでわからないんだろうと思って。

竹部:それは先生にはわからないかも。でも、森若香織さんから当時のローラーズの人気の凄さを聞いたことがあります。ローラーズの来日騒ぎはビートルズ級だったらしいですね。ローラーズが出ていたキットカットのコマーシャルは覚えています。

島村:あの頃やっていた朝の情報番組でベイ・シティ・ローラーズのコーナーがあって、彼らが出演したイギリスのテレビ番組の映像を流すことがあったんです。そのなかでメンバーが「僕たちの尊敬するグループ、ビートルズ」って言ってビートルズの映像も流してくれたことがあって。それを観たりしていましたけどね。

ビートルズだ、と思ったら実はバッドボーイズだった。

77年にリリースされた『ビートルズ・スーパー・ライヴ(アット・ハリウッドボウル)』

竹部:ローラーズで思い出したんですけど、ビートルズの『ハリウッドボウル』のライブ盤に付いていたライナーノーツの中でジョージ・マーティンが、ローラーズの人気と比較してビートルズの凄さを伝えるくだりがありましたよね。娘に「ビートルズってローラーズと同じくらい人気あったの?」と聞かれて「ビートルズはローラーズどころではなかった」って答える話。

島村:きっと、いつか娘はビートルズのすごさに気がつく日が来るのではないかっていう。

竹部:よく覚えていますね(笑)。ライナーノーツを暗記してしまうくらいあの『ハリウッドボウル・ライブ』は素晴らしいアルバムですよね。あれがなかったことになっているのは絶対におかしい。ジャイルズ版の『ハリウッドボウル』に比べると音の迫力が全然違うんですよ。

島村:女子のキャーは必要なんだと思う(笑)。古今東西、あれほど迫力ある女子のキャーの録音物ってほかにないような気がする。いろんなライブアルバムがあるけども。あれがすごくよかったんですよ。

竹部:確かに。当時のアイドルのライブ盤を聴いてもあそこまでの嬌声はないですよね。フォーリーブスとかタイガースとかのライブ盤を聞いても。『ハリウッドボウル』には女子の本能が録音されていますよね。

島村:ビートルズの音も重くていいんですよ。「ヘルプ!」が始まるときとか。あと「ロング・トール・サリー」も最高じゃないですか。あんな演奏はほかにないですよね。「ロング・トール・サリー」で終わると、もう1回A面にひっくり返して「ツイスト・アンド・シャウト」から聞きたくなる。ライブバンドとしてのビートルズは本当に素晴らしいと思う。

竹部:ジョージ・マーティン版の『ハリウッドボウル』はどうやってミックスしたのかと思うんです。海賊盤のコンプリート音源を聞いても薄っぺらくて迫力はないし。不思議。島村さんはあのレコードを当時買ったんですか。

島村:買いましたよ。お小遣い月3000円なのに、2500円とかしたんじゃないですかね。残額500円でどうやって過ごしただろう(笑)。あのレコードのインナージャケットに印刷されていた写真もいいんですよ。女の子たちの姿、背中の写真もいいんです。

竹部:この会場にいたいと思いました?

島村:66年の武道館と64年のハリウッドボウル、どっちかに行けるって言われたら迷わずハリウッドボウル!昔ハリウッドボウルに行ったことがあって、客席の上から下まで走ってみたんですけど、音響がいいんで驚きました。パーンって手を叩いたらすごく反響して。

竹部:ぼくもハリウッドボウルに行ったことあります。いい場所ですよね。自然に囲まれていて。島村さんは『ハリウッドボウル』が出る前からビートルズは好きだったんですか。

『ハリウッドボウル』のLPの中ジャケ

島村:それこそあれですよ、エドウィンのCMの「シー・ラブズ・ユー」。『TVジョッキー』の間に流れていたんです。ビートルズだ、と思ったら実はバッドボーイズ。リッキーさんの声なんだけど。あの頃、三ツ矢サイダーのCMでもビートルズが流れていたでしょ。

