帝国海軍の戦艦扶桑と山城は、 「最も悲しく、そして最も戦艦らしい最期を迎えた艦」 と呼ばれるのはなぜでしょうか?

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レイテ沖海戦の一つ、 スリガオ沖海戦で、西村中将率いる囮艦隊になった戦艦たちです。 旧型なので速力が遅く、途中から主力の栗田艦隊とは別ルートで移動。 目的地まで到達するが、主力艦隊を待てず(来なかったが)狭い湾内を単独で突入。 夜間の敵の正確な射撃と雷撃に晒されながらも全滅するまで戦い轟沈しました。戦果もありました。 西村長官率いる西村艦隊の戦死者は侍です。 合掌。

双方ともスリガオ海峡夜戦の際に、弱点である水平防御力不足が原因で爆沈。 扶桑の場合、魚雷4本命中ののち弾薬庫に引火大爆発という最悪の形で弱点が露呈し、艦が二つに折れ、艦長以下生存者ゼロという悲劇を生んだ。 山城は戦艦を含む敵艦隊のレーダー射撃による集中攻撃を受け、扶桑と同じく火薬庫に引火して大爆発を起しました。この爆発の衝撃は激しく艦橋が前に崩れ落ちたと言われています。生存者は10名足らず(2名とも)。 山城は敵の「袋叩きにあって」壮絶な最後を遂げたといえます。

そりゃまあ、敵戦艦と正面切って撃ちあったんですから、そういった意味では本望でしょう。 ただ、性能の差がもろに結果に出てしまったのはなんとも悲しいことです。