竹部:ぼくはそのCMは見たことないんです。話には聞いたことがありますが。

島村:70年代後半かな。それで『ハリウッドボウル』が決定的。今は皆『ラバーソウル』以降をいいって言う人が多いけど、やっぱり、バンドというものはみんなの前で演奏したときに値打ちがあるものじゃないですか。だから初期の方が好きだなって思うんです。

竹部:そうですよね。僕も一周回って『ハード・デイズ・ナイト』。

島村:1977年、中1の夏に『ビートルズがやってくるヤア!ヤア!ヤア!』が放送されることをテレビ誌で見つけたんです。土曜日の昼だったんですが、すごく楽しみにして待っていたのに映らなかった。よく見たら、それは東京のTBSであって、大阪のテレビ欄ではなかったんです。それで、生まれて初めてテレビ局、毎日放送に電話したんですよ。そうしたら「うちではやらないんです。ビートルズは高いしね」って。でも1ヵ月くらいしたらやってくれたんです。それをテープに録音していつも聴いていました。

竹部:そんな放送があったんですね。

島村:ジョンの吹き替えは広川太一郎でした。

竹部:それは観てみたかった。『ハリウッドボウル』が出た前後は編集盤が出ているじゃないですか。『ロックンロール』『ラブ・ソングス』。『ハリウッドボウル』同様CD化されていないですけど。どういう買い方をしていたんですか。

島村:東芝から出ていた国旗帯のやつを番号順に集めていたんです。とにかく213曲全部聞きたかった。でも、オリジナルアルバムを買うだけでは聞けない曲があることがわかった。たとえば「イエス・イット・イズ」なんかそうですけどね。「イエス・イット・イズ」は『ラブ・ソングス』で聞きました。2枚組で3600円だったかな。あの曲は「ディス・ボーイ」に似ているけど、「ディス・ボーイ」と違ってサビが2回ある。そこが偉いなとか。 あの曲のコーラスはすごくきれいですよね。

竹部:「涙の乗車券」のB面。

島村:それで「ヒア・ゼア・アンド・エブリホエア」っていいな、心が落ち着くなと思ったりして。

竹部:『リボルバー』で聞く「ヒア・ゼア」と『ラブ・ソングス』で聞く「ヒア・ゼア」は違いますよね。

島村:ほかにも「スロー・ダウン」や「マッチボックス」も『ロックンロール』が出るまではEPでしか聞けなかったし、「バッドボーイ」も『ロックンロール』が出るまでは『オールディーズ』で聞くしかなかった。CDになってから『パスト・マスターズ』ですべて聞けるようになるわけですけど。

竹部:213曲をどうやって聴くかってことは、あの頃のビートルズファンのひとつのテーマでしたよね。未CD化という意味では『オールディーズ』もCDにすべき。『赤盤』『青盤』を何度も出し直しするんだったらなおさらですよ。

島村:『オールディーズ』ってすごい満足感あるじゃないですか。シングルヒットって大事だなっていうか。

竹部:我々世代にとっては『オールディーズ』『ロックンロール』『ラブ・ソングス』『ハリウッドボウル』は重要ですよね。

島村:それだけでミーハーなところは抑えられる(笑)。

『ハリウッドボウル』ライブ盤の特典だった東芝EMIの小冊子

竹部:そういう収録曲情報はなんで知ったんですか。

島村:レコード屋でもらった小冊子。東芝が作ったやつ。横長だったかな。それに聞いた曲をちゃんと印をつけていました。ものすごく熱中してやっていたな。

竹部:同じく(笑)。

島村:今の若い子が好きなアイドルのコンサートのためにちゃんと化粧していこうみたいな気持ちと同じですよ。向こうからしたら何万人の1人だから見えないだろうとか思うけど、それは関係ない。私もビートルズに対してもそんな気持ちでした。

竹部:かなり大きな存在ですね。

島村:「ビートルズっていい曲あるよな。僕も好きだよ」みたいな人がいるじゃないですか。私としてはなんでそこで終わってしまうのか。その後の人生が変わらないのが不思議なんです。

竹部:響くか響かないか。人によってスイッチが入る人と入らない人がいるんですよね。僕らは入ってしまった人種なんですが。

島村:ほかのアーティストの曲を聴いて、いいなと思うことはあるけれど、人生が変わることはない。でもわたしにとってビートルズは、白黒だった世界がカラーになるぐらいの驚きがあった。単なる音楽じゃないんですよ。髪型、発言、服装。だからビートルズを聞いたのに普通に人生を送っている人が不思議で……。どうしてそこでとどまったのか。

竹部:この連載は10代の頃の自分を思い出して書いているんですけど、冷静に振り返ってみると、かなり頭がおかしいんですよ。

島村:熱狂的に好きだったという一言では片付けられないぐらいですよね。思いの深さとかはうまく説明できないけれど、24時間のうちに寝ている時間以外はビートルズのことを考えていた。いや寝ているときも考えていたのかもしれない。タイムマシンがあったらあのときのわたしに会って、どういうつもりなのか聞いてみたい(笑)。のどが渇いた人が今水飲まないと死ぬぐらい、そういう感覚でビートルズを聞いていましたよ。

竹部:おもしろいですね(笑)。

島村:そう思うとうちらがビートルズを選んだのではなくて、ビートルズに選ばれたのかも。ビートルズじゃなくてもいいんですけど、何かに熱中するものがあった人となかった人では、人として何かが違うと思いたい。

竹部:ビートルズにとって80年代って暗黒期だったにもかかわらず、熱狂していた自分たちのことを踏まえると、そういう考えになっても不思議ではないです。

島村:80年代は良い時代になるはずだって言ったジョンが早々に死んでしまいますからね。

竹部:ジョンは死んでしまうし、ほかのメンバーのソロ活動は停滞するし、音楽シーンにおいてもビートルズは過去の存在になっていました。

島村:最初の頃はまわりにビートルズファンの友達もいて、映画『ロックショウ』や『抱きしめたい』やファンクラブのフィルムコンサートにも一緒に行っていたんですが、徐々にいなくなって、「どうしてまだビートルズを聴いているの?」みたいなことを言われたりもしました。キッス、チープ・トリック、クイーン、もしくは世良公則に行く気持ちもわからないでもないですけど、基本はなんですかって話で。新興宗教に行くよりも、古くからある仏壇が大事という発想なんですよ。

竹部:石坂敬一さんの言うところのビートルズ原理主義的発想ですね。島村さんは、その頃にはもう作家になろうと思っていたんですか。

島村:小学生の頃から思っていました。本屋に行ったとき、ここに自分の書いたものは売られるべきだと。子どもの頃から作文は上手だったと思いますが、書く気持ちがあるのと、読んでもらえる技術は別じゃないですか。 だから、人に読んでもらえる技術を磨こうとか思っていました。でもその気持ちは誰にも言わずに心の中に隠して、黙っていました。自分の内面を他人に知られるって恥ずかしいじゃないですか。今は皆ブログとかSNSに平気書いているけど、実は恥ずかしいことですよね。

竹部:最近読んだ山田太一のエッセイでも同じようなことが書かれていました。なんでもかんでも晒すものではないって。

島村:わたしも恥ずかしいことだと思って生きていこうと思いますよ。

竹部:実際に作家になってしまうところがすごいわけですが。

島村:そういう業があるのであれば、なるのは自分だろうと思っていました。でも大人になってからは、そういう人が敗北していくんだっていうのはわかったけど。

ネットのない時代は精神的な距離が遠かった

アビーロードスタジオにて

竹部:自分の希望通りの道に進むって、あらかじめの素養と努力もあるけど、タイミングや運、気持ちの部分もありますからね。ヨーコが言っていましたよね。自分で人生を選択しているような気になっているかもしれないけど、実は最初から決まっていたのよって。

島村:そう。私、今はそう思います。年取ると本当にそう思いますよ。それは如月小春がやったインタビューですよね。

竹部:86年かな、ヨーコの来日の宣伝用に作られた番組だったのに、来日が中止になって。最初に島村さんに会ったときもこの話をしましたよね。インタビュー中、ヨーコが「ハンマーって日本語でなんて言うんだっけ?」って言うと、如月小春がすかさず「金づちです」って教えるシーンが印象的だったって(笑)。

島村:あれはいいインタビューなんですよ。ヨーコって『ゲット・バック』を見ると、図々しい女だって思うけど、実はインテリの育ちの上品な女性なんですよね。

竹部:僕らの世代にとっては「キス・キス・キス」の印象が悪かった(笑)。僕、ヨーコさんに3回インタビューしたことがあるんですが、質問を流しているようで、ちゃんと聞いていてツボを得た答えをしてくれる。とても頭のいい人という印象でした。

島村:頭が良くないのに、なまじ勉強できる人が多いからこそ、ヨーコに本当の頭の良さを感じるんですよ。根性が悪いということではなくて、すべての人を見下している印象がありますよね、ヨーコって。それはきっと、自分の方が相手よりも頭が良くて、自分の方が物を知っていると思っているから。他人の話を聞いて勉強する気はない。ビートルズからなにかを学ぼうとする気持ちがあったらあんな態度をとれないはずですよ(笑)。

竹部:たしかにヨーコから下手に出ることはないですよね。

島村:1回もないんじゃないかなと思う。 私らは給料をもらったりするとき、「いつもお世話になっています。ありがとうございます」とか言うじゃないですか。ヨーコはきっとない。ないと思う。死ぬまでそれで行ける人なかなかいないからすごく貴重な人ですよ。

竹部:ジョンもそこがよかったんですかね。自分にこびへつらわない。

島村:それがくだらないことだと思っているんでしょうね。世渡り上手な人ってたくさんいるじゃないですか。それで心がない人。

竹部:ヨーコのソロアルバムを聞いていると、日本人のアルバムだと思わないですよね。英語詞というだけではなくて、完全に日本人という領域を超えていると言いますか。

島村:他者の目線があるっていうことも思ってないでしょ。自分が歌っていいか悪いかも関係ない。この歌は人にどう受け取られるだろうかっていうことも思っていない。マーケティングなしっていうか。「ジョンを目当てにレコードを買ったのに、私の曲が入っていたら、皆さん嫌じゃないかな」と思わないとこがすごい。

竹部:そうですよね(笑)。

島村:この間のメイ・パンの映画の中で「ジョンはヨーコよりも私のことが好きだった」くらいのことを言っているじゃないですか。ジョンがもう少し生きていたらどうだったんだろうって思った。それはどんな仲いい夫婦でも、倦怠期もあるし。

竹部:事件の直前まで連絡を取り合っていたことにも驚きました。

島村:ヨーコから電話がかかってきて、メイ・パンがジョンに取り次いだ瞬間、ジョンの様子が変わって、ヨーコのもとに戻っていったという話。どういう魔術を使ったんだろ。

竹部:それがないとショーンが生まれないので、やはり最初から決まっていたんですかね。ジョンとヨーコのことを考えていると尽きないですよね。

島村:若い頃、ジョンの死のことは必ず小説で書くだろうって思っていたけど、子どもの頃の経験だから、昔と今では考え方が変わるでしょ。あのときはこう思っていたとしても実は違うもので。

竹部:そうなんですよね。「ビートルズのことを考えない日は一日もなかった」は当時のことを思い出して書いてはいるんですけど、いまのフィルターがかかっているんで、当時のままの気持ちではないと思うんですよ。でも、情報がないなかでいかにファンをやっていたかってことをリアルに書きたいと思っていまして。

島村:当時のメインのメディアは月刊誌ですからね。ジョンとヨーコがニューヨークのどこどこに行きましたとか、軽井沢に来ていたらしいとか、数か月遅れの情報しか入ってこなかった。でもいまはポール本人がSNSに挙げてくれたりして、一瞬うれしいって思うけどあまり値打ちは感じられない。

竹部:あまり自分を晒すものではないと。

島村:だからこそジョンが死んでから出た『家族生活』っていう写真集に感動したんですよ。素顔のジョンを見たときの感動と言ったらなかった。軽井沢や上野動物園、香港のタイガバームに行ったときの写真とか、あれこそ値打ちのあるものでした。

竹部:こんなところにもジョンがいたんだみたいな。『家族生活』いいですよね。70年代、80年代は一つひとつのリリースとか活動情報がすごく重かったですね。それがベスト盤であっても書籍であっても。

島村:ネットのない時代は精神的な距離が遠かったです。メンバーはもちろん、ロンドンやリバプールも、東京だって遠かったですよ。初めて東京に来て日本武道館を見たとき、武道館って本当にあるんだって思って感動しましたから。

竹部:当時は最新情報を得るためにはファンクラブに入るしかなかったですよね。島村さん、シネクラブに入っていたんですよね。

島村:シネクラブに入って、シネクラブのインターナショナルっていう特別会員にもなっていましたから。

竹部:インターナショナルに入るということはかなりのファンということですよ。

島村:最初にイギリスに行ったのもシネクラブのツアーでした。87年か88年だったかな。

竹部:80年代のビートルズファンにとってシネクラブは重要な存在でした。僕は会員ではなかったですが、友達が入っていて、よく「復活祭」にも行っていました。

島村:あの頃、動くビートルズはフィルムコンサートでしか見られなかったんですよ。フィルムなのに前日からドキドキするみたいな(笑)。

島村洋子著『抱きしめたい』

竹部:「復活祭」の熱気も独特でしたね。島村さんは85年にコバルト文庫からで作家デビューしますが、その道のりの中で、ビートルズから影響はあったんですか。ビートルズ関連の曲のタイトルを小説のタイトルにしていますけど。『オール・マイ・ラヴィング』『その時ハートは盗まれた』『抱きしめたい』『あの娘におせっかい』『恋することのもどかしさ』……。

島村:少女小説でいちばん売れたシリーズのが『オール・マイ・ラヴィング』ですから。中高校生相手だから村上春樹さんみたいな書き方じゃないんです。主人公が古めの洋楽を聴いてほしいっていう気持ちでタイトルを付けていたところはありました。担当の編集者からも何も言われなかったし。そのとき、ビートルズに思い入れがあって、編集者になったりメディアに関わろうと思ったわけじゃないんだなってわかった。

竹部:どこでもビートルズファンは少数派でしたよ。その頃はもう東京に出てきたんですか。

島村:東京出てきたのは遅かったので、その頃は東京と大阪を行ったり来たりしていました。でも六本木のキャヴァーンには行っていました。

竹部:キャヴァーンは憧れのお店でしたよね。

島村:なかなかビートルズ好きな人に会えないので、ファンがいっぱいいるんだなと驚いた(笑)。チャックさんがメインだった頃、レディバグの時代です。

竹部:僕もキャヴァーンに行きたくて。最初に行ったのは85年、バイト先の女の子を誘って。未成年だったけど入れた。レパートリーが初期の曲だけじゃないことにも感動して。「ユア・マザー・シュッド・ノウ」とか。こういう曲もやってくれるんだって思った。

島村:「シー・セッド、シー・セッド」とかやってくれましたよね。おじさん、おばさん、楽しそうだった(笑)。あの頃のキャヴァーンは盛り上がっていました。ある日、『サージェント・ペパーズ』を全曲演奏するときがあって、当時はまだサンプリングとかもないから、「グッドモーニング・グッドモーニング」のときなんかは本当に目覚まし時計を持ってきて鳴らしていましたよ。そういうこういう工夫もよかったですよね。今なら、なんでもすぐできちゃうじゃないですか。

竹部:アナログ時代の創意工夫がおもしろい。今も続いてる島村さんのコピーバンドの追っかけはその頃に始まったんですか。

島村:そうですね。その頃は、ビートルズのコピーバンドで食べていけるとは誰も思っていなかった時代。やっている人たちも言っているけど、そういうビジネスあると思わなかった。あれを職業にするのは大変だとは思うけど、やる側も見る側も飽きないという基本があるんじゃないですかね。

ジョージが私に言った言葉は「Don’t Exicite」

ジョージとクラプトン共演による来日公演パンフレット

竹部:ビートルズは聞くたびに発見がありますからね。それにソロもあるし。やっぱり生音でビートルズが聞けるっていうのはいいですよね。久々にライブを観たくなりました。それで、この対談で忘れてはいけないのが、島村さんがジョージに会った話です。

島村:私が小学館に出入りしているときに、『ビッグコミックスピリッツ』編集部に、ジョージとクラプトンの記者会見の招待状が1枚あったんです。それで、編集部の人に「ジョージ・ハリスンの大ファンなんです」と言ったら譲ってくれたんですよ。わたしが小説家になりたいと思った理由の一つに優先的にコンサートが観られるんじゃないかということがあったんです。ビートルズの来日公演って遠藤周作や三島由紀夫が行っているじゃないですか。小学生の頃、そういうところにコネをもつといいんだと思ったことが、ここで実現した(笑)。

竹部:全部つながっているところがすごい。

島村:それで、着物を着て行くことを決めて、前乗りでキャピトル東京ホテルに泊まったんですよ。ホテルの裏に日枝神社につながる階段があるんですよね。その階段を上がっていったら降りてくる外国人がいて、それがジョージだったんですよ。ジョージは一人で歩いていました。びっくりして、かなり舞い上がっていたんでしょうね。ジョージが私に言った言葉は「Don’t Exicite」。どんな顔していたんだろうなと思って。怖い顔していたんですかね。会えるのは翌日だと思っていたので、不意打ちで来られるとそれは動揺しますよね。

竹部:至近距離というのが驚きです。二人っきりだったということですか。

島村:そう。時間にして3分か5分か。何を話したのかはさっぱり覚えていないんです。しどろもどろだったんでしょうね。すぐにファンに取り囲まれましたけどね。ジョージが記者会見の前日、日枝神社にお参りしたのを知っているのは世界で私だけです(笑)。以来、日枝神社、を信仰して、毎年必ず御札をもらっています。あの日は寒くてジョージは紺色のコートを着ていたんですけど、そのコートでフライヤーパークに立っている写真あって、このコートだよって言える。

竹部:11月から12月にかけてのツアーでしたよね。

島村:記者会見に前にORIGAMIで朝飯食べていたら、クラプトンがひとりでお茶飲んでいました。ジョージは来なかった……。記者会見はキャピトル東急ホテルの真珠の間。着付けをして、いちばん前の席でジョージを見ていました。質問はしなかったんですが。

竹部:それは貴重な経験ですね。

島村:中学生の頃に読んだ『強くなる瞑想法』って本の中に「リアルに想像するとそれが忘れた頃に叶う」って書いてあって、道端に歩いていたらジョージと偶然に会うっていうことを半年くらい想像してみたんです。それが叶ったと思って……。

竹部:『強くなる瞑想法』気になる。最終的には気持ちなのかな。

島村:ジョージの前にポールが来たときも記者会見に行きましたよ。「マッチボックス」歌ってくれました。

竹部:そのポールの記者会見、会場前まで行ったんですが、一般人だったので当然入れず。見られる人がうらやましくて仕方なかったです。

島村:ビートルズに関してはやるだけのことやったと思う。自分を褒めてやりたいぐらいの気持ちはありますね。

竹部:ジョージの公演はいかがでしたか。

島村:全公演行きましたよ。2週間で10公演くらいありましたよね。東京、横浜、大阪、名古屋、広島。日帰りで戻らないといけないときはアンコールの最中に会場を出たり。あのツアーは「アイ・ウォント・テル・ユー」から始まったんですよね。すごくよかった。

竹部:クラプトンのバンドだったからちょっとおしゃれなサウンドだったのがちょっと戸惑いましたが、来てくれただけでうれしかったですよ。僕は東京ドームで2公演見ました。

島村:ジョージもひげがなくて、カッコいい時期でした。

竹部:そもそもなぜジョージなんでしょうか。

島村:私、前に立つ人があまり好きじゃないので、ポールとジョンは私の担当ではないと思ったんです。ジョージは、歌っているときでも自分から後ろに下がっていく感じがいいなとか(笑)。「俺が、俺が」という姿勢が一切ない、そういうところに惹かれますね。ジョージはアイドルのようにかっこいいんですけど、中身が複雑。だから理解するのが大変なんですよ。いろいろな気づきをくれる人でもありましたからね。声もやさしいし。あとは、アジア的な人ですよね。

竹部:ジョージと言えばインドです。

島村:今だと、映画からインドのエンタテインメントやカルチャーやデザインに興味を持つ人がいるかもしれないけど、わたしが中高生の頃はそんなものはないわけで。それでもアジア、インドに目を向けたのは確実にジョージのおかげです。シタールの音色も好きですから。『バングラディシュ・コンサート』の映画でも1部の演奏もちゃんと見ますよ(笑)。

竹部:それこそ修行と言われる、ラヴィ・シャンカールのシタール演奏……。

島村:落ち着くと言いますか、あれを聞くとすぐ寝られるっていうのもある(笑)。わたしが住んでいる江戸川区船堀にはハリクリシュナ教会があるんです。日本でただ1件だけあるのが船堀。ジョージが好きでハリクリシュナ教会のある場所に住んでいるのかと思われがちなんですが(笑)、本当に偶然。駅前でインドのお坊さんが路上ライブやるときがあって、それをよく聞いているんです。インドには行けないからすごくうれしくて。お釈迦様は自分のやっている仏教はインドでは廃れるだろう、でも離れた島で自分の仏教は伝わるだろうって言っているんですよ。それが私たちなのかなと思うんです。

竹部:なるほど。ちなみに僕も江戸川区出身なんです……。ジョージが感じられる街なんですね。こうやって話を聞いていると、本当にジョージに会えてよかったですね。

島村:本当に。ひとりっきりで道を歩いているところになんか、なかなか会えないですからね。私にとって大切なひとはジョージ・ハリスン、江夏豊、錦織一清。3人とも会うことができたんですから、幸せな人間ですよ。

竹部:今度、錦織一清さんに言っておきますね。今日はありがとうございました!

ジョージの生家、アーノルド・グローブ12番地にて
LiLiCo

昭和45年女

人生を自分から楽しくするプロフェッショナル

LiLiCo

松島親方

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買い物番長

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モヒカン小川

Lightning, CLUTCH Magazine

革ジャンの伝道師

モヒカン小川

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Lightning, CLUTCH Magazine

ヴィンテージ古着の目利き

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アメリカンカルチャー仕事人

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断然革靴派

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編集長兼文具バカ

清水茂樹

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スタンダードな昭和49年男

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ブランドディレクター

おすぎ村

2nd 編集部

2nd(セカンド)

休日服を楽しむためのマガジン

2nd 編集部

CLUTCH Magazine 編集部

CLUTCH Magazine

世界基準のカルチャーマガジン

CLUTCH Magazine 編集部

趣味の文具箱 編集部

趣味の文具箱

文房具の魅力を伝える季刊誌

趣味の文具箱 編集部

タンデムスタイル編集部

Dig-it

初心者にも優しいバイクの指南書

タンデムスタイル編集部

CLUB HARLEY 編集部

Dig-it, CLUB HARLEY

ハーレー好きのためのマガジン

CLUB HARLEY 編集部

昭和40年男 編集部

昭和40年男

1965年生まれの男たちのバイブル

昭和40年男 編集部

昭和45年女 編集部

昭和45年女

“昭和カルチャー”偏愛雑誌女子版

昭和45年女 編集部

昭和50年男 編集部

昭和50年男

昭和50年生まれの男性向け年齢限定マガジン

昭和50年男 編集部